故古田誠一郎氏遺稿集

これは、高橋定夫先生が編集されたものを、NIFTY-Serve PATIO "Scouting World"に
東京連盟の宮坂武時氏が掲載されたものです。
草路詞藻集「心に発願ある者」
     心に発願ある者
            これを青年と言い
     心に発願なき者
            これを老年と言う

                          古田草路


     B-Pの(あしあと)を
            したいて往かん

                          草路山人
                           古田誠一郎
                            1981年9月22日



目 次
 巻頭言 ひとこと     総長 渡辺  昭
 古田先生を偲んで     中審議長  広瀬 文一
 あなたまかせの人生(1) 〔s.50.3.30〕
 あなたまかせの人生(2) 〔s.50.8.30〕
 京都の御所に伺候して
 お役に立ちそうもない会長の話
 アンデルセンと日本青年文化
 久留島武彦先生の身近な思い出 〔S.55〕
 ボーイスカウトの黎明期 〔S.51.6.18〕
 身をもって遺志を継ぐ〔オラーブ・B-P夫人〕 〔S.52〕
 わが公会とスカウト運動 〔S.43〕
 まっ白な織りもの 〔S43.1.2〕
 NHK人生読本『幼な心』 〔S.51.9/30.10/1,2放送〕
 グッドラックマガジンの創刊〔日赤百年〕 〔S.52〕
◎弔 辞◎
 (財)ボーイスカウト日本連盟総コミッショナー  鈴木 了正
 高槻市々長  江村 利雄
 京都第24団  村島 文治
 古田先生年譜
 あとがき・裏表紙

ひとこと

(財)ボーイスカウト日本連盟
総長 渡辺 昭

 古田誠一郎先生の遺稿集が出ることになりました。
 言うまでもなく、古田先生は、日本で最も早くスカウト運動に参加された一人であり、また、最も長くそれを続けられた方であるといって、おそらく間違いないでしょう。
 いうまでもありませんが、その間に先生が、日本のスカウト運動に残された足跡はたいへん大きなものであります。そして、この本を読めばおわかりになりますが、先生はまた、たいへん独創的な生涯をお送りになりました。
 信仰と教育と遊びの精神が、こん然と混じり合ってどのような人をつくりあげたか、教えられることの多い本です。

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古田先生を偲んで

(財)ボーイスカウト日本連盟
中央審議会議長 広 瀬 文 一

 古田先生に初めてお目にかかったのは、後藤新平総長の御葬儀の時であります。先生は玄関で、弔問の方々の整理にあたっておられ、私達は玄関前に堵列していました。
 その後、丸ビルの佐野常羽先生の事務所で何回かお目にかかりましたが、親しくご指導頂くようになったのは、昭和四年イギリスのバークンヘッドで行なわれた第三回世界ジャンボリーからであります。
 先生は佐野常羽先生のもとで本部スタッフとして、私は少年五名のなかの一番の年少者でありました。
 それからの六十余年の間、先生のご指導を受けたのであります。
 先生の一生は、文字どおり、スカウト運動に捧げられました。指導者にとっては闇夜の光であり、少年達にとっては、太陽でありました。
 「会いたい時に親はなし」といいます。温顔に笑みをたたえてのお話しを、今一度お聞きしたいと願うのは、私ばかりではないと思います。
 今回雪枝夫人のご厚意と高橋定夫氏のご努力とだ遺稿の一部を拝見できる運びになりました。まことに嬉しい限りです。あらためて 先生を偲びたいとおもいます。

1993年11月

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[私の体験談] あなたまかせの人生(1)
ーやがては落ち着く事も有ろうかー

◇生い立ち◇

 明治三十年六月二十七日 古田吉兵衛長男として和歌山市中之店南之丁二番地に誕生。和歌山商業学校に学ぶ。大正八年キリスト教入信、日本聖公会和歌山聖教主教会で受洗し日曜学校の教師に委嘱され大いに歓ぶ。この感激が児童に問題に生涯没頭する端緒となったように思う。

 幼少の頃から家門の関係があってか、父は茶の湯と狂言を身に付けさせることに腐心した。父吉兵衛は誠一郎にキリスト教入信の理由で勘当を申し渡した。

 狂言の師は山崎九一郎翁、その子楽堂は後に能舞台設計と能評に打ち込まれた。翁は一門の子弟である私や近所の子どもを集めて稽古を付け、本願寺別院鷺ノ森御坊や和歌浦東照宮などの舞台、さては京都・片山能楽堂にも度々出演させた。

 ずっと後太平洋戦争始まった頃の思い出であるが、大阪京町堀に居られた狂言の善竹弥五郎師(後に無形文化財に推された。現大蔵流家元大蔵弥太郎師の父君)にお勧めして装束や道具一切を、高槻在の農家の倉庫に疎開して頂いたが、疎開直後に京町堀のお住居が空襲で全焼。暫くご家族共々高槻に疎開された。偶然とはいえ、有形・無形の文化財を戦禍から守り得た原因となり実に喜ばしい。こんな縁で、戦後、昭和49年まで大蔵狂言会々長を務めさせて頂いた。


◇日曜日休業の焼芋屋とスカウト運動◇

 大正八年生家を追われた誠一郎は母方の従姉を頼って神戸に逃れた。学校の先輩や級友の勤めるダンロップ会社への就職を辞退して、子どもと毎日接しられる途を選んで神戸市中山手通六丁目に、三角の土間の二階に三角の一間の家(家賃月11円20銭)を借りて焼芋屋を開業。土曜の午後などは子どもらの集会所となり、お噺会などが催された。

 日曜日は休業して聖ミカエル教会に出席しここでも日曜学校の教師に委嘱された。この教会で英国人宣教師ウォーカー氏と知り合った。この方はスカウト運動創始者B-P卿の1912年日本訪問に際しスカウトを連れて出迎えた。同氏が主宰するミッションスクールを訪ね英人の子らの組織するボーイスカウト隊を見て、日本の子らにもと思い立った。足立勤氏(後にNHK大阪放送局開設の子どもの時間初代主任)平井哲夫等同志と語らい、時の神戸市社会課長木村義吉氏の援助も得て、神戸ボーイ・スカウトを創設した。


◇関東大地震罹災地の子ども達へ◇

 大正十二年九月一日十一時五十七分昼食前のひととき、翌日日曜のスカウト活動のプログラムを練ろうと、焼芋屋の二階で粗末な椅子に寄りかかって机に向いていたところ、急に一瞬身体が揺れ、船酔気分に襲われた。テレビもラジオも無い時代のこと、大して気にも留めないでいた。

 ところが“号外…号外…”けたたましい鈴の音が、突如起こった関東大震災を報じた。東京を中心に、壊滅的な大損害、とのことである。

 私の頭に直ぐ浮かんだのは、焼野原をさまよう子ども達の姿だった。災害地では、米・味噌など基本食糧は公共の救援があろう。が、おやつどころではなかろう、と。それを思うと矢も盾もたまらず、相棒の足立君と二人で、スカウト運動の後援者河西兵善衛氏に相談。その賛同と援助を受けて直ちに三千人分の袋菓子を用意し、二人はスカウトの制服姿でその日のうちに埠頭に駆けつけ荷と共に豊岡丸に乗船。

 夕刻ま近であったが、明日を待たずに出航した。鉄道不通のためもあってか船には災害地に親類縁者のある人達が多く、船室も甲板も、ごったがえしていた。

 出航したものの、救援物資積み込み等で四日市、名古屋、と寄港して日を重ね、遠州沖で受信した船の無電に、災害地の惨状と、さまざまなうわさも入って来た。重なる不安のため、乗客も動揺しはじめ、船内は異様な雰囲気に包まれた。

 この時一人の老紳士が立ち上がり、落ち着いた態度でみんなに提案した。
『皆さん、こんな時に力を落としてはなりません。みんなが力を出し合い一致して事に当たれば、必ず途が開けます。幸いここに、服装から見ても役に立ちそうな青年が二人います。この二人を中心に、砂漠をも恐れない隊商のように、私どもも一つになって進もうでは、ありませんか』
 一同はやっと納得して静まった。この人こそ明治のキリスト教史に著名な熊本バンドの一員、金森通倫氏であった。

 見込まれた我々は、制服の手前は勿論スカウトのちかいやおきて、さては標語(そなえよつねに)、主張(日々の善行)が頭を渦巻き、断りもできず引き受けた。

 九月六日の朝、芝浦に漸く着岸し上陸したものの、なに一つ交通機関が動かない状態。やっとの思いで持ち主不明の手押し車を発見し、これに載る限りの荷物を積んで数往復し、乗船者一同の世話係としての役目を一応果たした。三千人分の菓子の置き場所もそれから見つけて格納できた。

 次に、これを子ども達に分配する方法を考え出さなければならない。とり敢えず東京少年団の中心人物に相談するのがよかろうと、四谷右京町(今の慶応病院付近)を探しに探し漸くそのお宅にたどり着いた。その人は長火鉢を前にどっかりあぐらをかき、チビリチビリ銚子を傾けていた。汗まみれで来意を告げたのに彼は、
『いやぁ、こうなっちゃぁ手も足も出ない。手伝う人手なんか、とんでもない』
捨鉢の体で断られた。途方に暮れてそこを辞した。が、二人にヒラメいた。
“華族さまなんか、どうせこんな時の役に立ちそうもない、第一勿体ぶって逢うてもくれまい。が、こうなりゃ破れかぶれ、当たって砕けろだ………。”

 千駄ケ谷の大邸宅に三島通陽子爵を訪ね、おそるおそる案内を乞うてみた。

 いかにも謹厳そうな青年が現れて、
『あぁスカウトの方ですか。ちょうど殿様も居られます。まぁお上がり下さい』
 隔意なく、しかも丁重に扱われて、こちらは二人とも眼を白黒してしまった。
 三島先生も、至極お気軽に、温かく迎えられた。
『子ども達に菓子とは、よい思い付きだ。いゝですとも、こんな時こそみんなが力を出し合うことです』
 と応じて下さった。

 神の使徒ともいうべし。船中での金森通倫師と全く同じ意味のことを述べられたのには、感激のあまり目頭が熱くなるのを抑えられなかった。右京町の先輩に比べてどうしてこうも違うのか。

 翌日から三島先生のご指示を頂き、そこに集まる青年達のご援助で、災害地での任務を、一応果たし得たのであった〈『日本ボーイスカウト運動史』P.75〉。


◇神戸にウルフ・カブの誕生◇

 それから後ある日、焼芋屋に一人の紳士が現れ、見せたいものがある、と強引に私を自家用車に乗せ、須磨に向かった。とある門構えの家に着くと……
『若し君が焼芋屋をやめられるならば、この家に住んで貰いたい。いや、家賃は会の方で支払うことになっているから』
と。突然の申し出に驚き、訳を訪ねると、その方は、時の神戸市長石橋為之助氏であり、須磨に邸宅を持つ、鈴木商店の芳川筍之助氏や三井造船の木村七平氏、福徳生命の有村丈太郎氏ら重役方の子息と近所に住む子どもたちと一緒に、松茸のような帽子を被って元気に飛び回っているボーイ・スカウトとやらいう訓練をして貰いたい、という趣旨であった。

 取り敢えずご厚意に感謝し、できるだけご意向に添いたいが確答は後日にと約し、その日は別れた。

 さて準備のため調べてみると子ども達はみな十歳未満。むげに断わるに忍びず当惑したが、英国では創始者B-P卿が年少教育のためウルフ・カブという組織を始めたとウォーカー氏から聞いたのを思い出した。早速鈴木商店ロンドン支店を通じてハンドブックを取り寄せ、それを頼りに始めようと考え引き受けた。

 これが偶然日本に年少隊が活発になる契機となり、私自身真剣に取り組んだ。


◇活動写真を教育に◇◇

活動写真を教育に活用したいと、かねて願っていたのを、従前から終始教育運動に理解を示して財政的にも援助を惜しまれなかった河西善兵衛氏から厚意的な励ましを受けて、同志足立、平井の両氏と図り、“神戸映画教育会”として実現した。フィルム・ライブラリーの前身のようなものである。フィルムは鈴木商店ロンドン支店を通して輸入した。ボーイ・スカウトの劇映画や『眼の構造とそのはたらき』や『水の変態』などの科学映画を思い出す。これを学校その他で主張映写したり、フィルム貸出しをしたりした。


◇生家の整理と人生出直し◇

 かくして、将来の生活設計を漸く定めかけた時、生家の家運が傾き倒産の恐れもあるので帰れとの報を受けた。自分を勘当した親なのにと思いながらも、神戸の後事を信頼できる方々にそれぞれ託して帰省した。

