中村先生ついに逝く 昭和47年3月1日午前7寺40分



 昭和47年4月18日発行   「はんなん 17号」



 ちーやんという愛称で全国のスカウターから敬愛された中村知先生が,病床5年,79才の長寿ではあったが,ついに他界された。スカウト運動のためには,誠におしいお方を亡くして,痛恨の極みであり,もっともっと長命され,われわれスカウターを導いて頂きたかったと,全国の同志の声が聞こえるようです。 
 本誌に貴重なページをさいて中村先生を偲ぶのは,因縁浅からざるものがあるからです。私と中村先生とは,昭和24年那須野の特修以来23年間,師とも父とも仰ぎ,先生の書かれる随想記を,福岡の「さきがけ」,大阪の「なんとう」と,私の編集するスカウト誌に次々と掲載し,先生のスカウティングに対する御高見を,私がスカウターに伝える役目をしてきたという関係で,この「はんなん」誌にも,続いて番外編として再掲しているからです。
 先生から37.6.3付けの手紙に「私の拙い稿を載せて頂き,ある一部からはお叱りをうけましたが,私としては半分研究発表,半分は遺言みたいなつもりで筆をとってきました」と書いてあります。
 20数年前,私もまだ若かった頃,先生の下で日本で最初の実修所を福岡でやり,「1325,右に独立樹」と大きな声でハイクの先頭にたたれた元気な姿を思いだします。今の若い指導者は,中村先生をご存知ないが,「ちーやん夜話集」を読まれ,先生のけいがいに接したつもりで,正しいスカウティングに取り組んで頂きたい。そして先生がおられたことを,日本のスカウト運動の歴史に残すために,このページをつくりましたことをおゆるしねがいます。

(阪南地区委員長 住谷 豊)






ingとは積み重ね



 Scouting の ing は,英文法上では無論「進行形」と名づけ,『スカウトのことを「なしつつある」』という表現である。「いつもいつも」「今の今も」,「スカウト」である以上,いつもスカウティングである。

 私は最近ある動機から,この ing を進行形以外に,「つみかさね」と解する気持ちが濃くなった。
 その動機というのは,去る11月3日(※昭和33年),東京で行われた,凡太平洋ジャンボリー派遣スカウトの,選抜の面接に上京してきた26人のスカウトの中に,親子2代にわたるスカウトを見出したことに発する。しかもその2人は,父を亡くしたた者で,その父は両方とも日連から鳩章を授けられた功労者であった。スカウティングという,広大にして終局のない永遠の路で,父は途中に於てあえなくたおれ,そのバトンはその息子によって継がれて進行しているのだ! 私は,この進行を,単に進行とのみ考えず,「つみかさね」と考えるようになった。
 ただ,進行するだけでは,横だけの運動である。これを「つみかさね」と見るとき,縦の運動となる。換言すれば,時間的進行だけでなく,「そのモノ自体,実質」の成長進歩を私は考えたいのである。
 「私は30年も,ボーイスカウト運動をやっています」ということには,時間的の進行を示すが,果して彼の30年間の修行は,彼のスカウティングの実質を,とれだけ成長させたか? これは時間とは別のモノであるはず。 即ち,「つみあげ」「つみかさね」が足らなかったら,実質には30年以下...の物と大差ないであろう。

 

 スカウティング創始以来,ここに51年,やがて52年になるので,親子2代にわたるスカウトは,もうザラにある。今や,祖父,父,孫の3代にわたる例が,日本にもぼちぼち出てきた。
 こうして永世にわたって積み重ねられてゆく。これぞ Scouting である。「つみかさね」なくて,何の Scouting ぞや!
 この点でもB−P一家は,模範を示している。B−Pのお孫さんは,スカウトである。

 私は,亡くなったある1人の父スカウトが,今,私の目の前で,テストの答案を書いている子スカウトと大体同じ年頃の時の,同じような考査の時の姿を追憶して,深い感慨にうたれた。

 その夜,仕事をおえて帰宅してみると,この7月末に生まれた私の孫が,宇都宮から来ているのを知った。
 これが,私の3代目の第1号である。私のところの3倍化運動の出発なのだ。

(昭和33年11月13日 記)






