日本ボーイスカウト茨城県連盟
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  #008 アンノン・ソルジャー

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太平洋戦争の末期、南洋の島々で日米両軍の死闘がくりかえされていた頃、南太平洋のある島に出征したソルトレーク市出身の1アメリカ兵が、日本軍と戦闘で負傷して気を失い倒れてしまった。気がついたとき、友軍は引揚げたあとで、周囲にはだれもいなかった。そのとき、銃剣を手に恐ろしい形相で突撃してくる日本兵の姿が目に映った。銃剣がのどもとに迫るのを見たとき、そのアメリカ兵はふたたび気が遠くなったが、その瞬間、彼は幼いときからボーイスカウトに入っていたので、無意識のうちにボーイスカウトの敬礼(三指礼)をしていた。

しばらくして、ふと気がついた。だれもいなかった。起きあがってあたりを見回すと、かたわらの木の小枝にぶら下がっている小さな紙片が目についた。ひろげてみると、英語でつぎのように書いてあった。

「自分もかつてはボーイスカウトだった。ボーイスカウトは世界の人すべてが兄弟だ。3つの誓いをあらわす“三本指”を見てスカウトとしての気持ちがよみがえり、兄弟であり傷ついているきみを殺すことができなかった。手当をしておいた。1日も早く回復してほしいGood luck!」

のち、負傷したこのアメリカ兵は本国に送還された。この話を聞いたそのアメリカ兵の父親は非常に感激し、これこそ真の兄弟愛であると、ボーイスカウトアメリカ連盟事務局長シャック博士に伝え、これが1952(昭27)年4月19日、ソルトレーク市で開かれたアメリカ第7地区のボーイスカウト年次総会の席上、同博士から発表されたのである。その後、この話は同国ボーイスカウトの雑誌「スカウティング」「ボーイズ・ライフ」や新聞にも報道されて反響をよんだ。戦場でアメリカ兵の生命を助けたこの日本兵は、おそらく戦死したのではないかと思われているが‥‥。

ボーイスカウト精神をあらわす“三本指”から生まれた元日本兵とアメリカ兵のこの秘話は、ボーイスカウトアメリカ連盟本部から日本に派遣されたフィンネル博士によって明らかにされ、日本の新聞にも報道されて波紋を投げた。

のち、この波紋は日本中のスカウトの募金運動にまで発展し、久留島秀三郎(当時の総長)らが中心になって、無名のスカウト戦士の記念像が「子供の国(神奈川県)」にできあがった。

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  #007 アンノン・スカウト

 それは、1909年の秋のことだった。イギリスの都ロンドンは、この日も一日中濃い霧に包まれていた。アメリカのイリノイ州シカゴからロンドンにきた出版業のウィリアム・ボイス氏は、市の中心部で、ある事務所を探していたが、道がわからなくなり困りはててしまった。そのとき霧の中からひとりの少年が近づいてきて、こう告げた。

 「何かお役に立つことはありますか?」

ボイス氏は、事務所がわからなくて困っているというと、少年は先に立って、その事務所までボイス氏を案内した。ボイス氏はアメリカ人の習慣で、少年にチップをあげようと、ポケットに手を入れた。しかし、ボイス氏がチップを取り出す前に、少年は勢いよく右手を挙げて敬礼をした。

 「僕はボーイスカウトです。今日も何か善いことをするつもりでいました。お役に立ててうれしいと

  思います。スカウトは、他の人を助けることで、お礼はもらいません。」

 と少年は言った。この姿に感激したボイス氏は、少年からボーイスカウトのことを聞き、自分の用事をすませてから、今度はその少年にボーイスカウトの本部まで案内してもらった。ボイス氏が少年の名前をたずねようとしたときには、もう姿を消していた。イギリスの本部でボーイスカウトのことをくわしく調べ、ベーデン-パウエルに合ったボイス氏は、一層感銘を深めた。

 アメリカに帰ってから、大統領のタフト氏などに話して、やがてアメリカでもボーイスカウト運動が始められたのである。

 その少年は、どうなったのだろう。その後は、だれも知らない。しかし、だれも知らないこの少年の小さな善行が、海をこえてたくさんのアメリカの少年にボーイスカウトを伝えるもとになったのである。現在、アメリカは世界有数のスカウト人口をかかえる国になっている。