 弟と力を協せて家業に励んだかたわら、和歌山市にその頃スカウト運動がまだ無かったので、これを働きかけ和歌山第1健児隊を先ず二個班から発足させた。

 さて家名は、かなり長い伝統を持って惜しいものではあったが、無理をして迷惑かける範囲を拡げては申し訳なしと判断し、債権者の方々にご集合を願い公私総ての資産と貸借を明示して事業の閉鎖を申し出た。関係者各位の思いがけないご厚意によって、老父の生涯を支える目途もなんとか立ち、弟も親族の会社に就職できたので、自分は、“人生出直し”の決意をして上京した。

 中古トラックを手に入れて自分で乗り、復興資材のセメント、材木、煉瓦などの運搬に従事し、夜は、日本大学文学部に入学して教育倫理の勉強を始めた。

 児童問題の師と仰いで以前からご指導を頂いていた久留島武彦先生から『古田君、身体を壊しては駄目だ。俺の仕事を手伝え』とご親切なお勧めを受けそれに従って先生の早蕨第二幼稚園に住居も与えられ、先生の蔵書の整理や管理を命ぜられた。

 なお、当時先生を囲んで、多くの名士や青年が話術の研究や修練をしていたが、この会を名付けて『回字会』としていた。私はこの会合の世話や事務も受持った。ちなみに『回字会』の名の由来は、先生が常々『外なる口もさり乍ら、内なる口を大いに磨くべし』と、“話者の教養”を強調しておられたのにある。

 この頃。従弟の上野総一の紹介で、日光の古河電気精鋼所木村豊吉氏から精鋼所工員子弟の教育を相談され、精鋼所スカウト団の前身である日光精鋼所少年少女団の結成に参画し、その中心指導者となって毎月一週間日光で過ごすことになった。

 この時古河の社員で協力し団指導者として奉仕なさった方の中に、後の日光市長佐々木耕郎氏や、日本ゼオン社長中鉢常正氏などが挙げられる。

 中鉢氏と少年団中央指導者実修所山中道場に入所し所長佐野常羽先生のご指導を受けた。このご縁で後に、先生の助手として実修所所員をも委嘱された。


◇初めての渡欧、社会事業へ転進◇

 1929年(昭和4年)第2回世界ジャンボリーが英国バークンヘッド・アローパークで開催。日本派遣団は、佐野常羽先生を団長として29名で編成された。私は団長付で一行に加えられた。航空機でなく船旅だから往路40日以上かかった。途中寄港地での言葉の問題や運賃の銭勘定に、団長以外は皆初めてなので、団長付の世話役として私はキリキリ舞いした。が、有能な一人の若い団員の援けで、事無きを得た。私としては苦心の限りであったが、何事も経験、後の働きに大いに役立った。

 帰国後、山中道場の他にも全国各地で開かれた指導者実修所に佐野所長のお伴で奉仕することになった。

 昭和5年の冬台北市郊外士林水源地で開催の実修所の時であるが、コースが終り旅館に引き上げ、私宛の書簡を入手した。「大阪の育児施設の園長に推薦したい」とあった。佐野先生が、たまたまこれを目にされ、激励とお勧めを強くなさった。翌六年二月、財団法人聖ヨハネ学園々長に就任する契機は、ここにあった。

 この学園は児童養護施設で、身寄りが少なく収容の必要な〇歳からの児童を育てる所である。日蔭育ちになり易いこれらの子どもを、できるだけ明るく有為な青年に育てゝ社会に送り出すことこそが大きな眼目であ。、と感じた。孤児院らしさが客観的にも全く無いものにしたいと考え、外観内容、両面の改善に最善を尽くして努力した。

 さて、学齢に達して小学校に通うようになればともかく、それ以前の幼児は終日施設の中ばかり。せめてこの子らに、近所の子と遊ぶ機会を与えたい。そうすれば社会性も養える。そう考えて園舎改装のついでに、ステージ付ホールと数個の部屋とを増築した。

 建物の準備はできた。ここで思い起こしたのは久留島武彦先生から以前に頂いて読んだモンテッソーリ女史の幼児教育であった。心に深く残っていた“規則に縛られない自由な保育を”を目指し、幼稚園の認可もなしに、ナースリー・スクールを直訳して『保育学校』と銘打って近隣の家庭に呼びかけた。すると相当数の申し込みがあった。そこでこれも久留島先生のご紹介で面識のあった、クック先生をランバス女学院にお訪ねして、その卒業生を主任保母にお迎えし、保育をいよいよ開始した。

     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
B-Pのことば

“わたしの使者”
“I send You !”
平和と友情を、犠牲と奉仕の翼に乗せて、地の果てまで運ぶ

〔『在京和歌山県人会会報』S50.30.30寄稿〕

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〔私の体験談〕あなたまかせの人生(2)
〜やがては落ち着く事も有ろうか〜

◇子どもと語る◇

 そのすこし前から始まった、ラジオの大阪放送局「子どもの時間」の日本最初の主任になっていた足立勤君と話し合い、児童問題に関心を持って放送局や保育学校に顔を出す人々を結集して研究会を作っていた。倉橋惣三先生に御意見を伺った。先生は、当時の幼児教育界で尊敬されていた方である。先生は機関誌発行に、直ぐ賛成なさり、誌名を『子どもと語る』とするがよい、と懇切にご指示を下さった。言われてみればなるほど、“子どもに”語るは、話者が無頓着なら深く吟味しないで、ただなんとはなしに話してしまうのではないか。それが、“子どもと”語る、ともなればなかなか容易でない。子どもと遊んでいるうちに我を忘れた良寛和尚の心境、来る日も来る日も『和尚さん、遊びましょう』と子どもに遊ばされるまでに到った、そのことを思おう、と一同悟り、それまでの研究態度を百八十度転換させたのであつた。

 この会に集まった方々には、教育界、児童福祉の畑に名をなし、そしてなお今も、ひたむきに励み続けておられる方が少なくない。NHKにこの人あり、と知られた江上フジ女史、幼稚園を主宰する旧姓長島姉(西之宮聖ペテロ教会堀江光児牧師夫人)、京都・平安女学院事務局長村島文二氏夫人(旧姓大屋姉)はランバス女学院在学中からこの運動に加わり、私の学園、保育学校にもボランティアで、或いは、職員としてよく協力された方である。男性では、現在本邦精薄児童教育界に重きを成す京都・白川学園園長脇田悦三氏も、当時吉井姓の学生で、傑出した名記録係、『子どもと語る』編集者として貢献された。今東京に在って幼児教育界で活躍しておられる村上幸雄氏も、当時は私の学園で保育学校のボランティア主任格で活躍し、真に“子どもと”語り得る原理と方法を会得した若き人材であった。わが国最初の保母ならぬ保父、と自ら任じておられたのもなつかしい。現テレビタレントの泉田行夫氏は、学園に宿泊しながら帝塚山学院で教鞭を執り、この運動に尽くされた。前記村島氏も専ら学園事務を処理しながら運動に参加された。学究の大塚喜一氏、航空教育界で、自ら飛行機野郎と称して、口八丁手八丁の小川格氏、また早くから郷里栃木県鹿沼に帰り地方児童文学の開発に専任しておられる長谷川黙念氏、公立学校の教職にあった岡部正則、臼井彦四郎、本田義一の各氏、その頃既に地方を行脚し講演を通して啓蒙に尽くした山北清次、小野直、奥野しげる、藤野福雄、田中賢司ら諸氏の功績は大きい。

 さて、手探りの社会事業に従事すること数年、これを評価し改善するを要すると感じ、先進国の斬業視察と調査のため昭和十三年単独渡欧。翌十四年帰任して内部の機構と教育内容の改善及び充実に悦意努力した。しかし昭和十六年太平洋戦争の勃発そして激化、に伴い、大阪市内の児童収容施設としては、疎開が必要と考える事態が迫ってきた。

 以前に購入し、キャンプ場に使用していた高槻の山林内に、百姓屋を先ず1棟移築した。当面その周りにテントを張って移転を開始し、やがて元の園舎が強制疎開で解体された時、その建材を赤間文三府知事に交渉して無償払い下げを受け、舎屋を徐々に建て進めた。完成を見たのは終戦の前年十九年に入ってであった。


◇思わざる、非金権選挙◇

 終戦の翌々年、新制度の選挙が一斉に実施された。戦前から全国私設社会事業連盟の理事長であった丸山鶴吉氏が、この機会にと公明選挙運動を始められた。我々社会事業経営者は、かねてから理事長の功に報いようと公明選挙運動に協力体制を組んでいた。タイミングよく近隣の農家の方々から選挙について演説依頼をされた。渡りに船、とその人達の準備した会場や街頭で演説の依頼に応じた。

 とかくするうちに、この近隣の方々から次のように言われて愕然とした。
『先生の演説、大変結構です。が、最後に“清き一票を私に”と言って下さい』
と。いつの間か金を集めて供託し、市長候補者に誠一郎を仕立てていたのである。

 現に五人立候補者があり、しかも当時の選挙法では、投票総数の八分の三以上得票がなければ当選しないと知っていたので、地元出身でもない私の身としては、落選確実、と楽観していた。

 結果は、果たせるかな、最高得点者は他の人であった。さてその票数、八分の三に達せず、私と決選投票となった。開票結果は、相手が所属党の組織票であったので前回と全く同数、対して当方は、他の三人分の殆どを得てしまった。

 かくして二十二年四月高槻市長就任という破目となった。この時前記大阪時代の『子どもと語る』同志の一人、口八丁手八丁の小川格氏が或る会社の社長を辞して自ら助役を買って出て、大いに援助して下さった。感謝の極み、であった。


◇雲上の哲学◇

 聖ヨハネ学園は、当時他の同種施設が他府県へ疎開したり一時閉鎖したりの事情で、急増して全国一とも言われた浮浪児を曽根崎署から続々送致されて収容した。その実績のためか、天皇陛下が戦後初めて京都にご駐輦された際に、大阪府知事の推薦で“関西における児童保護(現在の児童福祉)”についてご進講申し上げる光栄に浴することになった。

 さて当日京都御所で所定の席に進むと、陛下は既に正面におられ両脇には侍従らしい方と赤間知事が侍立して居られた。緊張のうちにお話し申し上げると陛下は至極お気軽に
『あ、そう』
と受け答えせられた。やゝ落ち着いた途端に陛下は、
『お前のような所の子どもはよく逃げると聞いているが、お前の所も逃げるか ね』
とご下問があった。はっとして咄嗟にお答え申し上げた。
『いゝえ、私の所は逃げた者はございません』
『どうして逃げないか』
と矢つぎ早のおことばです。
『は、はい。学園に入って参りましたときには、いちいち前に座らせて、
君達は駅などに居たのだから散歩も旅行もしたいだろうが、出かける時には必ず私に「行って参ります」帰った時もきっと「ただいま」と挨拶しなさい。決して叱りはしない”と約束致しました。
ただ今旅行中の者もございますが、逃げた者は居りません。
ただ今の学園はキヤンプ地へ急に移りましたので、まだ門も塀も垣もございませんあの子達には、その方が居心地がよいように存じます』
と苦しいお答えをした。

 陛下は、これに対して微笑まれながら
『心にも、塀や垣は、ない方がよいね。』
と仰せられ、重ねてご下問があった。
『喧嘩はしないか』
と。
『はい、喧嘩はよく致します。けれども私の所の喧嘩は、直ぐ治ります』
『どうして治めるか』
『はい、これも約束があります。
“喧嘩が起これば大いにやろう。けれどもお互いに正しい方が譲ろう”というのでございますから、長くやって、正しくない方と思われまいとか、また止めた者を追いかけなどして、なお正しくないと思われまいとして、これを止めます。
こうして喧嘩はよく起こりますが、直ぐに治ります。』
『あぁそう、国と国も正しい方が譲れば、平和が来るね。』
静かに仰せられた。

これが、終戦から未だ日が浅い時期であっただけに、あとの言葉も出難いほどに深い感銘を受けたのであった。


◇スカウト運動の再建◇

 その頃アメリカのボーイズ・タウンでスカウト運動に熱心であったフラナガン神父が来日されたので、米軍のスカウト出身者で和歌山系の二世将校、岡田少尉を介して進駐軍司令官の斡旋を受け、同神父を高槻市役所会議室に迎えた。かくして神父臨席のもとに関西スカウト運動再建会議を開きボーイスカウト大阪連盟結成がなされたのである。誠一郎は、ここで推されて理事長となった。

 だが当時大阪府社会教育委員を委嘱され、高槻市長であり大阪府市長会副会長であるなど煩瑣な用務が重なり、連盟理事長の職務が疎かになり名のみに終る恐れを抱いていた。このような矢先、三島通陽先生(後の日本連盟総長、当時参議院議員)から「ボーイスカウト日本連盟再建が決議された。いよいよその事務の総元締にと京都の中野忠八氏を考えていたが急逝(S.24.8.27)された。この度の全国再建会議の議長をやり遂げてくれた君に託したいが、どうか」と尋ねられた。

