ちーやん夜話集
中村 知先生スカウティング随想
一つ松,幾代か歴ぬる吹く風の
声の清(す)めるは年深みかも 市原 王 万葉集1042
私はこの歌が心にしみるほどすきである。
こういう老松になりたいと思う。
那須にいた頃,特にその感を深くし,この歌を作曲した。
中村 知
は じ め に
中村先生は,昭和25年の暮れから公務として,ボーイスカウトの研究や,資料の翻訳に専念して居られました。その間に,各地の親しいスカウターの要請に応じて,余暇を見つけては,その時々の思いを書き送られました。あるものは県連の機関紙に,あるものは,地区の機関紙に掲載せられて,当時の指導者から,夜話(キャンプ・ファイヤー・ヤーン)として活用され,また,読物としてスカウト達にも深い感銘を与えました。
しかしその後先生の健康がすぐれず,続けて書いていただけなくなり,また昔のものは,散逸したり,書架の隅に埋もれてしまっていますので,せめて一冊にまとめて,リーダー達が,好きな時に読めるようにしたいとの希望が強くなりました。
そこでなんとう誌さきがけ誌の生みの親である松本石翆,住谷豊両氏の努力で,それらの機関紙に出た文が整理され,発行が企画されました。全部を通読した結果,現在でもリーダーの参考になるものも沢山ありましたので,関係者だけでなく,出来るだけ多くの人人に読んでいただきたいと考え,「夜話集」として印刷発行することにしました。
ここに集録されたものは,先生が日本連盟を代表し,見解や研究結果を発表されたものではありません。その時に応じて,私見を書かれたものであります。また,先生にしても,10年20年後の現在も全く同じ考えでないことが多々あると思います。
しかし,われわれには,中村先生ご自身のスカウティングの足跡を見る思いがするし,その精究教理に骨身を削ったお姿に,新らたに敬服の念を覚えます。
この本によって,若いリーダー達が,スカウティングというものを,なおよく知ってくれるとともに,今後自分ながらの研究を進めるための指針にして頂けたら,幸甚に思います。
なお,ここに集録された文は,当用漢字や現代かなづかいにないような先生独得のことばや表現法を交えて書かれてありますが,中村先生の妙味を生かす意味で,大部分をそのままにしました。よろしくご判読下さるよう念のため申し添えます。
ちーやん夜話集刊行会
宮 本 守 雄
村 田 正 雄
松 本 石 翆
住 谷 豊
私 と ス カ ウ テ ィ ン グ
1908年1月24日(明治41年)
英国のバークンヘッドにおいてボーイスカウトは創立式をあげた。創始者は南阿戦役の英雄,陸軍中条ロバート・ベーデン・パウエル(1957〜1941)目的は英国の次代の少年をたたきなおして,大英帝国の危機を救うにあった。そのため軍事訓練だという批判もあったが,教育界は新教育だと見た。それは感覚訓練を土台とし自発自啓,観察力と推理力を通しての人間形成で,大自然の中に教育の場を見出したルソーの教育思潮の20世紀版的展開だと見られたからである。
1908年6月19日(明治41年)
広島商業師範学校長北条時敬先生が万国道徳会議日本代表として渡英の際,文部大臣牧野伸顕氏は,ボーイスカウトを研究してくるよう北条氏に委嘱した。
1909年9月
北条校長は,ボーイスカウトに関する出版物,用具,服装その他を持って帰朝。報告したが文部大臣がかわっていて政府はその報告を受け取らなかった(その内閣の逓信大臣に後藤新平氏がいたのだが,そのことを知らなかった)北条校長は広島において10月17日,将来品を展示した。付属中学校だった私はそれを見た。この将来品は後年,鹿児島市が譲り受けたが空襲のため焼失した。ただ1910年版の "Scouting For Boys " だけは北条氏が日本青年館に寄贈したため残っている。
付属中学校では1907年4月,日本最初の校外生活指導のため通学区域を元として14組の町組を作り生徒の動静,風紀を取り締まった。
1909年4月,町組を校外団と改め,生徒の自治にまかせ,東西中南北,第一,第二寄宿舎の7団とした。そのうち,北部校外団は「城東団」と称し,北条校長の示唆により,班別制度をとってボーイスカウトのやり方を採用した。
団員数は5年生9,4年生5,3年生3,2年生5,1年生8,合計30人,5年渡辺 寛(現存,医博)が団長。私は4年生で班長だった。「城東団歌」は私の作詞。
北条校長は
1913年, 東北帝大総長(初代)に
1917年, 学習院長になられたが広島,愛媛,宮城県の教員たちにボーイスカウトについて数回講演された。(西田幾多郎博士編「 廓堂片影」に講演の要旨が集録してある)。
1923年(対象12年)
