ボーイスカウト十話
・ボーイスカウト十話」について
※「ボーイスカウト十話(とわ)」は、昭和40年2月25日より3月7日まで、「毎日新聞」連載された。
ボーイスカウト十話(4)
文明病とキャンピング
三島 通陽
日本にボーイスカウトができたてのころ、われわれがユニホームを着て道を歩くと、「ジャンボリーが通る」という。後藤新平がユニホームで地方に行くと「後藤さんのジャンボリー姿」と新聞がかく。
ジャンボリーとは、もともと、アメリカ・インディアンのことばで祭典のようなもので、これをパウエル卿が、スカウト運動に使って、いまや世界語になった。
ところで、近ごろは「ジャンボリー・スカウト」という言葉がある。それはジャンボリーだけ出て、あとはサヨナラのスカウトで、これは全くけいべつされる語なのだが、それは子供が悪いのではない。指導者が悪いのである。ジャンボリーはたしかに、子供にとって楽しい。またためになるものだが、そこまでくる日常の継続した訓練こそ大切である。
もうひとつ、スカウトというとすぐキャンピンクを連想する。それくらいスカウティングとキャンピングはつきもので、もっとも重要な訓練のひとつである。しかし、これとて、これだけがスカウト訓練のすべてではない。
キャンピングなき、スカウティングは考えられない。しかしキャンプへ行くまでの日常訓練、また終わってからあとの訓練が大切である。
キャンピングはひとつの仕上げといわれる。秋から冬、春夏へと、進級制度を生かしたプログラム、いいかえればカリキュラムが基礎となって、ここにキャンピングでその仕上がりとなり、その間にも心身がみがかれるべきである。
小さい少年のキャンプを定義して「少年を、家庭、学校より隔絶して、大自然の中に、新しい生活環境を、自らの手で築き上げ、指導者が少年と寝食を共にして、生活指導する」といったことがあったが、初歩の少年には、そこへゆくまでのプロセスが、指導者にも少年にもよき勉強であらねばならぬ。それを近頃、キャンプ流行で不用意に飛び出す人々をよく見かけるが、ハラハラさせられることだ。心構えなきキャンピングは逆効果となる場合が多い。
またある友人は「キャンピングとは人間と自然とのコンペティションだ」と定義したが、おもしろい表現だ。自然が人造りをするとは、日本でも古来、考えられて、修行の大道場とされた。役行者(えんのぎょうじゃ)などは、それを行ったもっとも偉大な先達だが、われらは、それを青少年に向いたように楽しさのなかでやろうとするのである。
いまや、人間は世界的に、文明病にかかっている。これに反省を与えるのは、大自然のふところにはいってみることである。
皮肉作家のジェームス・バリーの戯曲に「アドミラブル・クライトン」というのがある。これは、文明人が大自然の中に投げ出されたときの姿を、皮肉ったものだ。そのあらすじは、英国のローム伯爵は、議会でも、世間でも、もてはやされた人物で、人間は平等だとの考えをもった貴族である。
彼には3人のお姫様がいて、長女は学問があるのが自慢の種、2女は美人であるのを鼻にかけ、3女は素直な娘である。この一家は、忠実で素朴な従者クライトンと口達者なオッチョコチョイのアーネストをつれてヨット旅行に出かける。
大暴風雨にあって、船は難破し、無人島にはい上がる。そうなると、貴族も、学問のある人も、美人も、ここでは役立たず、クライトンひとりが、立ち働いてみなを生活させる。
木の繊維でナワをない、衣をつくり、家をつくり、魚と獣を獲り、マッチがなくとも木と木をすりあわせて火をつくる。クライトンの力でみなが生活すると、主従転倒の位置となり、3人の娘がクライトンに恋するが、彼は3女と結婚しようとしたトタン、英国から軍艦が助けにきて、みなを本国につれ帰る。
アーネストはクライトンの手柄をとって、すべて自分がやったと宣伝するが、クライトンは平然として、また元の忠実な従者で過ごす。これには文明病への風刺がある。
(スカウティング誌 '80.8 より転載)