 市長就任の時学園の実務後継者を拵えておいた。酒の不得手な自分は毎日宴席に数回出る市長の職が向いていない。元来好きなスカウト運動に専心できればこの上ない幸せ。このように考えて市会議長宛に辞表を早速提出した。

 議長は眼の前で辞表を引き裂いてしまった。「急激な学制改革その他の陳情に、米も風呂もない東京通いに二人で苦労してきた。今あんたに辞められちゃ、困る」というのであった。不本意ながら三島先生に「残念乍ら」と事情を申し上げた。

 秋になって高松宮殿下が“学園の事業視察に”と高槻市にお立ち寄りになった。市当局としても或る山に準備して松茸狩りを催し、殿下を歓待申し上げた。数日あと公務で上京する際、市総務課長が、高松宮家へのお礼言上の件、を申し出た。さもあろう、と高輪の御殿を伺った。三宅事務官の案内でその頃お手狭なお玄関からお部屋に近づくと相当大きな声で「古田、君は三島から何か聞いておらんか」と、殿下は仰せられた。
「はい、スカウトの事務局のことならば、承っております。」
とお答えすると、
「そうだ、市長は、やりたい者がいくらでも居る。潮時ということもあるから、来たらどうだ」
「はっ、殿下が、潮時という言葉までご存知とは、驚きました」
「馬鹿にしゃ、いかんよ」
あとは、先日のお礼を申し上げて退出した。

 高槻に帰って市会議長にその話をしたところ、昔気質で謹厳な議長は、宮様のお声がかりではと、再び書いた辞表を受理し、市議会の同意を得てくれた。

 昭和二十五年二月ボーイスカウト日本連盟総局長に就任。運営に悦意努力はしたものの、元来経済知識に乏しく資金集めなど不得手で進展せず、他方佐野常羽先生の後を継いだ指導者養成を等閑にできないうえ、翌二十六年国際的に日本の責任者としてD.C.C.とAk.L.の両称号を贈られたので、指導者実修所長を勤めねばならない。そこで経営のための事務局長を選任できる機構に改め総局長を辞した(S.27)。新たに事務局長を得て、二十八年には資金繰りもやゝ順調になってきた。

※編集者註 『国際訓練ハンドブック』“指導者訓練の方針と手続き”参照
D.C.C.=Deputy Canp Chief (キャンプ・チーフ代理)
 ウッドバッジ訓練は、ギルウェルパークを根拠地としてキャンプチーフの指導のもとに、先ずイギリスで実施された。キャンプチーフは、その任務を代行させるためD.C.C.を任命した。
 D.C.C.訓練は1947年イギリスで試験コース、1956年に初の公式なコースをトレーニング・ザ・チームコースとしてキャンプチーフの指導の下にギルウェルパークで実施。D.C.C.つまりトレーナーを訓練した。
 現在のリーダートレーナー制度への移行は、1969年の第22回世界会議、八年後の第26回世界スカウト会議を経て行われた。
Ak.L.=Akela Leader(カブスカウト部門のトレーナー)
 第22回世界会議の議により、部門別のトレーナーはなくなった。
[上記の資料P.12ナショナルトレーナーの項]


◇赤十字運動へ◇

その年(昭和二十七年)暮れ近く日本赤十字社副社長葛西嘉資氏が事務局に来られた。この方が厚生次官の時から面識はあったが、赤十字社参事就任の依頼が来意であった。総局長から指導者実修所長専任になったと聞いたが、それは日常の業務でもなさそうだから、最新の登録数五百万人にもなった赤十字奉仕団に魂を入れる仕事を是非引き受けて欲しい、とのことであった。
『私には、そんなに大量の魂の持ち合わせは有りません』
と、辞退を図ったが、
『冗談は抜きにして』
と、スカウト指導者実修所や国際会議の出席は自由にと条件を付けて頂いて承諾した。そして今もなお非常勤の嘱託として在籍している。

 その傍ら、旧知の心理学者牛島義友氏の誘いで「“遊びながら勉強する方法”を子どもに知らせるラジオ放送」の企画に加わり、『ちえのわクラブ』司会を六年間続けた。千代田生命をスポンサーとする民間放送の最初で、古賀里子や子鳩くるみ等、幼い子どもが、今でいうタレントとして、出演した。


◇すべては、幼いうちに◇

 私の人生は、以上のように、右顧左眄、請われるままに自主性に乏しく、のらりくらりとあなた任せの生き方で来た。

 にも拘らず、実にさまざまなお役目を仰せつかった。国際社会事業日本国委員会委員、国際ワークキャンプ国内委員会委員長、中央児童福祉審議会委員、ボーイスカウト日本連盟副総コミッショナー(後に先達の称号を受けた)等に任ぜられた。その他、興安丸や大成丸で乗船代表として渡航し中国やソビェトから帰還日本人を受領。また数次に渉って国際会議、国際行事に参加。特に感銘深かったのは、昭和十三年スカウト運動創始者B-P卿にアイスランド・ライキャビックでお会いできたこと。B-P卿は三年後の1941年に亡くなられたので、日本人としてお会いできる最後の機会を、私に恵まれたのである。

 望外の光栄にも浴した。社会事業功労者として大阪府知事、中央社会事業協会長から、社会教育功労者として文部大臣から、それぞれ表彰され、昭和四十三年には勲三等瑞宝章を賜わった。

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京都の御所に伺候して

 陛下が戦後初めて御西下遊ばされた時、赤間大阪府知事におだてられ、京都の御所に伺候して、『関西に於ける児童保護(福祉とは云わなかった)の状況』を言上した時など、その少し以前に来日したフラナガン神父が私の施設に立ち寄った事をご存じであられたのか。
「あのフラナガン神父ね、あのフラナガン神父がやっているような事業は日本にも必要と思うかね?」
とご下問があり、それに
「はいッ、必要とは考えますが、あれだけでは足りないと存じます。」
とお答えした。すると、続いて
「何が足りないのかね?」
とお尋ねがあった。私はおこがましくも得意になって
「ボーイズタウンは男の児でございますから女の児もと、などとまでは申すのでございませんが、私がかって1年余りベルリンに居りました時、バイゼンハウス・デァ・シュタット・ベルリンという看板を見、これは孤児院だと見学を思い立って駆け込み、その旨を告げましたところ、受付氏は
『バイゼンハウスとはあるが孤児の収容所ではない。問題が起こって来る子どもに、ここには五人の専門家、即ち小児内科医、整形外科医、精神科医、心理学者、教育学者が居り、各々が二ケ月の間に観察し診断し合議のうえで、これは里子に出すべき児、これは特別の収容所に送るべき児、これはこれこれ注意を与えて親の手許に置くべき児、などと決める所であって、ここで預かる期間は短く、二ケ月を越える事は絶対ない』 と説明されました。今日ここに大阪府の知事も居りますが、この知事のお骨折りで、大阪府ではいち早く中央児童相談所を設けまして、鈴木ビネー法による知能測定などを致して居ります。が、ただ今申し上げましたベルリンの児童鑑別所のような施設が日本にも是非必要と存じます。」
一気に申し上げ冷や汗ものです。

 私などの出る幕でなく、当時存じ上げて居りましたら、糸賀、田村、池田の三先生のうち、どなたかにお願いする事柄だったと悔やまれてなりません。

 ついでの事その時のことを、もう少し申し上げますと、陛下は、その頃大阪駅にいた、所謂浮浪児の多くが、警察の手を経て私の施設に来ていることを御存じの御様子で、
「お前の所にいるような子供はよく逃げると聞いているが、お前の所でも逃げるかね?」
こうご下問がありました。私は即座に、
「私の施設には垣根がありませんので、時々散歩するものがおります。ですが、四、五日もすると、皆帰ってまいります。」
とお答えしました。

 そうしましたら陛下は、
「あッそう!散歩ね、散歩。」
と御納得遊ばされた御様子でした。

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お役に立ちそうもない会長の話

 近来狂言の再認識が種々の角度から、たたえられていること、いずれにしても喜ばしいには違いないが、又一方、多少に拘らず斯道に関係を持つ者にとっては、今こそ大いに自粛自戒を要するとき、と思われる。

 然るに今回畏友川谷氏その他の御推挙により、お家元から大蔵狂言会の会長を引き受けるようとの御沙汰を承った。もとより非才は申すに及ばず、地位、財力ともに役に立ちそうなものの何一つない者に、どうしてお鉢が回ったか。そこで再三御辞退をしたが、みんなで援けるから、とてお許しがないまま延び、当分は、と約束する意味でお引受けするこことした。我ながら不思議に思われてならない。その後考えてみると、或いは狂言を知ってからの年限が長いという理由かもしれないと気がついた。

 長いといえば確かに五十年を越えている。しかし長いということは力があるということと同義語ではない。会員諸賢の大いなるご協力を切に希う所以である。

 次に五十年の記憶の一部を記して同志のご笑覧に供する。
「われいまだ 地獄極楽 存ぜねば そろりそろりと さらばまいろう」
うろ覚えの記憶なので字句の正確は期し難いが、これは大蔵流家元の分家筋で、越前から紀州藩へ移られた松井家最後のお役者「常翠」師(文字不詳、松井麟八氏ご父君)の辞世で、狂言者らしい漂々とした風貌が伺えるような気がする。

 この常翠氏が、たまたま廃藩に際会し、芸道一途では立ち難いその頃の世相を察してか、和歌山市に在った粉河屋一族に身を寄せられた。

 その家族の一人、九一郎氏に自家の伝承をお授けになったのである。が、この九一郎氏は、いわゆる旦那芸ではない、一種の厳しい芸格を持っておられたように今も私の記憶に残っている。

 九一郎氏に、三男一女あり、いずれもその気風を受け継いだようであったが、後に能評で知られた生涯を能舞台の建築拍子の数理的解明に没頭した山崎楽堂氏はそのご長男であり、現会員の山崎有一郎氏はその又ご長男であるから、その子卓男君に至っては、九一郎氏から四代目ということになる。

 九一郎氏の晩年子女が成人して遊学その他で身辺を離れたので、一族中の当時とって六歳であった私やその他近隣の子ども達を集めて狂言の稽古を始めた。

 その頃和歌山市に、俗称鷺の森御坊といった本願寺の別院に、城内から移した能舞台があって、現お家元の御祖父君、先代忠三郎師や、その頃久治と名乗っておられた弥五郎師などが、たびたび来演されたし、和歌浦の東照宮に隣接して、藩祖を祉る南竜社の春秋の大祭には臨時舞台が組まれて、能や狂言が奉納され、ある年には、先代忠三郎師が大名の「靭猿」に、久治師(現弥五郎師)の猿引で私が猿を勤めさせて頂いたこともある。

 また、十歳ぐらいになってのこと、前記鷺の森の舞台で、茂山良一さん(当代忠三郎師)にお付き合いを頂いて「腹不立」に出演の最中、シテの私が気を失い、それでも夢中で終りまで勤め、鏡の間に入ると同時に卒倒し人騒がせしてしまい、良一さんからも「あの時はどうも顔色が尋常でなかった」と大いに笑われた。

 笑われたといえば、これは少し前に戻り、もっと幼かったころ、当時みんなで「おしゃん」(お師匠さんの意)と敬愛の気持ちで呼んでいた久一郎氏に伴われ、子供たち同勢六、七人で京都の片山能学堂に出演した日のこと、先代忠三郎師の「栗焼」を拝見した。あの長い首を咽喉仏が上下するので、それがいかにも栗がうまそうに見え、こちらが唾を飲み込んでいた。そのころ京都に御在住の久迩宮大妃殿下が見所にお成りで、さき程の「3人片輪」座頭が居ればと、その日の出演者のなかで一番小さかった私が御前に召された。

 さてお菓子が出され食べたくはあるが、子供ながらに遠慮していると、
「さあ、おあがりなさい。」とお附の方から奨められた。
 その途端、今まで、きちんと膝に置いていた手を、さっと上げると、左右交互に大きく胸を撫でながら、
「しつけぬこととて、胸がだくめく」
と大声に「盆山」のことばが出てしまい、我ながら、顔を赤らめうつむくと、それがまた、可愛い、とて、余計にお菓子を頂いた。これまた大笑いに笑われた。

 こんなぐあいで、私の斯の道へのとっつきは世阿弥の「風姿花伝」中の……年来稽古条々七歳の頃
「この芸に於て、大方七歳をもて初めとす」
には合致しないではないが、同二十四、五の頃には
「この頃一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに稽古の堺なり」
とあり、私の二十四、五歳は馬鹿遊びの放蕩時代、であって、一期の芸能まさに定まるどころか、その後上達見込などさらさらあろう筈もない次第であった。

 それから後の、狂言界への縁故といえば、戦時中の茂山家では、忠一郎師から圭五郎師までの御兄弟五人とも揃っての御出征で、大阪のお宅には、父君、今の弥五郎師お一人になられた。