 

 

○その後のアンノウン・スカウト

 

1926年、アメリカ独立150周年を記念した祝典の中ですでに100万人に発展したボーイスカウト・アメリカ連盟ではアメリカのボーイスカウト発展の基礎を築いたボイス氏を表彰しようとした。しかし、彼はそれは、霧のロンドンの名も知れずに立ち去っていった一人のイギリス・スカウトの善行のおかげてあるといって、その表彰をことわった。

そこでアメリカ連盟は、このひとりのスカウトへの感謝をこめて、イギリスのギルウェルパークにアメリカ野牛の像を贈った。その後この台座にはこう刻み込まれ

ている。

 「忠実に日日の善行を行ったことによって、ボーイスカウト

運動をアメリカ合衆国にもたらしてくれた、名も知れぬボーイ

スカウトに捧げる」

一人の人に対して行ったひとつの小さな善行が、何百万ものア

メリカ少年への善行となったのである。少年を通じて結ばれた

愛国心のシンボルとして、訪れる人々に深い感銘をあたえてく

れる。

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  #005 ナイヤガラの氷事件

 何年か前,私が,カナダにいたとさ,おそるべき出来事が,ナイヤガラの滝(たき)でおこりました。ま冬のことでした。1人の男と,そのおくさんと,17才になる少年の3人が,橋をわたっていました。その橋は,流れの早い川にかかって,氷がはって出来た橋でした。とつぜん,めりめりと音がして,氷の橋は,一部分こわれたのです。男の人と,そのおくさんとは,もとの氷から,われて流れ去りつつある,ういている氷のひときれの上にのりうつったのですが,少年は,それとはべつの氷の上にのりました。

 まわり一面を見ると,水は,はかのういていた氷の上をながれ,氷と氷とはたがいに,こすりあい,ぶつかりあって,とても,およぐことなんかできません。また,のりうつれるようなポートも,そこらに一つもなかったのです,もうただ,ながれのままに,まかすほかはない。そのながれは.ここらでは,ゆっくり,ながれ,よどんでいますが,だんだん,おかまいなく,かれらを下流(かりゅう),1マイルかなたの,おそろしい急流(きゅうりゅう)に,はこんでゆくのでありました。

 この,きけんな,ありさまを,川岸で見ていた人々または,見に来る者がたくさんあつまってくるけれども,1人として,たすけようとして,なんらかの手をうつ人はないようでした。この川すじは,二つの橋の下をとおる。それは,急流にかかるすぐ手前のところに,かけられているのです。

 1時間はど,この,きのどくな人々は,ういた氷とともに,ながされて,この地点までやってきました。橋の上では,人々が,ロープをかまえ(橋は,水面まで160フィートの高さにあった)それをたらして,流きれている人たちの,道すじに,ぶらさげました。

 そこまで来ると,少年の方は,ロープをつかまえるかまえをし,よろこんで自分のからだを上の方にひきあげる手さばきをしました。しかるに,ある高さまで,のぼっていったとき,この,気のどくな少年は,もうこの上,のぼる力がなくなって,氷の流れの中におちてしまい,とうとう,見えなくなってしまったのです。

 べつの氷の上にいた男の方は,ロープをつかみ,気をうしなっていたおくさんのからだをくくったのです。そこで,とにかく,かの女はたすかるようでした。ところが,ながれは,かれらをおしながした。この男の両手は,かじかんでいたため,ロープのむすび方がしっぱいしてしまいましたので,ロープは,この人の手からすべり,2秒の後には,かれと,おくさんの2人とも,ものすごくうずまく急流のそこに,すいこまれて,くるしみをおわったのでありました。

 カナダの,スカウターの人は,ちょうどこの事件のすぐあと,汽車にのって,この地についた。そして,乗客の人たちがこの事件をしゃべっているのをきいたと,私にかたりました。乗客たちはこの人が,スカウト関係の人であることを知らないので,ある1人は,こう,いったそうです。

