ボーイスカウト十話
・ボーイスカウト十話」について
※「ボーイスカウト十話(とわ)」は、昭和40年2月25日より3月7日まで、「毎日新聞」連載された。
ボーイスカウト十話(5)
三指敬礼か五指敬礼か
三島 通陽
初代総長後藤新平の没後、残された子供たちがかわいそうだと、後藤の友、斎藤実が第2代総長となった。そして初めて久米川のキャンプに来た。当時の久米川は、よい森林で、まん中に広場があり、子供のキャンプ・サイトとしては好適だった。(近ごろ、この辺に行ったら、森のかげさえなく、工場や市街地に変わっていてガッカリした)
さて、そのとき、数千の子供たちが広場に集まり、まず斎藤の祝福を受けた。私が先導をしていて、ウッカリ、土バチの巣をふんだ。怒ったハチどもは、次に歩いてくる斎藤に襲いかかり、半ズボンから、身体の中にはいり刺しまくった。
しかし、斎藤は眉も動かさずニコニコして祝福をすませ、壇上で訓辞をしそれからサンタクロースのように子供らと遊んだ。帰りがけに「おれのサルマタの中にハチがいる」というので小さいテントに入って裸にすると、急所まで刺されていた。
この話は、すぐに子供らに伝わった。「僕らのこんどの総長は強いぞ」「えれーぞ、急所をハチに刺されても平気で、僕らと遊んでくれた」と、やんやのかっさいをおくった。
この斎藤は、2.26事件で、青年将校の凶弾に倒れた。そのころから、軍部はますます横暴になってきた。
第3代は竹下勇がなった。スカウト運動もこのころから、軍部の中の硬派の圧迫が激しくなってきた。それはスカウトの国際兄弟主義が気に入らぬのである。
寺内寿一中将が大阪の師団長になったとき、スカウトの三指敬礼をやめよと文句をつけた。大阪のスカウトはがんとしてきかぬので、参謀長山下奉文は、軍略をめぐらした。
それは、スカウト内部の分解作用である。軍部が羽振りがよくなると、それにおべっかをつかう人々もできるので、その連中をそそのかして、三指敬礼をやめさす運動が始まり、三指礼はユダヤの敬礼たとウソの宣伝をした。少年団の内部に、国粋派と国際派の2つにわかれケンカをはじめさせ、全国にもそれが波及して脱退者が出てきた。
それで「寺内さんも、そんなにもののわからぬ人でもあるまいからひとつ談合をしてみよう」ということになり、スカウト指導者の理論家、京都の中野忠八(現理事長久留島秀三郎の実兄)は、師団司令部に寺内師団長をたずねると、寺内は幕僚を従えて、快く会ってくれた。
中野は、三指敬礼の由来から説きおこしこれはスカウトの3つの誓いから出ていること、世界中の同志のサインで、外部からの圧力では変えられぬことを堂々と説明した。
寺内は中野の理論に感心したらしく、あとで軍人仲間に中野をほめたそうだ。しかし、そのときは幕僚の手前、寺内は「わかった。しかし、この五指敬礼は、天皇陛下のご命令だから、やれ!」といった。
中野は「それは軍人へのご命令でしょう。われわれも軍人になれば、もちろん五指敬礼をします。また鉄道職員ともなれば五指敬礼をします。しかし、スカウト同士は、三指敬礼を変えられません」と言い切り、どうやら議論では中野が勝った形となった。
すると寺内は「三指敬礼はカジカンデイルようでいかん。これをみろパッパッ」」と五指敬礼をやった。中野は「ガジカンデイマセン。このとおり。パッパッ」と三指敬礼をやりかえした。これでもの別れになった。
軍部はそれで手をかえ、政府に手を回して少年団日本連盟なぞ、すべての青少年団体を、発展的解消との名の下に、体よく解散させ、ひとつに統合して、大日本青少年団を作ることになった。
われわれは昭和16年1月16日、他日を期して解散式を行った。この大日本青少年団は、歴代の文部大臣が団長となることになったが、一体青少年団運動なぞ、役人の片手間でやれるものではない。しばらくして消え失せてしまった。
(スカウティング誌 '80.9 より転載)
(スカウティング誌 '80.9 より転載)