日本ボーイスカウト茨城県連盟
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資料センター

●目次

●随想(1)

 スカウト象にさわる

 スカウティングと社会性

 偉大なる自発活動

 スカウティングのXとY

 ローバーリングは電源である

 隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 初夏随想・指導者のタイプ

 忘れられない話(その1)

 忘れられない話(その2)

 

●スカウティングの基本

 奉仕とは

 標語について

 何に備え何を備えるか

 新しい時代に生きるスカウト教育

 自発活動(その1)人に対する忠節をつくすのか?

 自発活動(その2)日本人に欠けているもの

 継続と成功

 智 仁 勇

 

●ちかい・おきて

 私見:ちかいの意義

 私見:ちかいの組立(1)

 私見:ちかいの組立(2)

 名誉とは

 名誉について

 “ちかい”のリファームについて

 幸福の道について

 スカウトの精神訓練

 B-Pはおきて第4をこのように実行した

 新春自戒 ジャンボリー

 自分に敗けない

 

●プログラム

 少年がBSから逃げていないか

 強制ということについて

 自分のプログラムというものをよく考えよう

 スカウト百までゲーム忘れぬ

 冬のスカウティングとプログラム

 B-P祭にあたって

 チーフ・スカウト最後のメッセージ

 スカウトソングについて

 1956年の意義・ジャンボリー

 

●進歩制度と班制度

 バッジシステムの魅力

 技能章について

 技能章におもう

 自発活動ということ

 自己研修とチームワーク

 班活動について

 班活動の吟味

 ハイキングとパトローリングと班

 隊訓練の性格について

 班別制度の盲点を突く

 コミッショナーの質問

 グンティウカスを戒める文

 

●指導者道

 指導者とは

 ボエンの意義

 真夏の夜の夢

 万年隊長論

 万年隊長のことについて

 指導者のタイプについて

 ユーモアの功徳

 跳び越えるべきもの

 よく考えてみよう

 

●信仰問題

 私の眼をみはらせた5名

 スカウトと宗教

 スカウティングと宗教

 神仏の問題

 

●随想(2)

 GIVE AND TAKEということについて

 信義について

 昭和27年の念頭に考える

 世相とスカウティング

 道徳教育愚見

 「勝」と「克」 (1)

 「勝」と「克」 (2)

 

●中村 知先生スカウティング随想

 はじめに

 私とスカウティング

 盟友 中村 知の 後世にのこしたものは

 あとがき

 中村先生ついに逝く

 ingとは積み重ね

 主治医としての思い出 高山 芳雄

 医師に対する信頼

 病床の横顔

 スカウティングに就いての一考察

 スカウティングは,プロゼクチングだ。

 

◆GIVE AND TAKE ということについて

 

 

 GIVEは与える、TAKEは貰うということ、「やりとり」と解する。

 

 自分の長所を他の人々にささげ、他人の長所を頂戴して自分の短所を補う、という意味に用いられる。漢文でいう「共励切磋」、「採長補短」である。和訓にして「ともみがき」となり「はげましあい」となり、さらに漢語でいう「相互扶助」となり英語のCo-Operationに通ずる。

 

 この語は、英国人が非常に好む言葉である。英国の対外政策は悉くgive and take を一貫している。ことにナポレオンの亡後そうである。歴史家はこれを勢力均衛主義(Balance of Power)と名づける。これは諸外国(特にヨーロッパの)間の力の「釣りあい」をとる役目に英国があたろうとするやり方で、英国も、その「釣りあい」の上に平和を保ち、繁栄を図ろうとする、誠に賢明なセンスである。

 

 これは英国の外交だけでなく、大英帝国内のドミニオンや植民地、海外領土を統治するにもgive and takeする。自然これは経済につながる。あり余るところから無い所へ品物を送る。「有無相通ずる」という言葉がそれである。

 

 私は、このgive and take は賢明なセンスだと前に述べた。そのとおり───。これはセンスだと思う。英語のCommon Senseを「常識」と訳す例が多いのだが、私は「良識」または「通識」と訳したい。即ち、誰からも納得されるセンス、万人に通ずるセンスだと思う。give and take は英国人にとってCommon Sense に値する。

 Humanism(人道主義)の英国的あらわれとも解せられる。

 

 去る大戦中、日本の或る陸軍の参謀が米英打倒演説をやった。その時彼は、「奪わんがためにはまず与えよ」とgive and take を説明した。米、英は後進国に対して色々の恩恵をまず与える。そして、懐桑(てなずける)する。そうしておいてアトで搾取(しぼりとる)する───と。

