ボーイスカウト十話
・ボーイスカウト十話」について
※「ボーイスカウト十話(とわ)」は、昭和40年2月25日より3月7日まで、「毎日新聞」連載された。
ボーイスカウト十話(8)
ローランド・フィリップス
三島 通陽
わが国の青少年団体には、グループ・ワークということが、もっとも大切とされてきた。これは大変よいことである。米国の学者が言い出し、YMCAなどで研究されてきた。しかし、これが叫ばれる以前に、ボーイスカウトには、形態においてはこれに共通し、少年には適切な方法で、すべての訓練および生活指導に適したパトロール・システムというものがある。
このパトロールというのは、字のごとく巡邏(じゅんら)からきているのだが、これは班別で、観察推理と相互扶助の練習を行うハイキングである。スカウトの訓練は、このパトロール、すなわち「班」が中心になって、パトロール・システムと呼ばれ「班別教育」と訳している。天才パウエル卿の考案によるものだか、この方法を立派な本に書いたのは、ローランド・フィリップス氏。当時は青年で、初版は1915年に出た。パウエル卿も「パトロール・システムはスカウト教育の1つの道ではなく、唯一の道だ」とその本の序文に書いている。
ローランド・フィリップスのことを書いてみよう。
彼は英国の貴族の家に生まれた。パウエル卿がボーイスカウトを創設したころ、そのスカウトとなった。イートンに学び、オックスフォード大学を出ると、単身ロンドンのイーストエンドのスラム街に飛び込み、小さな家を買って、クラブハウスのようなものに改造し、その辺の少年たちを集めて、ボーイスカウトをつくり、隊長となって指導した。その辺の子供らは、不良少年として有名だった。しかし、彼の指導によろしきを得手、次第に立派なスカウトになってゆく。
この時、第一次欧州大戦が勃発した。英国の貴族というものは、国難にあたっては真っ先に進んでゆく伝統がある。かれも従軍を志願した。
彼は陸軍大尉に任命されたが、配属された連隊の名がおもしろい。近衛火縄銃連隊というのである。タンクや機関銃が兵器なのだが、昔有名だった連隊名をそのまま使っているわけだ。英国人は伝統を好むからだ。
フィリップスは自分の邸宅を売り払い、その金を全部もって、日ごろ友人の集まっている朝食会にやってきた。「私はあすから、グレイト・アドベンチュア(大冒険)に出かける。おそらく生還はできぬだろう。そこで君たちに頼みがある。イーストエンドの子供たちのことだ。この金でよい家を建てて、あの子らを次々と教育してくれ」といった。友人たちのスカウトリーダーは「よし、引き受けた。安心して行け」と答えた。
彼は真っ先に進んで、真っ先に戦死した。彼の墓は、フランスの当時の最前線アルバートに他の英軍人とともにある。彼の墓には花がたえないという。
友人たちは、その金でかれの設計によるりっぱなスカウト・ハウスを作り、これを名付けてローランド・ハウスと呼び、次々と子供らを教育して、りっぱ人物が生まれた。
ローランド・ハウスには、彼の用いていたものが今でも陳列されている。彼が涙とともに子供を訓戒した、涙のついた机もある。
1963年、ギリシャにおける世界ジャンボリーに、久留島秀三郎を派遣団長として、135人の日本スカウトをつれて参加した帰途、英国に立ち寄り、このローランド・ハウスに連れて行った。私もいたので、彼の話をしてやった。日本少年も感激してた。そのなかの1人の少年がいった。「先生、ここらがスラム街だと言われるが、こんな立派な家ばかりです」「よいところに気がついた。昔はスラム街できたない家ばかりだった。フィリップスとその友人のおかげて、まず子供がみんなよくなり、りっぱに成長した。大人も感化されて、よくなって、みんなこんなりっぱな家に変わったのだよ」「なるほど、スカウト指導の力は大きい。僕らもいまにやるぞ・・・・・」
(スカウティング誌 '80.12より転載)