児童憲章(そんなものがあったことを忘れている人も多かろうが)の中に「児童は総て人として尊ばれねばならない」と規定されている。一体、児童の何を尊ぶべきなのか? 「人格をだ!!」と、誰かが叫ぶ。「自発活動をだ!!」と、私は叫びたい。結局同じことになりはするが、あとのいい方の方が、より具体的だと思っている。子供を私有物だと考える母、これは母性愛のゆきすぎだと批判される。子供は国有物である、と、何年か前の全体主義的国家主義者は叫んだ。児童憲章は、それを拭い去ろうとしているのだが、さて現実はどうであろう?
スカウティングの一つの要素に「スカウティングに対しての忠節心」あるいは、「道に対する忠節心」「この運動への忠節心」ということが要望されている。世界大戦後のスカウト国際会議のテーマにさえなった。この言葉の意味、その解釈ならびに忠誠心のあり方については決して一様でなく、色々の考え方があると私は思う。しかし、何れにせよ、道とか運動とか、スカウティングへの忠誠心であって、「人」に対する忠誠心とは異なる点を注目したい。「Aさんが理事長をしているあいだは、僕はひっこんで第一線に出ませんよ。」とか「あんな奴がコミッショナーだなんて笑わせる、うちの隊は、自分とこだけしっかりやっとればそれでええ。当分地区の集会には欠席ですわ。」と、いうような声をよく耳にする。これは皆、「人」に対する忠誠をやっているわけで余りにも、「人」にこだわりすぎている。日本のスカウティング、40年の歴史をもちながら伸び育たない原因の一つである。「法」(または「道」)と、「人」と、そのどちらに君は忠誠を尽くそうとしているのか?
話を元に戻す。しかし、弟子のがわからは、どこまでも師と仰ぐべきである。「たとい師の法然上人にだまされて一生を台なしにしても、私は一つも後悔しない」と、云った親鸞上人のあの信じきった師への尊敬は絶対である。であるからこそ、師になってからの親鸞には非情にならざるを得ないことになる。「人」への忠誠心と「法」或いは「道」、我々の場合は「スカウティング」への忠誠心との岐れ目である。君は、どの道を選ぶか? 君の自発的活動にまかせるほかはない。それが、君のスカウティングなのだ!!