指導者のタイプについて
私は、スカウターの中に、「教える」ことのうまい人、或いは、「種子を蒔くこと」のうまい人と、「育てること」のうまい人との二種の、カタ(型、タイプ)があるように思う。
「教える」ということも、教育現象の立派な一つの分野である。それは、「真理を正しく教え」「それに近ずき、それを追及する方向を示す」という業務をもつからである。オリエンテーションである。真理とは「在るべきところ」のことで、ザイン(sein)である。それを教えるのが「教」の本旨であって、この分野は、小学校から大学、さらに大学院を貫く教師の仕事である。ただし、教師だけがするもので、教師以外の者はしてはならん、とはいわない。私は、あまり好きではないが、例のマスコミ(新聞、出版、放送、映画 etcの共同攻勢)にしろ、これに参加して、いろいろな解説とか啓蒙をやっている。しかし、それだけでは「教育」の片面しか達せられないことを、よく知るべきである。
他の片面とは、「育」である。これは、ザインに向かってゾレン(sollen)する「行動」を意味する。和の用語でいえば、「在るべきところ(即ち、真理)に向かって、在らしめる(ゾレンする)こと」である。ベストを尽くす−−−マコトを尽くす−−−ということばはこれにあたる。
「在らしめる」−−−という表現に二つある。本人はイヤでもムリに在らしめる場合と、本人の自発活動によって「在らしめ」ようと、「自分」を発動するのを、第三者(親とか、先生とか、スカウターとか)が、これを助け、はげます意味での「在らしめ」方との二種の場合である。私は、アトの方の場合のことをいうているつもりである。「育てる」とは、これをいう。私は、商品価値を増さんがために、本人が極力イヤがるのにかかわらず、針金でくくったり、まげたり、切ったりして、盆栽(ボンサイ)の松の木を育てるような、育て方は、断然とりたくない。
育てる−−−という仕事には、短気は最大の禁物である。気永くこれを見守らねばならぬ。本人の意思を尊重せねばならない。
またあまやかしてもいけない。本人の心になり、本人の気にならなければ、反撥を買う。よく本人の個性と個体(身体)を知らなければならない。本人の生活環境をよく観察せねばならない。本人の特技と、そのウィークポイント(弱い点)も知らなければならない−−−。
私は、日本の教育界を、大局からのぞき見て、「教」の面だけは一応、先進国に追いついたが、「育」の面は、残念ながら非常におくれているだけでなく、おくれていることに政治家も教育家も、文化人も、気づいていないと、思う。
この盲点に、一番深刻に気づき、そして、その分野に献身出来る人は、おそらく、スカウターであるにちがいあるまい−−−という所感を抱くのでこの一文を草した。
B−Pのやり方は、結局、「育」の一語につきるように思う。そして彼自ら、それを実践し、実践から教理を発見し、その教理に基づいて、道を立て、道心堅固、ついになしとげた。のだと思う。
(昭和34年2月16日 記)
ユーモアの功徳
およそリーダーシップをとる人に、大切なことは、ユーモアである。ユーモアを発散出来ないような者はリーダーとして失格ではなかろうか? またユーモアを解しない者は、スカウトとしても、一流のスカウトといえないのではなかろうか? そんなことを私は、永年考えて来た。
私が昔、大阪で高津中学の教員をしていた頃は、今の社会科が、地理、歴史とわかれており、歴は、1〜2年生が国史、3年生が東洋史、4年生と5年生の1学期が西洋史、5年生の後半が上級国史というふうになっていた。私のところでは、2年の3学期から東洋史にはいって、3年の2学期に西洋史にはいることにしていた。ところで、歴史の中でも東洋史というしろものは、教える先生も苦手であり、教わる生徒も面白くないとみえて、なかなか乗ってこない。その理由の一つは、東洋史専攻の先生が極めてまれだったこと、即ち先生みづからが、わかっていないことにある。田舎の中学になると年寄りの漢文の先生が兼務するのが例で、話術や講談調でゴマかすか、漢詩 をうなって人気をとるかして間に合わせていた。当時、国史の先生は大体右翼型、西洋史の先生は左翼型だったようだが、それが東洋史をも教えるとなると、いきおい帝国主義や軍国主義や赤印に傾いてしまう。国史や西洋史のアタマでは、到底コナせないあるものが東洋史にはあるのだが、それが先生たちにも消化できないのだ。