 当時私がその疎開先、高槻市の、さる農家の倉庫を予約し、御移住をお勧めした。お装束やお道具を満載したトラックを毎日幾台かずつ動かされ、その最後の便を無事積み出された翌々日、大空襲で大阪のお宅を含め付近一帯が焼野原になった。これが終戦前年のことであったと記憶する。

 私がちょっと申し上げたことで数々の貴重な文化財が危く難を免れた。偏えに、大蔵、茂山御両家の御芸運のしからしめるところではあるが、斯界のため、また我が国古典文化保存上の観点からも、喜ばしい限りであった。

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アンデルセン爺と日本の青少年文化

 日本人で両者に最も関係の深いのは久留島武彦先生である。先生は日本青少年文化センターの初代会長で、このセンターの基礎を築かれた方である。

 関東大震災を契機に、私は側近でお教えを受けたが、直接先生からお聴きした記憶を辿って、主題の要点を記述してみたい。

 先生がお伽倶楽部(おとぎクラブ)の名で、巖谷小波氏他一人を迎え日本最初の童話会を横浜で開かれた。1903年(明治36年)の夏七月なかばのことであった。

 これが機縁で、秋には川上音次郎・貞奴夫妻による「お伽劇団」が生まれた。後の「川上楽劇団」の先駆とも云うべきものである。

 これらの会の主宰者として計画を立てまた会を催す毎に、実際的に開会の辞を述べ、子ども達への「お話」をされたのは久留島先生で、こうしたとき、先生の脳裏にいつも去来していたのは、アンデルセン爺の幻影であったという。

 こうして児童文化への努力を続けられること20年にして1924年ボーイスカウト第二回世界ジャンボリーが、アンデルセン爺の国デンマークで開催すると知らされた先生は、好機到来と自ら進んで日本派遣団幹部の一人として参加なさった。これも、アンデルセン爺への強い敬慕の念からであった、と聞いております。

 首都コペンハーゲンに到着するや早速、アンデルセン爺の生まれ故郷への道順を尋ねた。ところがアンデルセンをホ・シ・アナスンと、デンマーク読みしなければ、ホテルの支配人にさえ通じない、それ程の認識しか、なかった。先ずは、これに驚かされた。

 やっとの思いでオーデンセに行ってみた。なるほど養父靴職人の仕事場であった小さな生家が残ってはいたが、記念館としての保存はなされていなかった。

 街に銅像が立ってはいたが、世界的に偉大な児童文化への貢献者を処遇するにしては不思議なほど、彫刻家トルワルゼンのため記念館を国が建てたのに比べ、ほど遠い隔たりを感じた。

 街の、アンデルセン爺銅像の前で、英語の通じる新聞記者に話し掛けられた。感想を、前記通り率直に述べた。翌日の新聞に記事となり、続いて各紙に報道され、なかには『日本のアンデルセン、タケヒコ・クルシマ』と写真入りの大見出しのものさえあった、と私は聞いた。

 アンデルセン爺の墓地の改修や、博物館の増設・拡充等が具体化する契機に、こうしたことが影響した、と伝えられるのも尤もであろう。

 帰国されて翌1925年、久留島先生は巖谷小波氏と『アンデルセン50年祭』を帝国劇場で開催。その功でデンマーク国王から『ダンネブロー勲章』を贈られた。

 1955年には『アンデルセン生誕百五十年祭を催された。先生の心は、いつの日も、アンデルセン爺とともに、生きて居た、と語っておられた。

 私事に渉って恐縮だが、先生に感化されて私も渡欧する毎にオーデンセを訪れてきている。1938年の如きは、年の初めに来日したヨーンスペンソン神父とBKでラジオ放送をした。この神父が子どもの頃アンデルセン爺からお菓子を貰った機縁で童話を書くようになったと聞いて、親しさを抑えきれず、その夏渡欧中に神父との再会を期して神父の生国アイスランドを訪れた。英国から片道六日かゝる海路であった。

 日本青少年文化センターが、初代会長久留島先生を記念して『久留島文化章』を定め、本邦児童文化に貢献顕著な個人と団体を顕彰し既に16回に及んでいるが、これに加え、斯道の世界的第一人者アンデルセン翁の名を冠した章を新たに制定できたならば、日本の同志の歓びは勿論、久留島武彦先生の御霊も、さぞ御満足に相違ないと思う。

 それにつけても先年は、久留島先生の御郷里大分県玖珠町で毎年開かれいてる童話祭に、オーデンセ市長がアンデルセン博物館長と共にご出席になった。

 特にこんな機会に願くば、デンマルク・日本両国の斯道の方々に、ご協力と、ご尽力をお願い致したいものである。

 ちなみに久留島先生が日本の子ども達に、アンデルセン翁の生誕地オーデンセの名の由来を分かり易く話して両国の親近感を深めさせようと努力された。そんな時の先生の力強いお姿は、今もなお、まざまざ蘇る。さてそのオーデンセの名の由来とは、こうである。

 ギリシャ神話の有力な神オデインの最後に落ち着いた所、として付けられた、と云うものである。また、スウェーデンに最も近い海峡に望むクロンボルグ城に今も残っている神像ホルゲル・ダンスケは、デンマルクの守護神であるとも興味深く語っておられた。その守護神は、珍しく、力強い髭がテーブルを突き通している姿である。

※編集者註
 オーデンセ市長とアンデルセン博物館長とが共にご出席の『童話祭』は『第三十回日本童話祭』で、昭和四十九年五月に開催された。
 この時は、五月五日に『久留島武彦先生生誕百年記念法要』を行った。
 これらの様子は、古田先生のアルバムに残されている。

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久留島武彦先生の身近な思い出

 口述童話の日本における先覚者である久留島先生について、公的な立場からの優れた論評は数多くあるが、私は身近な、私的な、思い出を語ってみたい。

 私は、若いころ耶蘇教に帰依したという理由で廃嫡され家を逐われたが、そのことが先生と共通の境遇であってか、お親しみを特に頂き、上京後は代々木山谷にあった先生経営の早蕨第二幼稚園内に居住させて頂いた。

 先生は、日頃よく、ご本に親しまれた。地方への旅でも本を求めてお帰りになることが多く、相当に広い書庫の整理は私が全面的に受け持っていた。

 殊にご在京の時は、毎日の散歩に一冊は購入して帰られる。これを玄関で迎えられる岑子夫人はその都度、『今日は絹物ですか、木綿物ですか』と尋ねられたものです。

 絹物とは当時一冊一円以上の本のこと、木綿物とはそれ以下のを指すのでした。

 ちょうど私も本園にいたある日、ご帰館になり玄関でいつもの問いをお受けになって少し微笑みながら、
『今日は絹物でも木綿物でもない。‥‥ラシャものだよ』
とお答になった。

 お示しになったご本は、英文の洋書であった。

 先生のご在京の折をみて、有志の童話人が青山の早蕨本園に集まり先生を囲んで勉強会をもった。会の名称を『回字会』といった。事務は私が担当した。

 たしか昭和三年の頃、ある日、同士の一人が「回字会」の意味を尋ねた。

 先生は明瞭に、きっぱり、お答えになった。
『回の字は、口のなかに口あり、口のそとに口ある。君達は、そとの口を気にしがちであるが、内なる口も、大いに磨き給え。』
と。

 外なる口とは話し方の技巧のこと。内なる口とは話の内容、或いは心の問題。声とか、身ぶり手振りの研究もさることながら、自らの教養を高める不断の努力が、いっそう大切だと諭された物と、思う。

 久留島先生は、日本のスカウト運動に初期から大いに寄与された。1924(大13)年に少年団日本連盟名誉理事に推挙されて黎明期の陣容強化に尽くされ、この年派遣された第2回世界ジャンボリー及び第3回国際会議(何れもコペンハーゲン)日本を代表して参加された。なお、ボーイスカウト日本連盟第5代総長久留島秀三郎氏は先生の女婿であり、三島通陽氏は、名字が別でも家紋が同じ隅切り角に三つ引き[三]で・ッ系の家柄。名誉理事として行を共にされることの多かった中野忠八先生は京都における斯道の大先輩、その実弟が秀三郎氏である。

 コペンハーゲンで開催されたジャンボリーや国際会議のあと先生はオーデンセにアンデルセンの墓地や遺跡を訪ねた。このとき新聞記者にア翁の顕彰を訴えて話題になりそれが契機でア翁遺跡が復元され博物館が整備された。翌十四年東京で「ア翁五十年記念お伽祭」を主催した功で巖谷先生と共にダンネブロウ勲章をデンマルクから贈られた。

 これらが機縁で先生の郷里大分県玖珠町々長衛藤征士郎氏がデンマルクを訪問。その答礼の意味もあってか同町の第二十五回日本童話祭並びに武彦先生生誕百年記念法要[昭49.5.]にオーデンセ市長とアンデルセン博物館長が参列された。

 さて、大正十三年のスカウト旅行からお帰りの先生を東京駅にお迎えしたが、わけは後で話すとおっしゃって、私の手をいきなり、ギュッと握った。

 早蕨幼稚園の書斎に帰ると、旅装も解かずに真剣なお顔で私に話された。
『日本に帰ったら、君の手を最初に握ってやりたかった。まァ椅子にかけ給え』

 スカウトらしい生き生きした先生の面影が五十年後の今も脳裏に鮮やかである。
『ジャンボリーが終りに近づいた夜、各国1名の代表がキヤンプファイアーを囲んで集まり、火が静かに消えかけたとき皆手を繋いで立ち上がった。真中にいた創始者B-Pは“生まれたそれぞれの国を我々がマザーランド(母国)と思うならば、我々お互いの国々をブラザーカンツリー(兄弟の国)と思おうではないか”そう語り終わると握っている手に力を グーッと込めた。その力が伝わって来たとき〈これこそスカウト運動の心髄だ。これが出来て真の平和が世界に来る!〉感動的に、その時そう想った』
そう私に、つくづくとおっしゃいました。

 大正十五年の夏、先生のご郷里に近い飯田高原でスカウトの野営大会をした。全国からは勿論、上海、香港、シンガポールなどから多数参加し、我が国最初の国際スカウトキャンプとなった。久留島先生は野営長、私は野営長附で参加した。

 上海日本人小学校のスカウトが二十名河野訓導を隊長として参加した。到着と同時に設営し、一段落して休憩のとき、2、3のスカウトが雑木林の繁みに入った。暫くして慌ただしく飛んで来て、顔まで青ざめて大声に叫んだ。
『先生ッ 大変。 水道管がッ、水道管が破裂してまーす』
『なにーッ、』
河野訓導も驚いて駆け出そうとしたとき、久留島先生は制した。
『河野くーん、君まで泡を食っちゃおかしいよ。なるほど水は上海じゃ、黄浦江も呉淞江も黄色い泥水だ・きれいな澄んだ水は、水道の水しかないからな。スカウトの言ってるのは“谷川のせせらぎ”だよ。はっはっは。だからスカウトは、自然の中でキャンプして、自然から学ばにゃ、いかんのだな。』

 この野営中に、文部省嘱託で綴り方教育の権威芦田恵之介氏は、久留島先生が野営長であると聞いて訪ねてきた。一夜を天幕で明かして翌朝、野営長の依頼で“朝の話者”となって朝礼で全員の前で語った。小高い青草の丘から開口一番!
『皆さん、私は昨晩、ここ二年ぶりに安眠させて貰いました。一昨年9月1日の関東大震災で命からがら逃げました。それからというもの、床についても夜通しおっかなびっくり。いくら布団を厚くしても、ちょっとの物音で“あっまたっ”と飛び起き、安眠出来なかったのです。
 ところが、今朝は、爽快そのものです。
 ボーッと起床の合図が鳴るまで、昨夜は熟睡しました。考えてみれば、青々した自然のしとねで、床板も畳もなしに、大地に直接ぴったり、身体をつけて寝たのですからなぁ。大地は“母”ということばが、身に滲みて分かりました。
 “母なる大地の懐”に包まれ、大勢で生活を楽しんでいるスカウトの皆さんを羨ましく思いました。』
「お話の」久留島先生が、こんなに立派なスカウトのガキ大将とはまた、二度びっくりです……」
こう大自然を賛美して 芦田氏は話を続けられた。

 これらのエピソードに見られるように、自然に対する久留島先生の理解と愛情は、日々の野営生活に躍如として現われております。

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ボーイスカウト黎明期の思い出
=ボーイスカウト今昔=

“Once a Scout,always aScout!”
〜〜ひとたびスカウトになった限り、いつの日もスカウトだ〜〜

 このことばに励まされて私は永い年月、制服と離れずに、来年満八十歳を迎えようとしている。

 このスローガンを提唱した方は、キッチナー公である。公は、日本人としては最初に英国でスカウト活動を見た乃木将軍の一行をロンドンの北部と南部に案内された方である。

 日本人で最初といえば、後の日本連盟長老佐野常羽先生がギルウェル・コースに、いち早く入所された。一九二四年のことである

 佐野先生は謡曲「鉢の木」の佐野源左衛門常世の後裔(子孫)である。先生は海軍少将の時五十五歳を迎えられたが、五十五歳は父君常民伯爵が博愛者を創立された年齢であったことに気づいた。先生もそこで、日本民族の将来のため余生を青少年の善導に捧げようと決心し、海軍を自ら潔く退官なさった。

