ボーイスカウト十話
・ボーイスカウト十話」について
※「ボーイスカウト十話(とわ)」は、昭和40年2月25日より3月7日まで、「毎日新聞」連載された。
ボーイスカウト十話(3)
後藤新平 最後のことば
三島 通陽
日本で初めて少年団ができたのは、大正2,3年ごろからで、乃木の部下だった伊崎少将は乃木にすすめられていたが、乃木没後大正三年に小柴博らと発団式をあげた。
このころ、京都の中野忠八ら、静岡の尾崎元治郎、深尾韶らと、あちこちで少年団をつくりはじめていた。それが皇太子の英国でのおことばを聞いて奮起して、静岡で代表者が集まり、少年団日本連盟の結成をみたのは大正11年4月13日であった。総裁(のち総長)には、後藤新平子爵を迎え、理事長には、ご渡英のお供をした二荒芳徳が決定した。
しかし、そのころの少年団のなかには、ボーイスカウトもあったが、いわゆる子供会のようなものから、兵隊ごっこのようなものと、種々雑多であったから、後藤はまずハッキリとボーイスカウトで行くとの方針をきめ、ボーイスカウト世界事務局に申請登録をして、ここではじめて世界の一員となって出発した。
それで、後藤は、その年の8月、コペンハーゲンで開かれる第2回世界ジャンボリーには、まず各地から指導者を多く出して学ばせようとの方針を決めた。派遣団長には若かった私が任命されたので、副団長には尾崎元治郎、スタッフには久留島武彦、中野忠八などの年配者をつけ、顧問には佐野常羽を任命し、24名で行くことになった。佐野は自分の団の子3人を自費でつれて前便で渡英し、ギルウェル訓練所で訓練のうえ、参加した。これらの派遣員は全部帰ってからそれぞれ死ぬまでこの道に尽くした。なかでも佐野は、ロンドン郊外にある、パウエル卿直伝の指導者訓練所に入所して訓練を受け、卿とも親交を得て直接教えられ、研究を続けて帰ったので、後藤は彼を初期の日本の指導者訓練所長にして研鑽を続けさせた。
後藤はこのようにパウエル卿の奥義を研究させるかたわら他方、日本の古来の郷中制度などをも研究させたが、自らも鹿児島に行って、じいさん、ばあさんを集め、郷中の話を聞きただした。私はそのそばにいたのだが、なにしろ、後藤はズーズーの東北弁だし、じいさんたちは、薩摩弁ときているので、お互いに話が通じない。それで私がいちいち通弁をしたこともあった。
晩年の後藤は、私のみるところでは、スカウト運動に一番熱心だった。「後藤さんも、もっと早く総理大臣になるようなことをしたらいいのに、ガキ大将とは・・・」といって笑われても、いっこうに平気で、ユニホームを着、日本中を飛びあるいた。あるいなかのキャンプで、サラがないと子供たちがキャベツの葉にごはんを盛って出したら後藤は「家にあらば、筍(け)にもる飯を草まくら、旅にしあれば椎(しい)の葉にもる」アハハハと、万葉の句をいってさもうれしそうに自然の子にかえった。
後藤は昭和4年4月3日、自邸に集まったスカウトたちに囲まれ、うれしそうに遊んだうえ、夜行で岡山に講演に向かったが、車中、脳溢血で倒れた。京都でおろされて京都病院に運び込まれた。後藤重体の知らせで、側近者やわれわれも京都に集まった。はじめ京都病院は満員で病室もなくやむなく受付に寝かした。院長が心配して、よい病室を空け、移そうとしたが、もう口をきけぬ後藤は、首をふってイヤという。
それで、みんなで相談の結果、スカウトに抱かれてなら引っ越すだろうと、私に白羽の矢が立った。私は「先生、引っ越しをしましょう」というと首をふる。「いや、スカウトが先生を抱いて行きます」というと、ニッコリしてうなづいた。それで京都団長の中野忠八と、10数人のスカウトが後藤を取り巻き、みんなでそっと抱いてはこぶ。
後藤は、はじめはうれしそうにひとりひとりの顔をみつめていたが、次第にホロホロ涙を流しだした。
後藤は、東京をたつ前、私を近くに呼び
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
といったのを思い出した。私も後藤を抱きつつ涙が流れた。
後藤は4月13日にこの世を去った。
思えば、これが後藤総長の最後のことばだったのである。
(スカウティング誌 '80.7より転載)