私は大阪府立高津中学の歴史科教員となったが,生徒の希望によって校友会にスカウト部を作り,その団長となって1939年(昭和14年)まで在任した。
その校長三沢先生は,私の母校広島高師教授,兼付属中学の主事だった。時に東の伊藤(長七,東京5中校長)西の三沢とうたわれた自由教育の双璧であった。しかも三沢先生は米国留学中,ボーイスカウトの隊長を経験されていたので,全国唯一,公立中学校ボーイスカウトとして私を激励された。
1939年(昭和14年)
私は日本連盟の職員となり,その後大戦のための大日本青少年団に吸収統合されたが,戦後元に復し今日に至る。
中村 知
なかむら さとる
筆名 東野通義
愛称 ちーやん
1893年2月21日
愛媛県松山市に生まれる。(父は福島県人,陸軍士官,母は広島県人)
1906〜1911年
広島高等師範学校(現広島大学)付属中学校在学中,1907年英国に起こったボーイスカウトにつき校長北条時敬先生の視察談を聞き感動し、生徒同志30人と「城東団」を結成し,班長となる。時に1909年11月。この団は1930年まで続いた。
1907年3月
東洋協会植民専門学校(現拓殖大学)朝鮮語学科卒業。朝鮮研究を志し,朝鮮の農山村に生活。(1909年9月)
1922年3月
京都帝国大学文学部史学科東洋史(特に朝鮮史)選科修了。開講された大阪外語に在職1年,眼疾のため学界に見切りをつける。
1923年3月〜1939年9月
大阪府立高津中学校(現高津高校)歴史科教諭。在職17年中,名校長三沢糾先生の提唱によるクラブ活動の一環として「スカウト部」を創設,公立中学校唯一のボーイスカウト隊誕生し、1924〜1939年その隊長となる。
その間1929年ボーイスカウト第3回世界ジャンボリー日本派遣団員に選ばれ,英国に出向きかねてギルウェルパークの国際指導者訓練コース2種類を修了。
1939年9月
少年団日本連盟(現ボーイスカウト日本連盟)教務部長となり指導者養成を担当。
1941年1月
青少年団体統合により大日本青少年団に吸収され,少年部課長,錬成局少年部長となり終戦に至る。
1946年
ボーイスカウト再建のため同志と運動。
1949年6月
新設の広島市立児童図書館長となる。
1950年11月
ボーイスカウト日本連盟那須野営場開設により野営場長となる。
1955年11月
ボーイスカウト日本連盟事務局奉仕部長となる。
1964年4月
ボーイスカウト日本連盟嘱託となり,現在に至る。
1966年11月
永年にわたり社会教育に従事した功績により勲5等瑞宝章を受ける。
盟友 中村 知の 後世にのこしたものは
ベーデン・パウエル卿が英国で,ボーイスカウトを始めたのは,今から55年前の事である。その頃,日本の文部大臣は牧野伸顕で,よく英書を読む人だったので,すぐこれを知り,その進んだ青少年の社会教育法に目をつけた。それで,時の広島高師(今の広島大学)の校長の北条時敬が,英国に道徳会議の代表として出張するにあたり,この調査をもあわせて依頼した。北条はこの前年に英国で発足したこの教育訓練を見て感心し,その文献や用具類を揃えて持ち帰ったが,その直後内閣が変わったので,文部省では,折角のこのよき材料をもてあまし,これを北条に渡した。
そこで北条は,彼の校長をしていた広島高師の付属中学校の生徒にこれを伝え,6個隊を作ってボーイスカウトのような訓練を試みたのであったが,たまたまその一つの城東団という隊の中に,わが中村知少年がいたのであった。彼は子供心にこの野外生活の訓練に大きな魅力を感じ,恩師北条の精神指導にうたれた。そしてこれが彼をして,一生この運動に心身を捧げしめるに到ったのである。
中村知はその後拓大を卒業し,さらに京大で東洋史学を専攻し,大阪府立高津中学(現高津高校)に教鞭を執った。
その頃,わが国にも,少年団運動が起こった。大正3年頃,京都には中野忠八が,まず少年団を作ってこの ベ卿のボーイスカウト式の訓練をはじめたのに,彼もおおいに興味を感じて,中野とも親しく交わり,連絡もとって,彼の高津中学の生徒の中の希望者を集めてボーイスカウトを作り,彼はその隊長として,スカウトの訓練を実施した。
大正11年には,少年団日本連盟(第1代総長,後藤新平)が結成されたので,彼は喜んで他の同志とともにこの傘下にはいり,特に佐野常羽に師事した。この佐野は,英国で親しくベ卿の知遇を得て教えを受け,またボーイスカウトの訓練の本山ともいうべき,ギルウェル実修所に学んで来た人で,大正14年には,富士の山中湖畔で,日本ではじめての指導者実修所を開いた。彼は勇んでその第一期生となって修行し,佐野の人格指導に傾倒した。その後彼は佐野にも愛され,ずっと彼の教えを受け,1929年には英国で世界ジャンボリーが開かれたので,佐野に従って渡英して参加,続いてギルウェル実修所にも学んだ。それで彼は,自身を得,ますますこの道に精進し,一方に高津中学ボーイスカウトの実際指導をしたり,大阪連盟の改造にあたり,一方では佐野に従ってますますこの道の指導者養成面の指導と研究に没頭した。