 先生は、京都・五条大橋の近くで薬種商を営み、京都の青少年運動の創始者であった中野忠八氏(後の日本連盟総長久留島秀三郎氏実兄)を訪ね教えを請うた。

 中野氏は関西便で、言下にこれを断った。
「あきまへん。自分が暇になったからいうて、えらいさんの遊び仕事にでける もんやないわ。やめときなはれ!」

 あきらめなかった佐野常羽伯爵は、店舗や表玄関からではなく勝手口から再三訪れ、辞を低くして面会をお求め、お教えを請うた。

 身分も地位も顧みない熱心さに中野氏も感嘆し、やがてこの二人は意気投合し日本スカウティングの指導者養成に協力し合い、その基礎を築いたのである。

 この会話は、ジョン・エス・ウイルソンの『スカウティング・ラウンド・ザ・ワールド』に紹介されている。ウィルソン氏はB-P卿の側近としてギルウェル・パークの所長を勤め、後にスカウト国際委員会名誉総裁になった方である。

 話は遡るが、ベーデン・パウェル卿が日本を訪れたのは1912年(明治45年)の春4月であった。この時横浜と神戸で英人スカウトに迎えられた。このことは、B-P伝記にも、ウィルソンの本にも書かれてあり周知のことであるが、神戸でスカウトを引率していたのが、宣教師ウォーカー氏である。氏の指導で私たちが神戸ボーイスカウト隊を発足させたのは、ボーイスカウト日本連盟の前身少年団日本連盟がまだ組織されていなかった頃のことである。

 佐野先生が指導者実修所を山中湖畔大洞に開かれたのは、1925年である。その時訓練の指導方針として“清規三事”と題し『実践躬行、精究教理、道心堅固』を掲げられた。
「古田さん、ギルウェルのレポートを書いたから、あなたにも見せよう」
と示された。それが『清規三事』であり、見せて頂いたのは英訳であった……
 “Activty farst, Evaluation follows, Eternal Spirit”
行うことが第一で、それを反省(評価・吟味)し、将来への指針と不易の精神を発見し身につけていく、と平易なことばに訳してご説明があったのに、いっそう感銘を深くした。この事は、今も鮮烈に思い出す(注(1))。

 佐野先生とウイルソン氏との、国際的なエピソードをひとつ紹介しよう。1926(大15)年、スイス・カンデルステッヒで第4回スカウト国際会議があった時秩父宮殿下もリュニオンに出席なさった。主催者側のウイルソン氏が日本代表の佐野先生に、秩父宮殿下に日本語で祝声を捧げたいが、と相談された。

 佐野先生は応えて、日本スカウトのチァーは「弥栄」であり、その意味を英訳すれば“More Glorious”であると説明なさった。ウイルソン氏は喜んで、
「意味も、響きも、素晴らしい。イギリスに帰ったらギルウェルでも用いたい」
と言い、リュニオンでは全員声を揃え“IYA-SAKA- --” と三唱した。事実その後、ギルウェルコースでは実修中のゲームが終ると、負者から勝者を祝い、勝者から負者の善戦を讃えるチァーに“IYASAKA!”を交換するならわしになったのである。(注(2))

 なおこの機会に佐野先生はギルウェル訓練所に再入所してウルフカブコースを修め、訓練所長ウイルソン氏からD.C.C.(所長代理)に委嘱され、スカウトコース、カブコース両方の実修所長の資格を得た。(注(3))。

 最後に、最近の日本のスカウト運動にふれておきたい。加盟数も組織も活気にあふれ実に結構である。しかし教育の現況は個性無視の一斉授業、詰め込み教育に偏向し、生徒も点取り集団の感が強い。我民族の将来的発展にとってスカウト教育の原理と方法は貴重である。この運動に関わる誇りを痛感する。が、省みて“清究教理”めざましく技能や知育の進むなかで、果たして“道心堅固”はどうであろうか。相応して深まりつゝあるであろうか。

 スカウトの“ちかい”で明かな信仰について、若い指導者にあるとき「あなたの信仰は?」と尋ねたら、「えゝ私の信仰はスカウト教です」と平然と答えた。こちらは、あぜんとした。“教”に替えて“スカウト狂”というべきだろう。

 「B-P最後のメッセージ」でも分かるように、国際的兄弟愛を広げて無価値至極な政治的争いを防止し、世界の平和と人類の福祉とを招来する任務が我々にある。1939年にヒットラーの暴挙で取りやめにこそなったが、その年のノーベル平和賞受賞者にB-Pが決定していたのは周知の事である。これを見ても創始者が、いかに心を砕き成果を上げてきたか。我々はこのことを忘れてはならない。

 B-P自ら佐野先生に話しておられたが、創始者はイタリーのモンテッソーリ女史の教育法に共鳴してスカウト教育法に応用した。が、方法を取り入れただけでなく女史の主張する精神に感銘し“すべての人の心に潜む人道愛(HUMANITY)を幼い頃から1人びとりの自発活動を通して表に出させる”、それを目標にして指導しようとしたというのである。スカウト教育の〈進歩の〉四本柱といわれる“人格”“健康”“技能”“奉仕”の根元は人道愛を啓発するにあるのである。

 われわれ成人も、少年達に遅れをとらずに、“明確な信仰”に支えられて励みたいものである。

注(1) 『日本ボーイスカウト運動史』 P.104ー7『指導者訓練所』
注(2) 前掲書 P.106末尾から2行目『清規三事』二荒理事長提唱の『弥栄』
注(3) 前掲書 P.116ー7「第4回ボーイスカウト国際会議」

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身をもって遺志を継ぐ

 去る6月27日が、私の八十歳の誕生日だというので、スカウティングに関係の多くの方々から招かれ、すこぶる立派なスカウトの立像まで贈られ、この上なく感激した。その日は前々日、25日であったが、曜日の都合からである。

 ところが、その日と誕生日との間の日、26日には、創始者のご夫人オラーブ・ベーデン・パウエル女史が八十八歳で急逝された。

 ご臨終の前日は、さぞや病苦もことのほか激しかったでしょうに、それと知る由もなく『私は日本人として最後にB-P卿とお会いできた。所はアイスランド、時は1938年8月』などと得意になっていた。まことに申し訳ない次第である。

 思うに、B-P卿を1941年1月8日に失われてから、
『時が心の傷をなおすまで、勇気を出して耐えて欲しい』
との遺書を支えにして、卿が逝去の前年ケニアの家でひらいた家族リュニオンにお残しになったメッセージ………
『八十余年の我が人生を顧み、政治的戦争は無益と現実に知り得た。最も大切 なのは、他の人々の生命を尊重し、平和と人類の福祉に努力することである』
これを、36年の間、身をもって世界のスカウターに示して来られたのである。

 レディ・ベーデン・パウェルが日本を来訪されたのは、1962年と66年の二回であり、その間の63年に、日本政府から『勲一等瑞宝章』を受章されている。このことは、ご存知の方も多いことと思う。

 直接に私がお会いしたのは前後二回で、最初は1956年4月23日。セント・ジョージ・デーのシニァースカウト大集会がウィンザー城で開かれた日、集会直前に昼食を共にしたのである。いま一度は、ご長男のお宅に一泊お世話になったときである。このご長男はB-Pご夫妻の結婚記念日10月30日の生まれで、命名は、最初の子なのでご夫妻で篤と相談し、ピーターパンにちなんでピーターとした、と承ったことがある。ピーター氏も来日されたことがある。

 このピーターも1962年12月11日逝去され、晩年のレディB-Pは寂しいものであったに相違ない。米国・ウィリアム・ヒルコートの『ベーデン・パウェル;英雄の二つの生涯』(注)の完成と発行のため、心からの協力を惜しまなかった。

 このB-P伝はヒルコートが五年がかりで心魂こめて書き上げたものである。B-Pご夫妻の最初の出会いは、B-Pが1912年訪日を思い立ち世界旅行の為乗船したアルカディアンの甲板であった。これも日本との奇縁か、と思わせる。

※注 “BADEN-POWELL;THE TWO LIVES OF A HERO” by Willam Hillcourt
故村山 有 訳『ベーデン・ポーエル伝』 日本連盟発行
根岸眞太郎監修『ベーデン・パウェル』 産業調査会発行〔1992年刊〕

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「わが公会とボーイスカウト運動」

 ボーイスカウト運動には少年に強くヒットする力があることは認めるが、少年の教会生活や日曜学校に影響しそうで、少年の教育に関心がある聖職者も信徒もうかつに手が出せないでいる、これが一般的なお気持ちではなかろうか。

 こういう方々は、この運動の創始者がロード・ロバート・ベーデン・ポウェル(B-P)であることを知ってても、父君がオックスフォード大学教授であり、聖職者であったこと、そしてその血がスカウトの誓い第一に「神に対する忠誠」(To do my duty to God )を取り上げさせた、と気付いてないのでなかろうか。

 さてB-Pは、最初日曜学校の教師であったウイリァム・エ・スミスが起こしたボーイズ・ブリゲードのプログラムに精彩を与えようと立案したもので、それが少年達に予想以上の反響を呼んだ。B-Pのスカウティング・プログラムは、少年達の要請からではなかったが、これが出たとき、彼らは積極的に活動に採り入れた。これが契機となって、独自の運動に発展したのです。

 B-Pの基本的考えでは、個人の信仰と教会生活を奨励こそすれ、教会の他所へ少年を連れ出そうなどと、少しも考えていません。現に日本に於てもキリスト教章を制定しておりまして、これを真摯な信仰生活をし教会に優れた奉仕をする少年に、所属教派の主管者の認定で授与するようにしております。

 私事に渉り甚だ恐縮ですが、一九一九年の頃神戸聖ミカエルを育成団体としまして竹内宗六長老(司祭)が団長、私が隊長となり神戸ボーイ・スカウトを設立しました。教会にスカウト団を設立したのは神戸に在住して聖ミカエル教会に籍を置かれた英人宣教師ウォーカー氏のご指導を受けたからにほかなりません。

 その後十年を経た一九二九年の初秋、ロンドンのある街角でヒョッコリ会った日本人青年二人、一方はクレリカル・カラー(聖職)、他方はスカウトユニフォーム。共にかつてスカウトとしてなじみの顔であった。日本語で呼びかけてきた、一種独特の懐かしい発声、それは四十年を経て今日も耳に蘇って来ます。

 クレリカル・カラーは、我らが総裁主教八代賦助先生であった。先生はケラム神学院にご留学中でありました。私は第三回世界ジャンボリーに参加、その機会にギルウェル国際トレーニングに入所とようと滞英中でありました。

 私が聖ヨハネ学園長として大阪に在住中に故名出監督(主教)、柳原牧師(現主教)両先生のご後援で大阪教区ボーイスカウトを組織し久保長老(登知雄司祭)をチャプレンに頂きました。

 六甲の山々でキヤンプなど楽しみましたが、この中から既に、数人の聖職者が生まれております。スカウト活動は信仰生活の躓きどころか、大自然の教場で創り主を深く知り、みこころに従う生活をより強める機会を提供しております。

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『まっ白な織物』

 織りもの工場で出来上がった、まっ白な、巻いた織りものがありました。

 ほかのいろいろな織りものといっしょにトラックに積みこまれて「ブーブー」いなかの道を走ったり橋をわたったりして、にぎやかな町の織りもの問屋につきました。

 織りものたちがみんないっしょにトラックからおろされると、お店の小僧さんが、おおぜい出て来て、一人が一巻ずつかついで
「よいしょ、よいしょ」
と倉の中へ、はこびました。
まっ白な織りものをかついだ小僧さんは
「なーんだ、白か」
といって、つまらなそうに、ほかのチェックや花模様や色の織りものとは別に、隅っこの方へ、投げ出すようにおいて、倉から出て行きました。
まっ白な織りものは
「あゝ、私はまっ白だけど、ほかのチェックや花模様や色の織りもの の方が上等なのかなあ」
ちょっと悲しくなりました。