 「ねエ。もし,1人でもボーイスカウトが,そのばにいたなら,なんとか,よいかんがえを出して,気のどくなこの人たちを,たすけただろうなア。」と。

 これによっても,世

の人々が,スカウトた

ちに,のぞみをかけて

いることが,わかりま

すね。この,きたいに

そう,ただ一つのみち

は,「そなえよ,つ

ねに」であります。

 事件のあとで,りこ

うになるのは.だれに

もできます。けれど

も,ふたたぴ,こんな

ことがおこったら,い

ったい,どんなことが

できるだろうかと,い

うことを考えておくこ

とは,たいへん,やく

だつことであるし,ま

た,きよぅみ(興味)

ぶかいことでもありま

す。しかも,君たちが,

その場にいて,それを

見てたらどんなことを,する

か,を,かんがえてここに,この事件の現場(げんば)を示したスケッチ地図をのせておきました。

(ウルフカブス ハンドブックより)

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  #004 ロバート少年のはなし

 次の話は、イギリス連盟発行の“ザ・スカウト”(週刊誌)の1955年11月の誌上に載ったものである。

 それは僅か10才のカブスカウト、ロバート少年の行った偉大なる善行ぶりについてである。

 1955年9月17日、海岸であるこの地方はその夜、雨雲低くたれて恐ろしい風で海は荒れていた。そこにあるとある港でのことです。その時、波は大体15m位の高さで防波堤を乗り越えぶちあたっていました。そして2人の男の大人と2人の少年が、波にさらわれて港の中へ流されているのを見ました。長いロープをみつけて、その少年の方へ投げました。彼は大波のてっぺんに乗っていたところです。不幸にしてロープは流されたので、もう駄目だと思いました。すると、ロバート君が反対側からその大荒れの海中にとび込んだのです。その少年をつかまえようと泳ぎだしました。ロバート君やっとその少年の腕をつかまえてロープの方へと泳いだが、一度は腕がはなれてその少年は海中に深く沈みました。だがロバートは再び彼を捕えてとうとうロープまで着き、もがきにもがいて少年の身体にロープをとりつけたのです。それで、みんなで岸へ引き上げました。岸へ上がるとロバートは、もう一人大人が助けを呼んでいるから僕はすぐひきかえす、というのです。私たちは、こんなに荒れているので行ったってもう遅い、ととめましたが彼はいうことをきかずあばれました。ボートを出すことも出来ないほどの大シケで、その上、真っ暗でした。何しろ、10才の子供でしょう。私はこんな勇敢な子供を見たことがありません。」

 この勇敢な行為に対して、ロバートは、イギリスの総長から、ブロンズ・クロス(青銅十字章)を授けられた。これは自分の危険をかえりみないで人命を救ったものに与えられるものである。

 この話は、これで終わったのではありません。

 ロバート家では、子供は暗くならないうちに家に帰るように、というさだめがある。その晩、暗くなってもロバートが帰ってこないので、父と母とは、彼が帰ったら叱らねばならんと話し合っていた。夜8時になっても帰ってこない。8時30分に帰ってきたので、ロバートは両親から大いに叱られ、まっすぐ寝床にはいるよう命ぜられた。ところが、彼はこの事件については一言も親にいわず神妙に床についたのであった。

 父母が、ロバートの勇敢な行為を知ったのは翌朝、近所の人々が、ロバートは元気かどうか見舞いに来てくれた時であった。恐らく親たちは、びっくり仰天してロバートのベッドへ駆けつけて、昨夜の出来事を息をはずませて尋ねたことだろうと想像される。

 ロバートは実にいい少年である。彼は、罰からのがれようとはしなかった。完全に叱られ、完全に誉められた。罰は罰、賞は賞。

 B-Pは、こういう立派な少年を世に出そうとして心血を注いだのだ。

 大人でも負けるロバートの偉大な自発活動よ!

私はこれを読んで、8のおきてをゆっくり口の中で唱えた。ロバート君に感謝をささげて…。

誠実、友情、礼儀、親切、快活、質素、勇敢、感謝の心

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