あるローバーたちは、前述のごとく、奉仕に引き出されるならば自己研修が出来なくなるという。そして損だと考える。私は、この段階の人たちに、次のような図を示したい。
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* 自 * * 奉 *
* 己 * * *
* 研 * * *
* 修 * * 仕 *
* * * *
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このように、彼らは、ふたつに分けて考えているらしい。ところが、私は、こう考えている。
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* 自 * 奉 *
* 己 * * *
* 研 * * *
* 修 * 仕 *
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その理由は、奉仕することによって自己研修が深まり、自己研修によって、奉仕もまた進歩するからである。そして二つの円のかさなっている部分は、自己研修すなわち奉仕であり、奉仕即自己研修であって、どちらか片っ方だけでない。と思うのである。
B−Pが、最後のメッセージに述べたところの、真の幸福というものが、丁度この部分にあたるように私は思う。すなわち他人の幸福をはかることによって自分の幸福を得る、という思想である。東洋思想では、これを、「徳」と云う。「徳を養います」−−−とは正に、これをさしている。私は、こういう奉仕が、本当の奉仕だと思うのである。
滅私奉公のような、自分をギセイにする奉仕−−−は、まかりまちがうと、とんでもない奉仕になりそうだ。なぜか? これは売名的になったり、人権を無視した強制になりがちだからである。奉仕によって自己も活かされねばならない。自己を殺したのでは、それは奉仕ではなくて、虐殺である。自殺を美化したものにすぎない。いいかえれば、義侠心を満足させるだけのための奉仕であるならば、それは自己満足は出来るだろうが、人は迷惑せんとも限らない。報償をアテにした打算的な、交換条件的な奉仕は、胸糞がわるくなる。名誉心にかられた奉仕も、ずいぶん世の中にはあるものだ。
結局、「善」とは何か? という課題と同じようなことになってきた。「奉仕」とは何か???
これは純粋無垢の善や、無条件の奉仕をした人だけが答えられるもので、そのようなことを、まだ、したことのない私には、いくら頭をひねっても答えられないのは、甚だ残念である。
私は、ひとの答案をひっぱり出して、ご覧にいれるほかはない。
中国の古哲人、老子は−−−善行無轍跡(ゼンコウ、テツセキ、ナシ)と答えた。善行の純粋なものは、車の通ったあと、ワダチ(轍)のあと(せき)がひとつも残らない。輪跡がない、というのである。ひとに見せびらかそうにも何もない。まことに空気のような善行だ。
印度の聖雄とうたわれたガンジーは、「真の善行は、純潔な者だけが、なし得る」と答えた。「善行をひとつ、してやろう」などと考えてから善行するような作為の人間は、もうすでに不純だ、というのである。いわんや善行したら、ほめてくれるだろう、などと、報酬を予期するような善行は、不純だから善行ではない、と、いうのである。
ここで私は、「スカウトは純潔である」という、おきて第11を思い出して、冷や汗が出た。
英国のおきて第10にこれがある。英国のおきて(Law )は、最初9ヶ条だった。ところが、みんなが、もう一つふやして第10に「純潔」を入れてほしいと、B−Pにおねがいしたところ、B−Pは最初は反対した。その理由は、おきての第1から第9までをひっくるめてぶつかっても、「純潔」には勝てない。それほど純潔という徳目は比重が大きいのだ。もし、これを第10に加えるならば、純潔の比重は10分の1にしかならない。とんでもないことだ、というのであった。B−Pのこの説明は、大いに味わうべきもので、おそらく、ガンジーの言葉と相通ずるものがあるであろう。とにかく純潔は、10分の1ではないぞということを土台として、結局、おきての第10に加えたそうである。(レイノルズ著、“Boy Scout Movement”による。)
実行した人の言葉には、力があるものだ。B−Pの云う「自分への奉仕」という言葉を味わいたい。