それはそれとして、東洋史の始めの方に、戦国の七雄というのがある。七雄とは、今の中国の黄河の沿岸から、揚子江にかけて勢力を示した、沢山の小政府の中の七つの大勢力圏で、秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓である。私はこれを暗記させる方法として、お経みたいな声を出して「シン、ソ、エン、セイ、チョウ、ギ、カーン」とやったら、生徒は面白がって口真似をし、みんながケッコウ暗記してしまった。
この要領で、南京に都した六つの朝廷、即ち六朝の名も「ゴ、トウシン、ソウ、サイ、チョウ、チーン」(呉、東晋、宋、斉、梁、陳)とたちどころに生徒は暗記できた。そしていわく「チーヤン先生は、オモロイやつやなあ」と来た。
大正14年7月、私の隊は、宮津線の由良川から宮津まで移動野営をやった。2泊3日の行程だった。今から考えると私も新米で初級の者も移動野営につれていったものだった。
災熱の路上に2人の初級(中学1年)は、リュックを背負ったまま、小休止5分間の短い時間、ヘタばって、グウグウ、イビキをかいて寝る有様。班長が「出発!」と号令をかけても中々起きない。当時32才の若い隊長の私は例の茶目ぶりを発揮して「デッパツ」と大声で叫んだものだ。すると寝ていたドビンもシャモジ(彼等のニックネームです)もスクスクと立ち上がって歩き出した。出発−−−をデッパツといいかえただけで、みな爆笑して、元気をもり返したのである。これ、青少年独特の真理なりと一席ぶちたいところである。
叱らずして自発活動を誘い出すにはユーモアに限ると思った。私のような気むづかしい理論屋は、特に、この逆手(ぎゃくて)を必要とする人間なることを自覚している。
B−Pにしろ、ローランド・フィリップスにしろ、ユーモアにかけては人後に落ちない達人であった。これを欠くならば、青少年は、決してついて来ない。ユーモアはレクリエーション、即ち疲れをなおす再生薬である。ビタミンB1B2かCみたいなものらしい。
昭和の9年か10年、上加茂で年少部の実修所があるので入所した。すでに少年部の実修所の隊長役を数回つとめた奴が、実習生として入って来る。と、いうわけかどうか知らんが、私の班は直径30センチもある根っこを、三つも堀りかえさねばテントが張れないサイトを与えられた。平地の班は、ゆうゆうと夕食を食べているのに、わが班は、汗だくで土ほり中である。「難行苦行はカブにはない筈やないか」と、一人がボヤイた。すると一年志願兵出身の高松少尉殿(現在、住吉大社宮司)が、「ナニをいう。スカウトに難行があるか!」と一発ボエンをくらわす有様。その時班長役の私の口から無意識に出たのが、「ウスクィ、ヴィ、ヴィ、ウスクワッ、ヴァ、ヴァ、ジーボン、アークックー」という南阿のイェールであった。
このトテツもないイェールによって、みんな、不思議な元気が出て、作業はどんどんはかどって、テントも張り、夕食もすみ、最初の夜の営火の時間に間に合い、しかも営火の演出に優勝したのには、班長の私もあ然とした。営火のだしものは、相談する時間もなかったので、「爆弾三勇士」をやった。長い棹を三人でもって燃えてる火の中に本当に飛び込んで、向こう側に、ひっくりかえって戦死するだけで、残りの三人は、そのとき、バーンと叫んで、バケツと箱をたたくだけ…。実に今でいう、ブッツケ本番ものだった。
私はこの時、もし、あのイエールがなかったら、この班は最後まで愚痴をくり返し、班精神なんて到底生まれなかったろうと思う。イエールの効果はユーモアを呼ぶからで、それが、イエールの持ち味であろう。ソングと違う点である。しかし、ソングでもユーモラスのものもあってよい。そう考えた私は、その種のものも若干作っている。
「おうMy班長」だの「スカ天狗の漫遊記」だの−−−。
「スカウトは、ユーモアに励む」というものを雑誌に書く気になったのも私のこうした自発活動のほとばしりによる。
(昭和34年5月12日 記)
跳び越えるべきもの
“Aids to Scoutmastership ”(「隊長の手引き」)の巻末に、B−Pは「平和と善意の人類」という項目をあげ、その説明には一字一句も示さずして、1人のスカウトが帽子をとばしながら木柵を跳び越える絵でこれを現わしている。
その木柵は5本の横木があって、上から自己中心、民族的嫉視(しっし)、信教の相違、階級意識、不機嫌、という文字が書いてある。即ち、この5つの障害を跳び越えなければ平和と善意の人にはなれないぞ、という示唆である。