 彼は、英国の、印度、南亜、中国などに対する侵略や利権を説き、日本は米英にかわって大東亜共栄圏を作りこれを救うため聖戦を起こしたのだと唱え、聴衆の拍手にそりかえった。give and take の訳し方にこんなのもあるものかと、私はおどろいた。

 ボーイスカウト教育の核心であるPatrol System (班別制度)はgive and take という作用をしっている。狙即ち、班内の各少年は、それぞれ自分の長所をささげて奉仕するとともに、他の少年の長所をとり入れて自分の短所をなおしてゆく。班とは、 give and takeする「場」である。

 A班とB班との間にも、C班とD班の間にも、班としてのgive and take が行われる。その「場」が「隊」であると考える。

 隊と隊、地区と地区、A県連とB県連、そして日本連盟と他国の連盟との間にも友誼あるgive and take が行われる。

 こうしてScoutingとはgive and take によって進歩し発展する。

 

 しかし考えねばならぬ点は、この参謀の解決のように「貰うためにまず与えておく」という功利的なものになっては逆効果になる。───という点である。人間は植物から酸素を貰おうと思って炭酸ガスを吐いているのではない。その逆は植物の側からもいえる。人間から炭酸ガスを貰うため酸素を吐いているのではない。これは天然自然必然の生存作用にすぎない。

 一日一善、日々の善行も、何か貰うための行動であったならば、もう善行ではなくて取引である。善行とは、既に頂いた恩恵に対する「よきおかえし」であり「返礼」である。これと同じように、give and takeはgiveの方に比重があらねばならない。takeの方は他人のgiveの力がはねかえって自分に来るもので、それを予期しない方が奥床しい。

 

 二宮尊徳先生(金次郎)の夜話の中に次のような訓話がある。

 「お湯に入って、熱いと人々は水をうめるが、その時冷水を自分の方へかきよせるものだ。それはまちがいで、反対に自分の身辺から水の方へ湯を押しやる。そうすると湯は風呂桶のフチにぶつかって水とまじってはね帰ってくる。これが正しいうめ方である。」と。

 

 スカウティングの中に、功利主義を交ぜたくないものである。

 give and take こそは大調和、平和、進歩のてだてである。ハーモニーとバランスのよろこびはここから来る。印度のドゴールやガンジーの思想のもともここにあった。

 B-Pは、班の生活を通じて、少年たちにその実習をすすめていると私は思う。

(昭和33年6月1日 記)

 

 

 

 

 

◆信義について

 

 

 1950年(昭和25年)6月30日、ボーイスカウト日本連盟は、世界各国のスカウトから、一つの異議なく国際復帰を認められ、英京ロンドンにあるボーイスカウト国際事務局から、それを確認するという喜ばしい電報が、7月4日到着したことは、私どもの誠にうれしいニュースである。

 私が6月20日、広島を出発して中央実修所の開設地山中に向かう途中、各地の同志から、6月30日の夜記念の営火をする予定だというようなプログラムが各地で語られた。中央実修所を、その前日たる6月29日に修了し、私どもは、翌30日山中を出発帰路についたのであったが、正にこれは新しいスタートへの朝というべきであろう。三島先生始め本部の皆さまは、ロンドンからの確報の来るまでは───という慎重な考慮から、特別の行事的発言を差し控えられたようであった。ただ私は例のベートーベン第9シンフォニーの訳曲「歓喜によする歌」の歌詞を作りかえて、「1950年6月30日」という作詞を試みて、尾崎さんたちと控室で試唱してみただけであった。これが東京新聞7月2日の三面トップの記事にとりあげられ、私の作歌を合唱して祝った、と記されたのには少々恐れ入る。

 広島に帰ってから、或る人達に何か記念的の集まりをしたか? と尋ねたが、どこの隊も別にやらなかったようである。確報がないのにあまり先走ってやるのもどうだろう───という慎重さがあると見れば、それもそうだと肯ける。ところがある隊の上級班長が私に問う言葉に「もし行事をするとしたら、どんなことをしたらよいでしょうか?」という一言があった。ただ国際復帰という事をお祝いする会合をするんだよ───と私は口さきまで出かかったのを───どっこいまてよ───と押さえた。そして私は「その質問は大変よろしい。少し考えてみよう」と答えて、その日は別れた。その後二、三の指導者に会った。その人たちは戦後派とでもいうのか、戦後この運動に飛び込んだ人達であった。それらの人達に「いよいよ日本のBSの国際復帰が叶ってうれしいですね。オリンピックに先立っての復帰ですからね。」と話しかけたのであったが、それ等の人々は「そうですね」と答えはしたものの、今一つピンと来ないものがあった。