主治医としての思い出 高山 芳雄



 最後のご様子

 昭和47年3月1日早朝7時30分,居間の電話が鳴り響いた。中村先生の奥様からである。先生が吐かれたとのこと。悪い予感がする。往診鞄を受けとるや走った。走った。看護婦も走った。
 部屋にかけ上がってみると,やっぱりそうだ。白ろうのようなお顔,夢中で注射,「お父さん,お父さん,苦しいですか」との奥様の叫びに,言葉にならぬ声で応えられた気がする。
 また注射,急いで手を先生のお腹にあててみると,いつもの脈うつ大動脈瘤が触れない。破裂だ,万事休す。心臓の博動も停止した。「奥様,ご最後です。残念です」 ちょうど午前7時40分でした。奥様,令息勝宣君は涙と共に合掌しながら,ガックリと肩をおとされた。
 仰げば頭側に接する書棚,その手前隣のの仏壇,先祖のご位牌,御両親の写真,向こう隣に,B−P卿の写真,どうか先生を温かく向かえてあげてください。と手をあわせて,おねがいした。






医師に対する信頼



 昭和34年9月,先生の眼底出血,動脈硬化症の治療を依頼され,私の胎盤療法をお受けになった。ちーやん夜話集83頁に,智・仁・勇の題のもとに,当時のことを書いておられる。
 以来満13年間,私は主治医として先生にお仕えした。
 顧みれば13年間の月日,先生と奥様は,この私を主治医として信頼し続けて下さった。心筋硬塞のとき,東京女子医大に入院されたのは,私からお願いしてのことであった。
 13年間の闘病生活で,このように一人の医師を信頼し続けるということは,容易にできることではない。しかも家賃の高い都心部を離れたら,と勧めた方もあったが,あえて私の近くに辛抱して下さったことを思うと,先生の奥様のお人柄,スカウトスピリットによるものと,医師としては冥利に尽きることであって,私はいよいよ先生の寿命の一日も長からんことを祈りつつ,お守りしたのであった。






病床の横顔



 「スカウティングとは,どのような境遇の中でも,たとえ病床にあっても,”ちかい・おきて”を守り,人格・健康・技能・奉仕の四本柱に精進しつつ,与えられた任務(スカウター,所帯主,患者・・・としての)を完うすることですよ,ねえー」と,私に語られたことがあったが,先生はその通りを実行された。
 先生はかねて不平というものを余り言われなかった。B−P卿の教えのように,明るい面を見続けられ,軽妙なユーモアでご家族の看護にもよく応えられた。
 亡くなられる8日前の誕生日,2月21日の朝,病床に来られた奥様に,突然「オギャー,オギャー」といわれた。奥様も思わず「ハッピーバースデー」と祝われた,と聞いたのは最後の日から2日前の往診の時であった。






スカウティングに就いての一考察



中村 知            
昭和25年6月号 日本連盟機関誌
ジャンボリー季刊第4号  


 昨年春,広島県のICE図書館で,1948年版の米国のハンドブックを見つけたので,前年版と比較して読んでみると,進級教程の問題が全く改善せられ,初級,二級,一級とも,(1)スカウト精神 (2)スカウト勤務(3)スカウト技能 の3つの部門に分けて,従来の科目が分類されているのに,深く興味を覚えたのである。
 従来ともすれば,技術に走りがちなわれわれに,改めて精神教育,特に「ちかい」「おきて」標語・一日一善の生活実践を協調した点,そして隊員が,家庭・学校・教会・郷土において,スカウトとして他に率先して奉仕するということ,もちろん班や隊での勤務にいそしむことを力説し,考査に際してそれらの実績を報告し,父兄・教師・牧師・隣人達のそれ(奉仕活動)についての副甲裏書(上申書のようなものか)を要する点まで叫ばれているのには,全く驚かされたのである。
 米国にあっては,スカウト教育は,正に社会を改善しつつある,という印象を与えられたのである。
 そこで私は公務の余暇に,ハンドブックを翻訳してみる決心をいたし,5月上旬から始め12月末日をもってついに訳了した。但し,自然研究の部分は,わが国の動植物と異なるものが多いので,省略した。
 終わりの方の技能章教程を訳するにあたって,私は幾度も感嘆の声をあげた。いかにプロジェクト教育法が,巧みに各問題を通じてあらわされているかに感嘆したのである。
 そもそも,ベーデン・パウエル卿がこの教育法に,「スカウト」教育法(斤侯教育法)と名ずけた理由は,彼が騎兵将校として斤侯(スカウト)を教育した,その斤侯教育法に起源していることは言うまでもない。
 スカウティング・フォアー・ボーイズという英国の教範を彼が著したその前の1900年に,ロンドンのアルダーショットから,彼は「エイド ツウスカウティング」(斤侯の手引)という赤表紙小型の斤侯操典(勿論これは兵書である)を刊行したが,その巻末の方を読むにしたがって,彼が後年,ボーイスカウト 即ち少年斤侯のプログラムをプロゼクトする過程がほの見えるのである。
 けれどもこの教育法(プロゼクト教育法)を,スカウト教育法と名ずけたゆえんのものは,むしろ「斤侯を養成する行き方を持ってする教育法」と解釈する方が真意のように思われる。端的に申せば「プロゼクト教育法」と言うのと同意語なのである。