スカウターとして、跳び越えなければならない柵が、この外にもあると私は思う。それは、天狗、名誉欲、虚飾等々である。「実修所を修了したくらいで一人前の指導者になったなどと思うな」とよく注意される。しかし、その程度の初心者の天狗はまだ可愛らしい。稚気愛すべきでその「ほこり」が時には役に立つこともある。
ところが、実修所に10回も奉仕し、講師をつとめたり、所員になったり、副所長だ所長だ、中央、地方の役員、さては受章されたなどと、経歴がつき兵隊の位でいうと、少将や中将になったような気のするオエラ方の天狗振りは、これとは異なって誠に感心出来ない。それはどんなことによって表れるかというと、「うむ、そんなことは、もう、とうに知っている」ということによって代表される。
私は知っていることを知らぬふりをしなさい。と、いうているのではない。知っているということが、いかにその逆を意味するかに自ら驚くからいうのである。
知らなかったことを本当に知ったときの愉悦感、そして知らせて下さったものへの感謝、よろこび。
そういう、よろこびの連続がスカウティングだなァと、いうことを、私は今回の第1期日本ギルウェル実修所で感じた。
子供というものは、知ることを喜ぶものである。大人である私のスカ天狗の戒めとしたい。
(昭和32年6月12日 記)
よく考えてみよう
大正某年のある夜、あるRSの冬の集会に招かれた。夜もだんだんふける頃。「一日の終」の合唱で閉会となった途端、会衆は、誰いうとなしに、机上の密柑の皮や、菓子皿や、茶碗などをきれいに片づけ始めた。この何でもないたちふるまいは、ぼんやり立っていた私を驚かせた。むしろ驚いた私自身のぼんやりさに自分自身が驚いた。
昭和某年のある日、某大学RSの最初の集会に招かれた。今は、私の余り好まない「ちかい」の合誦(ちかいは個人個人のもので一生一度のものと思うが故に、私は、この方式を好まない)をもって閉会となった。来賓は退場したがRSたちはまだ残って雑談を続けていた。机の上には、皿や、密柑の皮や、灰皿が雑然とそのまま放置されていた。誰一人として片づけようとしない。それはこの大学の学生食堂のボーイさんの仕事だ。と、いう限界が守られているかの如く。
私は次のように考える。
人工衛星に乗せられたライカという名前の犬は、乗せられるまでに、条件反射の訓練を、何カ月かにわたって施されたのだと報ぜられた。条件反射とは、ソ連の生んだ世界最初の大脳生理学者、ノーベル賞受賞者の、パヴロフの立てた実験的学説である。彼は、犬を試験台として唾液分泌の条件反射の研究を始め、唾液分泌という作用は、ある与えられた刺激が大脳皮質部に届いて、そこの神経に働いて、その司令部が、ちょうど電話交換台のように唾液を出させる別の神経に命令を発することによって起こるという説である。そのため、犬に食餌を与えるたびごとにベルを鳴らす。それを何十ペン何百ペンと繰り返して施すと、犬は、食欲とは関係なしに、ベルの音さえ聞けば、唾液を出すようになる。これを条件反射と名づけたのである。かようにして第2の天性というか、ひとつの習慣が作られる。 その習慣は、人間の場合は人格を形成する。ある程度の形成が出来たら、今度は、条件を与えなくても自分の自発活動、乃至は無意識に、条件を与えられた場合と同じような行動をとるようにまで発展して来る。こうなると無条件反射になる。ライカ犬は、どんな外界からの刺激が来ても順応出来、死なないように訓練されたというのだ。
ソ連はこのパヴロフの学説をスポーツ界に用いて、選手を養成しているという。100米などの短距離レースでは、走法などというものは、世界各国とも、もう研究され尽くされ、技術的には進歩の余地がないほど改善されてしまった今日、問題は、スタートの号音を耳にした瞬間、1秒の何百分の一か、何千分の一か知らないが、他の走者より一刻も早く、最初の脚筋を動かす運動神経の、始動を起こした者が勝者になる。問題は条件反射の敏速さにある。こう考えて、ソ連は全スポーツのトレーニングの核心をここに求めた。そして、各種目に、メキメキと世界制覇をなしつつある、というのである。誠に、ソ連式唯物観の勝利だ。
集会が終わると反射的にすぐ机上を片づけるというのは、一種の条件反射と考えられはしないだろうか? それを何度も繰り返すと、しまいには、習性となる。「ひとのお世話はするように。そして、むくいを求めぬよう。」−−−と初代の総長、後藤新平先生のいわれた言葉(これは、スカウティングという言葉の解釈になる)を、本当に実践し、身につける方法の一つとして、条件反射による方法が考えられるように思われるが、どうだろうか?