 夜になって、倉のとびらが「ガッ チャン」としめられて、まっ暗になると、織りものたちは、お話をし始めました。
「ねえ、チェックさん、あんたこの倉から出たら何になりたいの?」
「僕かい、僕はチェックだから、坊やの洋服さ。きみは何になりたいんだ?」
「あたしは花模様だもん、可愛い女の子の着物になりたいの。」
そのとき
「ちょっと まって!」
と ほかのバラ色の織りものが いいました。
「あんたたちは洋服や着ものになりたいの? それもいいけど、あたしはカーテンの方がいいな」
すると、さっきのチェックさんが
「どうして カーテンがいいの?」
そう聞きかえしました。バラ色さんは、得意になって
「カーテンね、ほら、日あたりのいい窓にかけてもらって、風が吹くとヒラ ヒラ 動くでしょ。するとその窓の下を通る人たちは、『ホラ! すてきなカーテン』 ってほめてくれるでしょ」
「フーン、それも悪くない。まあ僕たちはきれいだから、きっとなんにだってなれるさ。」
そんな話を聞いていた まっ白な織りものは、
「あゝ、やっぱりそうか。私には模様も色もついてない。だからあのチェックや花模様やバラ色のように、よろこんでみんなに見てもらえる洋服や着ものや、カーテンにはなれないんだ。いったい私は なにになれるんだろう?」
そう 心配になりました。が、夜がふけて倉の中が シーン と静かになると、いつのまにか ぐっすり眠ってしまいました。

 夜が明け お日さまが窓からのぞくころになると、倉のとびらがあき、お店の小僧さんたちがはいってきました。
「そうら、荷出しだ 荷出しだ。積み出せ 積み出せ!」
どんどんと、模様ものや 色の織りものを、自動車やリヤカーにのせて 運んでいきます。
「あゝ、おいてけぼりだ。私はやっぱり、役に立たないんだ!」
まっ白な織りものは がっかり してしまいました。

 しばらくして、お店の方から、いせいのいい 声が聞えてきました。
「へえ、なに、白ですか。はい、ございます。ございますとも。」
そう 番頭さんが大声で答えながら飛んできて、まっ白な織りものをかかえ、店さきへ出て、そして、
「へえ、これならほんとう まっ白で 生地も上等。きっとりっぱに仕上がること うけあいです。」
「なるほど、これならまっ白だ。これにしましょう。私の車へ積んで下さい」
お客さんは おゝ喜びです。

 お客さんの自動車に乗せられ まっ白な織りものは どこへつれて行かれるのやら何をされるのやら不安で、ビクビク ガタガタ 自動車の中でふるえました。
 やがて自動車がとまり、工場のようなところに まっ白な織りものはおろされました。
 しばらくしてまっ白な織りものは、ズルズルながーくのばされ、ジャブジャブ水の中に入れられ、グラグラ沸いてるお湯に入れられ、ジョキジョキはさみで切られ、何枚も何枚もの、よこながな ふろしきのような布切れにされました。

 次に こんどは、一枚一枚が まん中を 赤く まんまるいお日さまのように染められ、チクチクチク両はしをミシンで縫われ、ひもを付けられました。
「はいッ!できあがりッ!」
 まっ白な織りものは、何が何やら 無我夢中で、人間のするままになっていましたが、気がつくと、自分は、白地に赤の布に なっていました。

 さて、こりゃあ 何でしょうか?
 そう、白地に赤。日の丸の旗 ですね!
 日の丸の旗は、日本の国旗 ニッポン国のしるし です
 おうちの おとうさんや おかあさんの 和服の内、お正月とか結婚式とかおめでたいときや だいじな式のときなどに着る 着物に……おうちのしるし 『家紋』というのが ついています。
 梅とか藤とか、丸とか角とか いろいろあります。それがおうちのしるしです。
 日の丸の旗は日本の国のしるしですから、国のお祝いの日、祭や記念の日などに、どこのおうちでも 日の丸の旗を立てます。
「日本の国、私たちは日本の国をたいせつにし、もっともっとよい国にします」
という気もちを、この旗を立てて現すのです。
 国の役所でも都庁、県庁、市役所など役所では、毎日この日の丸の旗を立てています。アメリカでもイギリスでも、ソ連でも、どこの国でも、その国のしるしのはたがあって、みんなで たいせつに たいせつに しているのです。
 日本の日の丸の旗は、世界の国旗のなかでも、形も色も すばらしい いゝ旗である。とみんながほめています。

            ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 あのまっ白な織りものは、きっとこんなふうに思っていることでしょう。
「金色の玉のついた旗竿の先や、高い高い柱の一番上で、青いお空にヒラヒラひるがえる白地に赤の日の丸の旗になって、ほかの洋服になったチェックさんや着物になった花模様さんや窓のカーテンになったバラ色さんより、おおぜいのみんなから 『あゝ、いゝ旗だな!』」
と あおがれ 大切にされる。

 私は まっ白でよかった。とっても 私はしあわせ!」

※編集者注 太平洋戦争(1941〜45)後の『日の丸』
(1)占領下に日の丸行進(「日本ボーイスカウト運動史」P.245)
 昭和23年1月3日、東京のボーイスカウトは粉雪舞うなか皇居前広場から銀座に向って『日の丸』の小旗をふって行進した。沿道の人々は感動し万歳する人、一緒に行進する人、『日の丸を拝む人』さえあった。
 GHQにはかなりの論議が起きたが、「日本のためボーイスカウトを通じて少年たちに、国旗の意義を教えてもらおう」と結論が出された。
(2)戦後初の全日本ボーイスカウト大会(前掲「運動史」)P.248)
 昭和24年9月24,25両日皇居前広場で開催。都道府県の代表スカウト約3500名が集った。開会式の国旗セレモニーで大『日の丸』を掲揚。

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NHK人生読本『幼な心』

 今世紀の終りとは云え、前世紀生まれの満80歳、幼な心を語るのは面映い。

 若い頃から子ども相手の生活、身寄りのない子どもの親代わりをして二十年。聖ヨハネ学園社会福祉の養護施設のある日、学齢の子が学校に行っている時間帯のこと。私は園長室にいた。玄関のベルが鳴ったので、出てみた。

 一人の若い女の人が赤ん坊を抱いて立っていた。私の顔を見たら………
「あの--、」と 抱いていた赤ん坊を差し出した。
私は反射的に手を出し、赤ん坊を抱き取った。そして……
「あゝ なにか相談。それとも預けたい…」
尋ねる間もなく、答えるでもなくそゝくさ、つゝゝゝ と女性は門の外へ………
〈おしめでも、それとも何か荷物でも取りに行ったか〉そう想いながら待った。
いっこうに帰ってこない。表に出てみたが、誰もいない。

 よほどの事情があるのだろう。当分預かって育てるか。この子には、罪がない。

 あらためて顔を見ると可愛い女の子。眼顔であやすと、瞳を動かして反応した。生まれて、3、4カ月 というところか。
〈あゝ そうだ。保育学校の子ども達に………〉
そう考えて、その 静かな可愛い赤ん坊を抱いて保育室へ行った。

 保育学校とは、近隣の勤労者家庭の子ども達を日中預り、学齢前の学園の子と一緒に遊ばせていたのである。学園の子の社会的成長に、よい影響があった。

 その時ちょうど保育室では、おやつが出る時刻であった。子ども達は喜々として活気にあふれていた。 私の姿を認めて、
「あっ、園長先生。」
わーっと、みんな集って来た。
「おっとっと、みんな静かにできますか。できたら見せたいものがありますよ。」
「僕、静かにできる。」
「あたしも、できる。」
「ホーラ、赤ちゃんだよ。泣かないで静かにしているでしょ。みんなが騒いだら、泣き出すかもしれないよ。」
 ……………………
「ホーーーッ、みんな静かになったね。」
 ………… 静かになって、しばらくして、
「先生、蝿が飛んでる、蝿が。蝿の羽根が動いている、ブーン ブーンって。」
「こんな音、聞いたことない。」
「静かって、おもしろいなあ!」
「あっ、ホラ、お庭の木が泣いてる。風が吹いて、痛いのかなァ?」

 ある日保育学校の庭で、南東の隅、昔風なら、辰巳の方角の、小さな椿の木のそばで、みっちゃんという、五歳の子が、
「あっ、かかった かかった。おもしろいよ、どっちが強いかな? 」

 聞きつけた子ども達は、みんな、その方に集まり、輪になって何かを見始めた。
 〈何があるんだろう〉 私も子ども達の輪の後ろから のぞき込んだ。

 椿の木の、低い枝に張られた くもの巣に はちが一匹かかり、巣が揺れて気がついた くもが はちに襲いかかろうとし始めたところであった。
「あっ、はちが可愛そうよ、くもに やられるわ」
「誰か、助けてやらないかなァー」
「だって。くものおうちへ、だまって入ったんだもん。はちの方が悪いんだよ」
「くもだって、勝手に網を張ったんだから、くもも悪いよ」
「くもに、はちが負けたら、食べられちゃうかな?」
「人間だって、網張って魚取って食べるんだって、お父さん言っとったよ」

 何はともあれ、私は日頃、自然の出来事はよく見るように、邪魔しないように、と指導をしていた。誰も石を投げたり、棒でつっついたりしないで、じーーっと観察している子ども達の様子に、私はすっかり満足し、成りゆきを見守った。

 子ども達の後ろで、何か モゴモゴ 動くものがあった。見ると三歳の誕生日が過ぎたばかりの、健ちゃん、という男の子が、覗いてみたいのだろう、輪に潜ろうとする。が、輪が堅い。上から見ようと飛び上がっても、もちろんできない。
 暫く ウロ ウロ していたが 何を思い立ったか、保育室の方へ チョコ チョコ 走った。
 ……どうするか興味をもって観ていた。………
 彼は子ども用の椅子を持ち出そうとしたが、重くてダメ。それを止めて積み木入れの空き箱を見つけ、それを持ってまた チョコ チョコ 輪の方へ戻った。輪の後ろに箱を置き、懸命になってそれに登ろうとし始めた。
 〈うまく、これで見られるといいが〉応援する気持ちでじーっと私は見守った。
 登ろうと、もがいている健ちゃんを見つけた一人の保母が、
「あっ、健ちゃん 見たいのっ。そう? はいっ そーりゃっ」
健ちゃんを抱き上げ、くもの巣を見せようとした。
 保母に抱かれた健ちゃんは、後ろを 振り返り、振り返り、叫んだ。
「はこ! はこ!」と。
 保母のしたことは、一見、親切そうであるが、健ちゃんにとっては、迷惑。せっかくここまで苦労したのを、踏みにじられ 傷つけられた想いだったろう。
 健ちゃんの気持ちで考えれば、成功に手が届こうとした瞬間に、成功の喜びを奪われたことになるのではなかろうか。成功を見届けて欲しかったものと思う。
 まえから言ってきたが、四十五年このかた、私の保育学校では、三つの言葉を、なるべく使わないように、いや、使わなくて済むようにと、職員一同で工夫して環境作り、状況の整備、に努力してきた。
『こうしなさい、この通りしなさい』
『こうしては、いけません』
『これは間違いです。やり直しなさい』
 子ども達の、自発活動を促進し、自立的解決を重んじよう としたのである。

 第一に『こうしなさい、この通りしなさい』 そう言わなくて済むためには、子ども達自身が“自分でしたい”ことを見つけて、それを“してみられる”状況と条件を整えて見守り、子ど藻の主導権を損ねない範囲で、必要最小限の補助を注意深くすることである。そして、達成感を共感し努力を認証することである。

 第二の『こうしては、いけません』 そう言わなくて済むには、子ども自身で“ことの よし・あし”を判断して“よくない”と思ったことは、しないように、はっきり仕向けること。この際“……だから”もチェックして、それによっては、
“そうかな……”と、問いかける必要もある。

 第三に、『これは間違いです。やり直しなさい』 こう言わないで済むには、まず大前提に、子どもが間違いに自分で気がついたら、自分でやり直せる気楽な雰囲気を工夫していることである。見とがめて小言や批判を浴びせかけるのは、大の禁物。目にして褒めるのは、よかろう。照れて、走り去るだろうが。
“したい”ことも“したくない”ことも、子どもと同じ目線でみるとも言う通り、子どもの心で考え。理念に照らして必要なら子どもの気持ちをおうむ返しして、その気持ちを浮き彫りにし発問する。それでより優しい心、フェアな行い、より適切な方法を思い起こさせ、たどり着かせる指導の工夫を忘れぬようにしたい。 忘れたくないのは、主導権は子どもにあり、子ども自身に責任があると明確にしておき、子どもの自負と名誉に、幼い心にも、訴えて備えさせることである。時には、大きな痛手でない限り、失敗を恐れてはならない。失敗も成功も体験を自ら振り返って学ばせ次に役立たせる受容的な、一人びとりの成長を楽しむ援助、これを大切にしていきたいものである。 イギリスの“P-T-P”教育を味わってみたい。“P-T-P”とは……
『第一のPは、“please”(どうぞ)』
『Tは、“thank you”(ありがとう)』
『第二のPは、“pardon me”(ごめんなさい)』

