ボーイスカウト十話
・ボーイスカウト十話」について
※「ボーイスカウト十話(とわ)」は、昭和40年2月25日より3月7日まで、「毎日新聞」連載された。
ボーイスカウト十話(2)
乃木希典
三島 通陽
日本に初めて、ボーイスカウトを紹介したのは、牧野伸顕と北条時敬と、乃木希典(海軍大将)の3人である。
牧野は元来、寸暇を惜しんで、新刊洋書を読む趣味があったが、ボーイスカウトが英国にできた翌年の1908年に、もうその本を得て読み、その神髄をつかんで、魅力を感じた。これは義兄のベルギー大使秋月左都夫が、実地に見て感心し、文相の牧野にその資料を送ってよこしたのであった。牧野は文部省に、文献や用具服装など取り寄せて、研究を命じたが、当時の文部省は学校教育で手いっぱいで、これを理解し研究しようとするものは出なかった。
それで牧野は、その翌年、欧州へ教育視察に行く北条時敬(広島高師校長)にこの研究も依頼した。さすが北条は、これに興味を持ち、資料を集めて帰り、広島高師の教授たちにこの研究をすすめたが、これもやっぱりついてくる者がなかった。それで北条は、その附属中学の少年たちにスカウトの話をしたところ、さっそく彼ら自身でそれらしいものをつくり、野外訓練などを試みたがるので、北条はめんどうをみてやった。短い間だったが、このなかから、のちにボーイスカウトの実践的指導者として、その指導と研究に一生をささげ、いまや老躯(く)病に倒れ、片目の視力を失いながらも弱視の独眼で、天眼鏡をたよりに、まだ研究に余念のない求道者「中村 知」が出ている。
が、もうひとり、少し突っこんで、まねらしいものをしたのは、乃木学習院長であった。
乃木は英国のキッチナー元帥の心の友であった。このキッチナーはまたベーデン-パウエル卿の心の友であったので、こんな関係から、このボーイスカウトの資料写真などが、乃木の手のはいり、深くこれに興味をもった。
これよりさき、乃木は旅順の戦いで、多くの部下を失い、たびたび申し訳ないとしょんぼり凱旋(がいせん)してきたとき、明治天皇は、乃木の心を見抜かれたか「乃木、お前はふたりの子を失ってさぞさびしかろうから、たくさんの子をさずけてやろう」とて、学習院長を命ぜられた。
乃木は感泣して、自分の家を捨て、学習院の中、高等科を全寮制度とし、自分も寮に泊まりこんで、身をもって範を示す体あたりの生活指導をした。1年生がはいってくると、その夜からまずいっしょにフロにはいり、全生徒の名と性質を覚え、時には母親のように優しく親切で、時には父親のように厳格で質素を旨とし、時にはユーモアもあって、それは楽しい生活指導であった。私はこの時、1年生で指導を受けた。そのひとつの特徴は、美しい助け合いで、級友はみな実に仲が良く、それが老人の今日までつづいているのは、乃木の指導のたまものと、みないまでもいい合っている。
さて、この寮生活で生徒は、カーキ色のボーイスカウトと同じ服(ただしネッカチーフと半ズボンはなかったが)を着せられ、これを作業服と呼んだ。それから、乃木はキャンピングをやってみたかった。しかしその頃日本には小さい手頃のテントがなかった。ところが乃木は、旅順の戦利品の中に、かっこうなテントがあったのを思い出し、それを陸軍省から払い下げてもらいあとはそれをまねて作り、夏の片瀬海岸の遊泳の時、やらせた。わが国初の青少年キャンピングである。
いまからみると、実に幼稚なものだったが、大自然と親しみ、自らの生活環境を築き、協力一致と相互扶助の精神で、千変万化の大自然に取り組みつつ、楽しいしつけの生活をしていく青少年キャンピングのよさは十分発揮されていた。
乃木は英王の戴冠(たいかん)式に参列した時も、キッチナーの案内で、スカウトラリーを見学し、パウエル卿とも語り合い、帰朝してからは寮の夜話によくボーイスカウトの話をした。この時の小さな生徒の中から、いま日本のこの運動の中心人物になっている者は10人以上いる。乃木は自分は何をやっても失敗ばかりで申し訳なかったとつねに思い暮らしていたようだが教育家としてはりっぱだったと教え子は信じている。
(スカウティング誌 '80.5 より転載)