「ちかい」と「おきて」の実行も、また、条件反射の繰り返しによって、身につくのではあるまいか?
ただ、問題はこれを自発的に行うか、それとも、強制的に他律的にやらされるか、にある。ある一つの型に、強圧的にはめこまされるための、条件反射実験の道具に供されたのでは、たまったものでない。
英国初期の立派なスカウトの一人故ローランド・フィリップスの著書「班長への手紙」第1集、第2集から発見した言葉の一つ二つを紹介しよう。
「『ちかい』『おきて』は、これを実行しなければ何にもなりません。実行するその第1歩は、技能章をとることです。」
「救急法が出来ない者は『おきて』第8の実行は出来ないのです。質素−−−貯金する(Saveする)−−−も人命救助(Save)も、同じくSaveすることですから。」
「キャンプの炊事場で、不潔な手やきたない炊具で炊事する者は、『おきて』第10(日本では第11)に反する。と、いわれても、いたし方ありません。」
以上は唯心的なのか唯物的なのかよくよく考えてみよう。
2月ともなればオリオン星座は凍った中天に、きれいに光る。B−P祭は、毎年、この光の下で迎えられる。
パヴロフがノーベル賞を獲ったのは1940年である。B−Pは条件反射の学説をスカウティング構成のためにとり入れたか、どうか、私は知らない。知らないから、知りたいのである。ただし、その時の受賞は条件反射のための受賞ではなく、その過程として(後世からみれば)の消化腺の生理学として世界最初の受賞であったので、私のこの想像的設問には多少の無理があることは自認する。
私が私に発する質問として−−−
お前は、条件反射を人格造立のための、一方法として考えることは、可能であると思うているが、パヴロフの世界はどこまでも唯物論の世界であると、いうことを忘れてはならない。どちらかといえば、永年、唯心論的世界観の領域の中に、人間完成の成長過程を歩んできた東洋人、なかんづく我々日本人には、そこまで非情に割り切り得ないものがあると、いうことを、考えの一隅においてから、考えてみることにしてはどうだろう?
とにかく、よく考えてみるんだな。1957年英国での国際会議で、スプライ氏が重大な情報をもらした。それは、ソ連が最近BS運動を採用したという報道である。
ロシアは、1909年早くもB−Pを迎え、時の皇帝はB−P卿に会見して、この運動に熱意を示した国であるが、革命後、ピオニールと名づける赤色少年団に改編して、我々の仲間から脱退してしまった。共産圏諸国も、これにならって皆脱退して今日に到っている。
私は、ソ連は、あるいはスカウティング界の一角に唯物派を設定するのではなかろうか、と、想像する。恐らくそれは、スポーツ界に示したように、パヴロフの理論を基とした条件反射を方法としての展開ではあるまいかと、推測する。もし、これがスポーツ界で成功したような結果をもたらすとするならば、米国BSを上廻る一大BS国となるかも知れない。しかし、やり方によっては、犬のような人間が出来るかも知れない。
私の予見が、誤りでないとするならばモンキースカウトではなく、ドッグスカウトが出来ることになる。(何らかの意図の光栄のためのギセイに供される者。イヌザムライ)
故に我々は、分析を充分行って検討せねばならんし、よく考えてみなければならない。
イヌの年の作文だと思って読んで頂きたい。
(昭和33年1月1日 記)
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