 イギリスの家庭で、それを言いなさい、と子どもに強制してはいないという。家庭の日常で親(大人)達が、子どもに判るよう子どもの見聞きする所では特に、努めて使っている、ということであった。
 これを聞いた感動は深いもので、言葉そのものを、そのまゝ四十年間忘れない。
 イギリスのスカウト達が親切で礼儀正しい。これに感銘して、イギリスのあるスカウト指導者に質してみた。
『それが、若しそうならば、それは、……』
と上記の状況を説明してくれた。昭和の初め、ボーイスカウト世界ジャンボリーに参加した大きな感動の一つで、片時も忘れないようにして、それの実践に心掛けている。

 わが保育学校でも、こんな会話を耳にし、幼い子ども達が、と密かに微笑んだ。
「あっ、僕の靴。こんな所に脱いだまゝ置かないで、揃えて靴箱に入れよーっ」
「あたしも入れよーっ。脱ぎっぱなしは汚いし、邪魔になるのよねっ」
「清ちゃん、あんた先に来たんだもん。先に入れて いゝわよっ。どうぞ。」
「そう!ありがとう」
「あっ、ごめん。僕の靴から 泥がおちた」
「いゝの。 わたし拾って 捨てゝおくから。急ぐんでしょ」

 この状況を私は、私の保育学校で、職員たちと話題にした。
 P-T-Pを、私たち職員のあいだでも努めて使うように強調してきたが、それがこんなにまで子ども達に反映しているのか、とむしろ驚いた。私たちは自戒をここで新たにした次第である。『子どもは大人の背中を見て育つ』怖さを。
 今日の日本の子ども達、いや大人たちが、こういう会話を自然にできる状況になれたら、どんなにか楽しいか、そう思うのである。

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『グットラック・マガジン』日本赤十字運動百周年に創刊

 今年は赤十字運動が日本に伝わって、ちょうど百年になります。この年に当って『グッドラック・マガジン』が創刊されることは、実に不思議なご縁と考えられます。雑誌の主宰者中村孝一氏が、かねてから尽力しておられるスカウト運動と赤十字運動とは、まことに深い関係にあるからであります。

 赤十字運動を日本で創始なさった佐野常民氏は、そのご先祖が謡曲『鉢の木』の主人公佐野源左衛門常世であり、さらに遠祖が、栃木県佐野市『唐沢山神社』の祭神、俵藤太・藤原秀郷卿であります。卿は瀬田の唐橋から三上山を七廻り半もしていた大百足を射殺して民百姓を救った、尊崇されております。

 常民氏は、幕末のころ養嗣子として佐野家を継ぎました。同家は当時ご殿医。それを継ぐ準備で長崎に留学し、勝海舟らと共に蘭学を修めました。

 間もなく明治御一新になり、外国語に堪能な常民氏は明治新政府でも重く用いられ海外に差遣される機会が多かったのであります。

 明治六年(1873年)オーストリアに差遣され、ウィーンで開催されていた万国博覧会で『赤十字国際組織』を知り、「戦争の際、戦傷者を敵味方の差別なしに互いに救護する」国際条約があるのに感銘し、日本もやがて加盟する必要があると痛感しながら帰国したのであります。

 幾年も経たない明治十年に「西南の役」が起き、戦傷の惨状を目の辺りにして欧州の『赤十字精神』を活かす時は今をおいて他にないと決意しました。

 『博愛社』を設立し「戦傷者を、敵と味方の差別なく救護したい」と政府に願い出た。が、「賊軍の兵を救護すること、相ならん」と受理されませんでした。
『これでは、世界の文明から、おくれをとる』
と考え、同じ元老院議官の大給恒氏に、資金面などの後事を託して、自分は現地に赴き、征討総督、有栖川熾仁親王のご英断を仰ぎ、明治十年(1877年)五月一日、
『官軍賊軍ともに“陛下の赤子”なれば区別なく救護しよう』
とご許可を得た。今年から、ちょうど百年前にあたるのであります。 さて一方、ボーイスカウトとの関係は、嗣子佐野常羽氏であります。 常羽氏は、海軍少将で五十五歳を迎えられた時、父常民氏が『博愛社』を興して救護活動を始めたのが五十五歳であったとフト思い起こし、余生を日本民族の将来のため青少年の善導に捧げようと決心した。京都・五条大橋近くの薬種商で京都青少年運動の創始者中野忠八氏を早速訪ねて教えを請うた。忠八氏は言下に
『あきまへん、暇だから言うて偉いさんの遊び仕事にできるもんやありまへん』
と断った。あきらめずに身分を忘れ辞を低くして再三教えを請う常羽氏の誠意に忠八氏も感嘆。二人はスカウト運動の指導者養成に協力しその礎となりました。常羽氏は1924年スカウターの修練メッカ、ギルウェルコースに日本人で初めて入所し、1925年に富士山麓山中湖畔大洞で『清規三事』(実践究行、精究教理、道心堅固)を基本にしてスカウター実修所を開き、伝統の魁けとなりました。 常羽氏は1926年団欒の席で、B-Pからスカウト教育の述懐を聞きました。
『佐野さん私は、イタリーのモンテッソーリから、幼児に生活体験をさせながら“自分に潜む優しさの大切さを幼児に気づかせ、人類の平和と福祉に役立つ心を養う”ことを学び、体験的学習に年齢を考慮し、責任を与えた小集団の自発活動、感覚訓練、観察・推理訓練を加えてスカウト教育を組み立てた。他の人に役立つスローガンの「GOOD TURN Daily」 もそれによって慢心するのでなく、感謝から責任遂行するモットーBe Prepared」で 自己訓練し野外活動と奉仕の仲間として市民的有能性(徳)を養う、それが目標である』
と親しく意を尽くし説明された。

 常羽氏はあらためて『清規三事』を省み「実践躬行」「評価」「道心」の何であるかを噛みしめ、スカウト精神、自己訓練、奉仕の人類的意味を沈思した。

 生前のB-P卿に1938年日本人として最後に会った私に卿はお尋ねになった。
「Do you remember、activety first、evaluation follows、eternal spirit ?」
B-P卿の脳裏に残る『清規三事』で、お二人の共感と信頼に感銘しました。

 赤十字運動とスカウト運動とは、日本の運動史に輝く二人の親子関係だけではもちろんなく、B-P卿と共に歩む者は、人類の平和と福祉を念じてはたらき、これを通じて成長する我ら赤十字人と一つにしながっております。

 ところで、『国際赤十字条約』の起源はスイスの一青年アンリー・デュナンにあります。イタリー独立戦がらみでソルフェリーノで戦い戦傷した兵士の惨状を目撃した彼は、自分の用件を忘れて「みんな兄弟じゃないか」[トウディ・フラテリー]と叫びながら入り乱れて倒れているイタリー、フランス、オーストリァの負傷者を差別なく救護し、体験を手記『ソルフェリーノの思い出』にまとめて世界に訴え、国際的な救護運動を結実せさたのであります。

 『赤十字運動』の興った契機が戦傷者の救護であっても、運動は戦時だけではない。九十歳までアフリカ未開地の原住民医療に奉仕されたシュヴァイツァー氏が『生命の畏敬』と題して1959年ブラッセルで講演し、近現代戦争の大量殺戮の悲惨と、この抑止に政治、思想が無力であることを訴え、アンリー・デュナンのヒューマニティを各自の心に蘇らせて人類を破滅から救済する道を説きました。

 赤十字国際委員会はツュヴァイツァー氏に『赤十字最高黴章』を贈って敬意を表しました。つとにわが国でも、日本赤十字社に名称変更した翌明治二十一年に磐梯山爆発に救護班を派遣し世界最初の平時活動となり、「平時救護」の箇条が条約に加わり『赤十字社連盟』という平時活動の国際機関の創設に至りました。

 いまや『赤十字精神』は、戦時、平時の区別なく、人の痛みや苦しみのある所、どこへでも、早速駆けつけ、救護にあたる、これが現状であります。

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弔 辞

財団法人ボーイスカウト日本連盟
総コミッショナー 鈴木 了正

 財団法人ボーイスカウト日本連盟先達古田誠一郎先生のご霊前に謹んで申し上げます。
 先生がご不例とは存じておりましたが、このように早くお別れを申し上げようとは 夢想だに いたしておりませんでした。
 ご家族皆様のご心中をお察し申しあげますと、誠に胸が痛みます。ここ数日、心の中を吹き抜ける空漠たる思いは、私ばかりではないと存じます。
 ここにボーイスカウト日本連盟を代表し、心から哀悼の意を表します。
 顧みますと先生は、大正十二年には、わが国最初のカブスカウト隊を発隊され自ら隊長となって幼年訓育の道を進まれ、今日まで先生のスカウト運動に尽くされたご功績は誠に大なるものがあります。
 昭和四年英国で行われた第三回世界ジャンボリーには日本代表として参加され終るや直ちにギルウェル実修所に入所、スカウティングを研鑚、帰国後はわが国の指導者道を確立した佐野常羽先生を援け日本各地に実修所を開かれ、数多くのリーダーの養成に尽くされたのであります。
 又、先生は大阪のセントヨハネ学園園長としてスカウト教育を幼児教育に取り入れ、ユニークな学園の名を高められ、後に学園は高槻市に移ったのでありますが、先生のご人格と高いご識見は市民の敬慕するところとなり、市民から推されて戦後初の市長となられました。
 一方 わが国ボーイスカウト運動再建には、先生のお力がどうしても必要と当時の総長三島通陽先生の熱望に、いまだ任期半ばの市長職を辞され、日本連盟総局長となり、文字通り寝食も忘れて再建に尽くされたのでありました。
 先生は又日本赤十字社にも関係され赤十字奉仕団の活性化にも尽くされたのであります。
 このような先生はボーイスカウト創始者のベーデンパウェル卿を始め世界各地に友を持たれ、英国ギルウェル実修所の副所長にも任命され わが国のみならず国際的指導者としての名声を高められたのであります。
 その功に対し 日本連盟では 昭和二十九年に鳩章、三十四年には やた烏章五十四年には最高の功労章きじ章を贈り、更に教育指導に特に功績顕著な方のみに贈る「先達」の称号を受けられたのであります。
 国に於いても先生の長年に亘る青少年教育の功績に対し 昭和四十三年に勲四等瑞宝章を贈ったのでありました。
 真のスカウトの道を実践された先生の温顔にも再び接することが出来ないと思いますと 誠に痛惜に堪えません。
 しかし先生が生涯を捧げたボーイスカウトの現状を思うとき一層の努力をすることこそ先生のご遺志にお応えする道と信じ 一同努力をいっそう重ねることをお誓い申し上げ お別れの言葉といたします。
 先生どうぞやすらかに お眠り下さい。
                      平成四年十二月十二日

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大阪府高槻市 市長江村 利雄

 高槻市の第三代市長
 故古田誠一郎先生のご逝去を心からお悼み申しあげます。
 顧みますと先生は 昭和二十二年四月の 戦後第一回の市長選挙において市民の輿望を担われ 見事ご当選になられたのでありました。
 わが国は戦争の傷跡まだ癒えぬ窮乏の時代であり 本市は 一刻も早い復興を目指し、民主的な種々の改革を要したのでございます。
 何よりも食糧難の打開、物価の安定をはじめとする経済対策、市財政の円滑な推進 さらには自治体警察や消防団の発足等々、そしてまた市民生活を最優先に財源の確保から 治安統制諸制度の改編にいたるまでいかんなく その力量を発揮され 苦悩の中にある市民を導いていただいたのでごさいました。

 戦後の混乱期における本市行政の基盤を立派に建て直し 都市の礎を築き上げられたご功績は わが市民が永久に忘れるものではありません。
 また社会福祉法人聖ヨハネ学園の理事長としても 本市行政に多大のご尽力を賜りました。現在も学園は先頭に立って本市各種福祉施策にご助力をいただいております。感謝にたえないところでございます。
 先生の誠実さ責任感あふれる行動 そして仕事への献身 それらは終生変わることなく情熱を注がれました。
 ボーイスカウト活動にも顕著に拝見することができるのでございます。
 あのカーキー色の帽子と制服に身を固められて 本市の文化の日の式典にもよく お越しいただきました。
 在りし日の先生のお姿が、昨日のことのように瞼に浮かびます。
 本市は明年市政施行五十周年を迎えます。
 よく人と語らい歌うことをこよなく愛された先生は これを祝って下さることなく逝ってしまわれました。かえすがえすも、残念で たまりません。
 どのように厳しい冬の寒さがありましょうとも 必ずや東からの風がそよぎ、緑の新芽を、吹き育てます。
 どうか先生には温かな春の風となって頂き 本市の限りない可能性を秘めた 未来への道をお導き下さいますように
 いまは ただ先生の安らかな永遠の眠りをお祈りいたしまして高槻市民を代表し お別れの言葉といたします。
                          平成四年十二月十二日