彼には少年指導に必要なユーモアがある。それでなかなか話題をまいたものだが,その一つを紹介すると,世界ジャンボリーへ行った時,豪雨がきてキャンプの道がドロンコになったので,彼は日本からゲームのためにもって来た竹馬に乗って悠々かっ歩して,世界の少年達を驚かせたが,佐野からは,その茶目っけを叱られたそうだ。また,彼は詩と音楽を勉強して,沢山のよいスカウト・ソングを作詞,作曲した。どれも,彼の体験からほとばしり出たもので,スカウト気分がよくあふれた曲だが,その中にはなかなかのユーモアのきいたものもあって,少年達に愛唱されている。
戦後,わがスカウト運動が再建されるや,指導面に円熟した彼は,本部の専従指導者となって実際指導を行い,那須の常設野営場長を5年務めたが,その間に不幸眼底出血で倒れた。それでもう荒行はできなくなったが,その不自由な眼で,彼は天眼鏡を使って,ベ卿の”SCOUTING FOR BOYS"などの宝典を次々と訳出して,日本スカウト道にバイブル的な光を与えた。もう一つ彼の高津時代の隊員達は,今になって皆立派に成長し,あるいは能力ある外交官,学者,技師長などになって活躍しているが,その中の数人は,また現在の日本スカウト運動の最有力な中堅人物となっている。われわれは,「弟子を自分より偉くつくる」ことを誇りとしているが,彼こそ身を持ってその範を示した男である。
第一代後藤総長は「金を残したり,仕事を残したりするより,人を残して一生を終わるこそ上の上たるもの」といわれたが,彼こそこの言葉を実行して一生を飾る人である。
昭和37年7月記
総長 三 島 通 陽
あ と が き
中村知先生の「ちーやん夜話集」発行の思いたちは,昭和37年「なんとう誌」65号の編集後記に書かれました。この企画については,全国の同志からリーダーへの指針であり,警鐘でもあるとして,大きな期待を持たれ,激励の手紙が各地から届き,故三島総長からも掲載用の一文を拝受いたしました。
中村先生からは「私の文を一冊にするならば,いったい何という表題にしたらよかろうかーーーと勝手に考えること一週間。<流転の野帳>と言う名を考えました。<流転>とは,私の仏教的目ざめ,<野帳>とはスカウト用語,この二つの咬みあわせです」といってこられました。
それから7年間,いろいろな関係でこの話は立消えになっていたかのように見えますが,火の気はどこかでくすぶり続けていました。ふと一本の柴に小さな焔が燃えあがり,それが広がりはじめ,ついにある団のローバーたちが手分けして原文から原稿用紙に書き写す作業が始められました。膨大な原稿用紙の束が完成すると,本格的な作業に移りました。
刊行会の発足,資金面の事,内容の検討,分類整理など,めまぐるしい作業が,夏の第5回日本ジャンボリーが済み,万国博覧会が終了してホッとした気分になるいとまもなく進められました。刊行会は,あちらの家,こちらの事務所と再三再四開かれ,表題も「流転の野帳」「ちーやん随想集」から「ちーやん夜話集」となり,「中村先生スカウティング随想」という副題をつけることになりました。
内容も昭和25年から43年に至る103編にもおよんでいましたが,約20年間にわたって書かれたので,中には次代の変遷とともに,制度の改正があり,また当時の論説主帳が現在実現されているものもあって,次の65編だけを集録いたしました。
大阪BSクラブ
「やまびこ」から 7編
福岡県連盟機関紙
(住谷 豊編集)
「さきがけ」から 11編
大阪南東地区機関誌
(住谷 豊編集)
「なんとう」から 43編
北海道連盟機関誌
(藤井学子編集)
「パイオニア」から 4編
またこの冊子の発行にあたって,日本連盟総コミッショナー渡辺昭先生をはじめ,先達の山口季次郎先生その他,多くの方々,また大阪63団のローバー諸君などのご声援,ご援助に対して,心から感謝の意を捧げます。
中村知先生のスカウティングに対する情熱の一端に触れられることによつて,全国の指導者のみなさんが,少しでもよりよいスカウティングを展開されることを期待してやまない次第であります。
昭和45年12月
第5回日本ジャンボリーおよび
大阪での万国博覧会を終えた年を記念して
ちーやん夜話集刊行会
ちーやん夜話集
頒価400円
昭和45年12月10日発行
発行者
ちーやん夜話集刊行会
発行所 大阪市東住吉区*****
松本石翆
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