 

 「斤侯を教育するには,まず想定を与えて兵に興味を起こさせ,それによって観察し行動することに,プロゼクトの作用がある。
 行動後,斤侯は上官にそれを報告する。上官はそれに就いて講評する。
 兵はその講評を聞いて反省し,この次には悪かった典を改善せんと決意してつとむ。すなわち向上に資する」こにまた第2のプロゼクトが生起する。
 こうしたやり方で,少年を教育しようというふくみから,「スカウト教育」すなわち「斤侯教育」と名ずけたと解釈できるのである。
 世に言うところの「へいわの斤侯を養成するのだ」という言葉も,誤りではないが,しいて「斤侯を養成する」と,”斤侯”という言葉にこだわる必要もあるまい。(プロゼクト教育法でよい)

 

 プロゼクトするとは,「正確な立案,計画をなし,それに興味による活動力を誘導させ,その行動進行の過程に要領と骨子を掴み,具体的に,ある仕事を成し遂げる教育作業の単元である」と説かれている。プロゼクトメソードと呼ばれる。その作業中に,旧知識 すなわち生活経験が働き,同時にそこから新知識を得る。
 ただし,ギルバトリック氏の説くごとく,行動における問題及び目的の要素を,精神的作業を種とする,という一派もある。






スカウティングは,プロゼクチングだ。



 スカウティングは,プロゼクチングだ。
という考えが,現在私には深いのである。
 そう考えてみると隊長は,隊指導プログラムを立てるにあたって,正確に見通しや狙いをつけてかからねばならない。
 すなわち目的を明らかに,結果の意識を明らかにせねばならぬ。
 次の方法,やり方をどうすればその目的や結果を生みうるかに就いて,深く工夫し,推理し,観察せねばならぬ。
 そんな七面倒なことは,ごめんこうむる。といって興味を覚えないような人は,指導者資格はなかろう。 
 そしてその試行した実績は,詳細に記録してテータを作る。反省の所見も記しておく。それを次回の参考資料に供して,もって自己指導の向上に資する。以上が指導者・隊長としてのプロゼクチングであり,スカウティングであろう。

 そう考えるとき,初級のなになにをパスさえすれば,進級できる,という考えは反省に値する。
 テストにパスさえすれば良いのではない。パスするまでにたどってきた,伐り開いたそのプロゼクトに価値があるのである。
 例えば,地形図の読み方 という科目について,私のプロゼクトは,何月何日 xxxxという本で,「地形とは地表と地物の2つの総称で・・・・」ということを知った。所用時間 何分。
 こうしてデータを添えてテストを受けるのが私は正しいと思う。テストにおいてわずか不十分と査定されても,これだけ業績を積んだのなら,立派なものだから,合格にしてあげよう。という場合もあろう。逆から言えば,このデータからして,テストの出し方も案出されよう。

 私は次のような「進級プロゼクト報告」データ用紙(※省略)を全国的に刊行実施されたいと思う。 何回と何時間の努力で,成し遂げたか,方法は? 結果は? 一目で判るのだ。隊員全員もこれを記すが,(隊長は)指導のプロゼクトとして,これに類するデータを作るべきである。
 スカウティングは理論でない。実践である。講義や資料の受け売りではない。自己のプロゼクトの積み重ねであり,体験の科学的反省による向上であろう。
 私は同じ15才の少年でありながら,米国のスカウトと日本の少年との人間としての育ち方と養われた実力の差,業績の差を思わずには居れない。
 米国の少年に比べて,日本のスカウトのよちよちとした歩みを思うとき,私は夜も眠れぬような無念を感ずるのである。
 日本の指導者各位,自惚れを捨てて,やるなら真剣にやろうではないか。






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