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村島 文二

  古田誠一郎先生のご霊前に捧ぐ
 ボーイスカウト先達古田誠一郎先生と申しますと 私にとりましては、おやじ様、京都二十四団のものにとりましては、じ様、ご在世中は長いこと お世話様になりました。本当に有り難うございます。
 私共はいつも、おやじ様、じ様が 輝かしいご活躍をされておりますことを、誇りにいたしておりまして スカウトの道をいそしんでまいりました。
 この度は、神様のみ許に召されまして、私共 唯々悲しみに打ちひしがれております。
 顧みますれば、おやじ様と私との出会いは、今を去る五十六年昔のことでございます。天王寺のヨハネ学園の園長でおられた頃、私は学園の主事として勤務させて頂きました。
 八年間お世話になったのでございますが、その間高槻の山で子ども達と 夏は一ケ月のキャンプ生活をいたしました。
 山小屋では おやじ様を初め、スカウト仲間の忠やん、象さん、哲ちゃん等が集まりまして、スカウトの運営について語り合っておられました。
 戦局厳しくなりまして、私は早川電機に参りまして動員学生をお世話などする為、学園を退きましたが、終戦後第一回の高槻市市長選挙に地元の推薦で立候補されることになりまして、私は当時丹後の田舎に引き込んでおりましたが、私をお呼び下さいまして、学園のお手伝いをしながら、選挙事務やら応援等の手伝いをさせて頂きました。
 当時日本連盟の総長であられた三島通陽先生やら童話家の久留島武彦先生はじめ大阪の童話家の諸先生の応援を得まして、先生は見事に市長に当選されました。
 私は秘書として勤めておりましたが、そのうち私の為に調査課というのが出来ました。調査課で私が何をしたかと申しますと 高槻にボーイスカウトの実修所の開ける所はないか、調査に毎日出かけていったのであります。
 私の見つけた玄仁寺にきまりまして、そこで大阪のボーイスカウト指導者養成第一回講習会が開催されたのであります。
 当時京都では、中野忠八先生が第一回講習会を開催しておりました。私もその調査に参りました。こうして市長という多忙ななかでもボーイスカウトの育成に尽力しておられたのであります。
 私は間もなく 京都の平安女学院に召されまして先生とお別れいたしましたが、先生も間もなく日連のお召しを受けられまして スカウト一筋に生きて来られたのでございます。

 がしかし、やがて日本赤十字社にも関係されまして、満州からの引き上げ者を日本代表として数回にわたってお迎えに行かれるなどもされました。
 児童福祉関係のうえでも 幼児教育のうえでも、ボーイスカウトのうえでも、またまた日本赤十字社のうえでも、数々の偉大な功績を残されたのであります。私は、昭和二十八年 京都二十四団を発足させましたが、当初から二十周年、三十周年、そして三十五周年が最後になりましたが、ご高齢にかかわらず、いつも、半ズボンで、奥様ご同伴でご参列を いただきました。
 この十一月は、先生のお越しのないまま、四十周年をさせていただきました。今回の訃報につきましては、もしやのお知らせを、数ケ月前から受けておりましたが、私の主催する書道展等の準備に追われ、また結婚の仲人を引き受けるなどして、身動き出来ず、先生の最後にお会い出来ませんでした。誠に慚愧に堪えません。お許し下さい。
 若いころ、息子のように可愛がっていただきながら、誠に申し訳御座いませんでした。お許し下さい。
 どうぞ、天国から、日本のボーイスカウトをお守り下さい。
 おやじ様、また、天国でお会いいたしましょう。さようなら。先生の、心の息子でありました
                                  村島 文二より

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古田誠一郎先生年譜
明治30(1897)年 6月27日古田熊太郎(後に吉兵衛と改名)の長男として和歌山市中之店南之丁2番地に出生
大正 3(1914)年和歌山商業学校第九期修了
大正 6(1917)年(?)徴兵検査で甲種合格、近衛歩兵第四連隊入隊
大正 8(1919)年日本聖公会に入信、和歌山・聖救主教会で受洗廃嫡され、神戸に焼芋屋開店。
聖ミカエル教会、日曜学校教師を委嘱される
宣教師Mr.ウォーカー、木村氏の指導のもとで神戸ボーイスカウト隊を創設[同士;足立、平井]隊で教会に徒列し、入信最初のX'masを迎える
大正12(1923)年 9月大震災救援、東京・彌栄ボーイスカウトと協動
大正12(1923)年12月須磨向上会ウルフ・カブ誕生(後援;市長石橋氏)
「神戸映画教育会」設立;巡回映画
帰省:家業再建・整理。和歌山第1健児隊創設
久留島先生の早蕨幼稚園で蔵書管理、回字会事務
日本大学文学部(夜間部);教育倫理学の研究
日光精銅所少年少女団に参画、指導にあたる
昭和 2(1927)年 8月3日~8日第1回幼年部中央実修所に入所
佐野先生の事務所(第八天国)で事務を手伝う
昭和 4(1929)年日大退学、第3回世界ジャンボリー参加(隊付)
ギルウェルトレーニングセンター少年部年少部第2課程修了
帰国後佐野先生の許で指導者実修所に奉仕
昭和 6(1931)年 2月社団法人聖ヨハネ学園理事長兼園長就任
昭和 7(1932)年 4月 全国私設社会事業連盟理事
「童話教育研究会」結成、機関誌「子どもと語る」
昭和 9(1934)年10月社団法人聖ヨハネ学園財団組織変更で常務理事
昭和12(1937)年初冬ヨーン・スヴェンソンと大阪中央放送に出演
昭和13(1938)年 2月
4月

9月
大阪府知事より社会事業功労者として表彰
大阪府委嘱で渡欧;欧州の児童保護を調査
第1回国際カブ指導者会議に日本代表で出席
第1回国際ワークキャンプ会議日本代表で渡仏
ギルウェル指導者実修所少年部幼年部課程修了
昭和14(1939)年 4月
5月
財団法人中央社会事業協会理事
調査終了して欧州から帰朝
昭和16(1941)年11月 中央社会事業協会長より社会事業功労章贈らる
昭和18(1943)年 4月大阪・財団法人桃山中学校財団理事
昭和22(1947)年 4月 大阪府高槻市長に当選、就任
大阪府社会教育委員
天皇陛下に京都御所で「関西の児童福祉」を言上
昭和23(1948)年 4月
6月
大阪府市長会副会長
5月フラナガン神父列席で関西スカウト再建協議会
日本ボーイスカウト大阪連盟理事長
昭和24(1949)年 8月
9月
財団法人ボーイスカウト日本連盟理事
同上第1回通常総会(議長;古田理事)
昭和25(1950)年 2月 (学)桃山学園理事・(財)聖ヨハネ学園々長を辞任
大阪府高槻市長を、任期途中で辞任
(財)ボーイスカウト日本連盟総主事総局長に任命さる
昭和26(1951)年 1月
4月
D.C.C.of Japan,とAkela Leaderに任命さる
国際社会事業日本国委員会委員
昭和27(1952)年 5月 ボーイスカウト総局長を辞任
相談役、中央実修所長に配置転換
昭和29(1954)年 2月
11月
日本赤十社参与[本社奉仕課長]
興安丸乗船代表(中国から帰る日本人の受領)
昭和30(1955)年 4月
12月
国際ワークキャンプ日本協議会々長
大成丸乗船代表(ソ連から帰る日本人の受領)
昭和31(1956)年 3月 国際ワークキャンプ国際会議の日本代表(渡仏)
ギルウェルトレニングセンターに所員で奉仕
昭和33(1958)年 5月中央児童福祉審議会臨時委員に委嘱さる
昭和34(1959)年11月文部大臣表彰(社会教育功労者)
昭和36(1961)年 4月第1回指導者養成要員実修所でサーマンの助手
昭和38(1963)年 9月赤十字百周年記念国際行事参加団副団長で渡欧
昭和39(1964)年 9月日赤参事辞任、本社常勤嘱託
昭和41(1966)年 8月ボーイスカウト第4回世界訓練会議日本代表
昭和42(1967)年 5月 ボーイスカウト日本連盟副総コミッショナー
昭和43(1968)年 4月29日 「勲4等瑞宝章」(青少年教育の功)受章
ボーイスカウト世界訓練委員
昭和45(1970)年 5月 ボーイスカウト日本連盟『先達』の称号を受く
昭和55(1980)年 3月31日日本赤十字嘱託を辞任
昭和55(1980)年 5月

7月20日
ボーイスカウト「きじ章」受章
日本赤十字「銀色有功章」受章
『ウルフ・カブ発祥の地記念像』除幕式
兵庫県連三十周年に緑の須磨公園に建立
平成 4(1992)年12月 3日逝去

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◎◇参考◇
三木保男君編著『私がスカウティングで見附けた“この人”』を参照
(1)
『B-P卿のご自邸に滞在して帰国された佐野先生が語られた(1926)』
  ☆ベーデン・パウェル卿は三つの感銘☆
 第一は、スイスにあるペスタロッヂ氏の墓石に刻まれている言葉、
 “すべては他人の為に、彼自身何物も取らず。”
 第二は、マリア・モンテッソリーの幼児教育。 〈年齢〉立割り編成の班で 課題作業をする〈体験〉教育法。これがスカウト教育の班制度のもとです。
 第三は、日本の“茶道”に精神と行動の一致を見たこと。上記1,2の着想は 思想的に素晴らしいが、西欧では思想と生活の密着が崩れていると考えた。
 “茶道”には「ちかい」や「おきて」と同様に、四規七則がある………
 四規は“和、敬、清、寂”
 七則は、一、茶は服のよきように(実質を失わぬよう)。二、夏は涼しく、冬温かく(環境の整備)。三、花は野の花のように(花の自然を失わず自然に学べ)。四、炭は湯の沸くほどに(中庸、ほどよく、バランスよろしく)。五、降らずとも雨用意(備えよ常に)。六、刻限は早めに(タイミングよく)。七、相客に心せよ(パトロール精神、人と人の“出会い”に気配りする)。
『聖ジョージに夢でお告げを受けて決心した』とB-Pが言う世界旅行の最終目的(1912年)は日本にあり、“茶道”の実際と“恥の文化”の実態から西欧が失い日本が保っている「スカウト教育の目指すイデー」の具現を見たかったという。東洋、日本の習慣では、法律的にはともかく人間的に恥じな行いをしない感覚がはたらく《その根には人間としての誇り、面目の意識がはたらいている》。西洋では、権利主張が強くて違法な行為や不法行為さえないと思えば平然としている〈法的〉“罪の文化”に傾き、神に背く信仰的 『罪の意識』は衰えた。『主の働き』に連なるヴォランタリーなサービスを忘却した人が増えれば人類滅亡は到来すると考えたのである[P.71~]。
(2)
古田先達がスカウト活動と「出会い」した学校とは?[P.11]
 ウォーカー氏が学校は、イングリッシュ・ミッションスクールと言い当時小学校(プライマリー・スクール)であった。神戸の人々は「けんこう義塾」と言った。公立学校と違うので、一般の勉強会の施設と受け取ったらしい。

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詞藻集編集あとがき

 ファイルされた原稿の整理を心がけながら、ご逝去から1年で作業を漸く終えることができました。お元気な間に作業が進んでおれば、確かめたいところもあったものを、と残念に思います。

 日本のスカウト運動の殆ど初期の頃から、この運動の発展と指導者養成の充実に尽くされた古田先達の手記ですから、貴重な証言として玩味頂けるものと考え、逝去一周年記念式の機会に、その一部を纏めました。

 それぞれの分野で既にご覧のものもおありと思いますが、多方面に亘るご活躍ですので、故古田先達のご活躍を通じて、他の分野に新たな認識と関連性の発見をして頂けるとご期待申し上げたく存じます。ともあれ、貴重な興味深い原稿は多数ありましたが、今回は、それぞれの分野を端的に表すものに限らせて頂きました。自余のものは折をみてと考えております。

 晩年なお益々「世界の平和と人類の福祉」の実現に向け人道愛の教育に情熱を燃やし続けました。『心に発願ある者、之を青年という』(法句経)を身をもって実践された故古田先達のお姿という意味で、標題としました。半スボンのお元気さで通されたお姿を偲んで頂きたく存じます。

 この詞藻集をまとめるに当たっては、ごま書房柴村繕太郎様、ボーイスカウト日本連盟の廣瀬文一様、下田 雅様のご懇篤なるご指導とご協力を頂きました。深くお礼申し上げます。資料につき全面的にご協力下さった雪枝夫人にも心から感謝申し上げます。

 同じ聖カブリェル教会で東京練馬第5団に所属しご指導頂いた

高橋 定夫

草詞藻集・心に初願ある者

発行・1993年12月4日
発行者・古田 雪枝
編集・草詞藻集刊行会
非売品 (C)1993

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