スカウト運動の成長

◆スカウティングの成長
 現在、世界には、1,600万名のスカウトがいる。これまでに2億5,000万人の人たちがスカウトを経験し、社会のあらゆる分野に著名な人々を送り出している。
 1907年8月の最初の8日間に、20名の少年が英国のドーセット、プール近郊のブラウンシー島で実験キャンプを行ったことから、この運動は始まった。
 キャンプは大成功に終わり、これを組織したロバート・ベーデン-パウエルは、彼の訓練と訓育方式が若者にとって魅力的なものであり、かつ有効であることを確信した。
 1908年1月、彼は“スカウティング・フォア・ボーイズ”を創刊し、4ペンスで隔週分冊で発行した。これもまたたくまに成功を収めた。
 ベーデン-パウエルの意図は、ただ、この少年たちの訓練方法をボーイズ・ブリゲードやYMCAのような既存の青少年団体で採用するように提供することにあった。驚いたことに、少年たちは自分たちで組織を形成していき、これが、今日世界最大の自主参加による青少年活動となったのである。

◆ベーデン-パウエルの経歴
 ロバート・ベーデン-パウエル(以下B-Pと略す)は、1857年2月22日に生まれた。ブラウンシー島でキャンプが行われたのは、彼が50歳の時だった。彼自身の少年時代および軍人としての多くの経験が、彼の訓練方法の形成に役立った。
 少年時代は、10人兄弟(うち男6人)の中で成長した。休暇はキャンプ、ハイキング、ボート遊びに費した。
 テントの設営、地図とコンパスの使用法、まきを使っての炊事は、彼が身につけた技術のほんの一部にすぎない。英国チャーターハウスの学校付近で、彼はよく立入禁止の森に忍び込んで、足跡を残さない方法や、木の登り方や、学校の教師が森に入って来た時、気付かれないよう、身をひそめる方法等を学んだ。
 1876年、彼は新米の士官としてインドにわたり、斥候、地図作り、調査報告に専念した。彼はすぐに頭角を表し、その成果を認められて、他の兵士を訓練する職務を任された。B-Pの訓練方法は、当時としては正統的なものとはいえなかった──それは、小単位、つまり班が一人の指導者の下で作業を行い、成績のよい班を特別に表彰するものであった。技能を向上させた兵士たちには、B-Pは古くからある、磁石の北位点のユリの花をデザインした記章を授与した。それは、今日の世界共通のスカウト章と類似したものである。
 その後、彼はバルカン半島、南アフリカ、マルタに駈屯した。その後、アフリカに戻り南アフリカ戦争開戦時にマフェキングの攻囲217日間防衛に活躍した。これがB-Pのスカウティング技能の重大な試金石となった。マフェキングの伝令部隊に配属された少年たちが発揮した勇気と機知は、彼にとって生涯忘れられない強い印象を残した。他方、彼の功績は、英国民に忘れえない印象をのこした。
 帰国してみて、彼は自身が全国的なヒーローとなっていることを知った。また、彼が兵士たちのために書いた小さなハンドブック「Aid to Scouting『斥候術の手引』」がボーイズ・クラブやボーイズブリゲード等の隊員に対する観察や野外生活の指導に使われているのを発見した。こうして、1907年にブラウンシー島でのキャンプで彼のアイディアが試行されたのであった。

◆運動の成長
 “スカウティング・フォア・ボーイズ”の成功から、ボーイスカウトという名の運動は、非常に迅速に全く自動的に発展し、その運営のための事務所が必然的に設立された。
 1909年までに運動は、確固たる地盤を築いた。“スカウティング・フォア・ボーイズ”は5か国語に翻訳されていた。ロンドンでのスカウトラリーには11,000名以上のスカウトが参集した。B-Pが休暇を過ごした結果、南アメリカのチリは、英国外でスカウティングが最初に開始された国の一つとなった。1910年、B-Pはカナダと合衆国を訪問したが、両国では既にスカウティングが開始されていた。
 1914年の第一次世界大戦の勃発で、本運動は崩壊に向かうかのように見えた。しかし班制度を通じて行われてきた訓練は、その真価を発揮することとなった。班長は、成人指導者が戦場に出征した際にはその穴を埋めた。スカウトたちは多岐にわたり、この非常事態に貢献した。特筆すべき働きを示したのは、シースカウトたちであった。彼らの活躍により沿岸警備員たちは、外洋での勤務を後顧の憂えなく務めることができた。
 第1回世界ジャンボリーは、1920年に開催され、多くの国からの若者たちが一堂に会し、共通の興味と理念とを分かちあえることを、身をもって実証した。ロンドンのオリンピアでの第1回世界ジャンボリー以来、開催地を様々に移して、これまで21回の世界ジャンボリーが開催された。

◆スカウトプログラム
 スカウティングは当初、11歳から18歳の少年たちのためのプログラムとして開始された。しかし直ちに、それ以外の若者からの参加要望が出現してきた。ガールガイドのプログラムが1910年にB-Pにより開始され、1912年に彼の妻となったオレブがチーフガイドとなった。ウルフカブ部門は年少の少年たちのために設置された。これはキプリング著の“ジャングルブック”を活動のためのイメージ作りとなる象徴的な背景に使っている。年長の少年たちのためにローバースカウト部門も設立された。
 プログラムの名称や特色は国により異なる。カブスカウト、ビーバー、ボーイスカウト、スカウト、ローバー、エクスプローラー、シニアースカウト、その他いろいろな名称がある。ある国では、6歳になれば加入できる。多くの国では、プログラムが少年少女どちらにも門戸を開いている。
 2度の世界大戦の間にも、スカウティングは──スカウティングを禁止した全体主義国を除き──世界中のあらゆる地域で盛んに行われていった。(スカウティングは基本的に民主主義的で自主参加である。)
 1939年に戦争が開始された時、スカウトたちは再び班長の下で、活動を続行した。彼らは伝令、火災の監視役、担架運搬夫、廃品回収等の多くの国家的な奉仕作業を実施した。占領下の国々では、スカウティングは秘密裡に続けられ、スカウトたちはレジスタンスや地下活動で重要な役割を果たした。開放後に明らかとなったことだが、占領下の国々の中にはスカウト数が事実上、増加したところもあった。
 ブラウンシー島での小さなキャンプとして開始されたものは、今日ほぼ世界中にスカウトたちがいる運動に成長した。そしてプログラムは、開発途上国や、大都会の人口過密地など様々に異なる環境の中でうまく活動できるように構成されている。