アンノンスカウト物語

 1909年の秋のことでした。イギリスの都ロンドンは、この日も一日中濃い霧に包まれていました。
 アメリカのイリノイ州シカゴからロンドンに来た出版業のウイリアム・ボイス氏は、市の中心部で、ある事務所を探していましたが、道がわからなくて困り果てていました。そのとき霧の中からひとりの少年が近づいてきました。

 「何かお役に立つことがありますか?」

と少年は言いました。事務所がわからなくて困っていることがわかると、少年は先に立って、その事務所までボイス氏を案内しました。
 ボイス氏は、アメリカ人の習慣で、少年にチップをあげようと、ポケットに手を入れました。しかし、ボイス氏がチップを取り出す前に、少年は勢いよく右手を挙げて敬礼をしました。

 「僕はボーイスカウトです。今日も何か良いことをするつ もりでいました。お役に立ててうれしいと思います。スカ ウトは他の人を助けることで、お礼はもらいません。」

と少年は言いました。少年からボーイスカウトのことを聞いたボイス氏は、用事を済ませてから、少年にボーイスカウトの本部まで案内してもらいました。ボイス氏が少年の名前を聞く前に、少年はもう姿を消していました。
 イギリスの本部でボーイスカウトのことを詳しく調べたボイス氏は、アメリカに帰って大統領のタフト氏に話をし、やがて、アメリカでボーイスカウト運動が始められたのです。その少年はどうなったのでしょう。その後誰も知りません。しかし誰も知らないこの少年の小さな善行が、アメリカのたくさんの少年に、ボーイスカウトを伝えるもとになったのです。





アンノン・ソールジャー (無名のスカウト戦士)

 太平洋戦争の末期、南洋の島々で日米両軍の死闘がくりかえされていたころ、南洋のある島に出征したソルトレーク市出身の一アメリカ兵が、日本軍と戦闘を交えたさい、負傷して気を失い倒れてしまった。気がついたとき、友軍は引揚げたあとで、周囲にはだれもいなかった。そのとき、銃剣を手に恐ろしい形相で突撃してくる日本兵の姿が目に映った。銃剣がのどもとに迫るのを見たとき、そのアメリカ兵はふたたび気が遠くなったが、その瞬間、彼は幼いときからボーイスカウトにはいっていたので、無意識のうちにボーイスカウトの敬礼……三指礼をしていた。
 しばらくして、ふと気がついた。だれもいなかった。起きあがってあたりを見回すと、かたわらの木の小枝にぶら下がっている小さな紙片が目についた。ひろげてみると、英語でつぎのように書いてあった。

 「自分もかつてはボーイスカウトだった。ボーイスカウトは世界の人すべてが兄弟だ。3つの誓いをあらわす“三本指”を見てスカウトとしての気持ちがよみがえり、兄弟であり傷ついているきみを殺すことができなかった。手当をしておいた。1日も早く回復してほしい Good luck !!」

 のち、負傷したこのアメリカ兵は本国に送還された。この話を聞いたそのアメリカ兵の父親は非常に感激し、これこそ真の兄弟愛であると、ボーイスカウトアメリカ連盟事務局長シャック博士に伝え、これが1952(昭27)年4月19日、ソルトレーク市で開かれたアメリカ第7地区のボーイスカウト年次総会の席上、同博士から発表されたのである。その後、この話はアメリカのボーイスカウトの雑誌『スカウティング』『ボーイズ・ライフ』や新聞にも報道されて反響をよんだ。戦場でアメリカ兵の生命を助けたこの日本兵は、おそらく戦死したのではないかと思われているが‥‥。
 アメリカにおけるボーイスカウト運動の起こりは、名の知られない1人のイギリスのスカウトの善行からであったが。日本にも、同じような美しい話があったのである。ボーイスカウト精神をあらわす“三本指”から生まれた元日本兵とアメリカ兵のこの秘話は、ボーイスカウトアメリカ連盟本部から日本に派遣されたフィンネル博士によって明らかにされ、日本の新聞にも報道されて波紋を投げた。
 のち、この波紋は日本中のスカウトの募金運動にまで発展し、久留島秀三郎らが中心になって、無名のスカウト戦士の記念像が「子供の国(神奈川県)」にできあがった。