 それで私は何か物足りなさを感ずるとともに、それらの人々の答えがピンと来ないわけを考えて見た。そして、私は彼等が戦前の日本BSについて殆ど知らないこと、かつ、日本BSが大戦突入のまぎわまで、BSの国際信義を立て貫いたこと、その信義を買われたればこそ、世界72カ国のBS連盟が満場一致、今度の復帰を認めてくれた事───などについての認識欠如のせいだということを知った。

 このことを新しい指導者達に教えることが、私ども古参者の義務であること、そして記念の行事集会は、このことを全日本BS隊員に周知せしめ、信義というものが如何に貴いものか、その信義を行う者こそ、本当のスカウトであるということ。そして、真の平和というものは、かかる信義の上にのみ成り立つものだということを知らしめてこそ、この行事、集会は始めて意義があるのだ───と、私はさとったのである。

 

 7月2日附東京新聞の記事は「日章旗、少年団国際大会に翻る」という白ぬきの大きな見出しをつけ、六段ぬき23行の1枠内に組まれている。今だに少年団なんて書いている記者の頭は、ちょっと笑いものだが、記事はワシントン発30日坂井本社特派員発───というもので、30日午後、ペンシルバニア州ヴァエーフォージで開催中のアメリカジャンボリー、トルーマン大統領がわざわざ出かけて、隊員達に演説したこと、同夜1泊の上、1日ヨットで帰京したこと、この大会に戦後始めて日章旗が、他の国旗とともに掲げられたのである。多分、関さんや今井さん始め在米日系BSが参加したのだと思われる。

 

 次に「復帰の念願かなう」というタイトルがあり、「ボーイスカウト日本連盟」と傍注があり、記事は昭和16年1月、大日本少年団連盟の強制的解散により、国際連盟からも脱退したこと、(注、国際連盟ではなく国際事務局と書くべきだ───そして脱退したのではなく、解散による自然脱退と書くべきで、ここのところが非常に大事なのである───筆者注)昭和21年秋、日本BS復興について、去る6月19日勲三等に叙せられた、ラッセル・ダーギン氏の尽力のこと、23年3月23日最初の東京ラリーのこと、同年5月17日フラナガン神父を囲むラリーのこと、24年1月2日、GHQの正式認可、同2月11日附、財団法人ボーイスカウト日本連盟発足のことを記し、本年5月上旬、ロンドンのボーイスカウト国際連盟(正しくは国際事務局)から6月30日まで各国のボーイスカウト連盟(ソ連圏諸国を除き加盟国で2カ国)より異議がない場合には、正式に国際復帰を許可する旨の便りが来たこと、その結果30日迄異議状が来なかったばかりでなく、最感情的に険悪と思われたフィリピンBSが、6月4日来日し、和気あいあいのジャンボリーを行ったことなどを記し、8月18日からの全国大会のこと、明年の墺地利での世界ジャンボリーに出席出来ること、今度の山中の第1回中央実修所のこと、中村知の復帰の歌作歌合唱のことを附記し、三島理事長談として、復帰確実という見通し、大日本少年団時代の国際的信義が買われて、案外早く復帰出来たものと思う───云々と結ばれてある。

 

 以上の記事中、私が注記したように、日本BSは、自主的に一度も国際事務局に脱退状を出した事実はない。前理事長二荒先生は、当局の弾圧に毅然として対抗し、解散直前まで国際負担金をロンドンに発送されたことは、当時連盟本部に職を奉じていた私達の確証するところである。

 昭和16年1月16日、大日本青少年団の発生によって、大日本少年団連盟は解散を命ぜられたが、二荒先生は将来必ず復帰の日の来ることを信じ、旧日連の資産を大日本青年団に譲渡することを拒否し、財団法人健志会を新設して一切をこれに帰属された。当時大日本青年団側からは、随分ひどく罵られ、私どもは敢然これに対応した。そこらの事情をご存知ない戦後の指導者諸君には、特にご認識願いたい。二荒理事長以下、当時の同志が、いかに国際信義を固持して来たかということを。そのことは同時にBSというものへの信義でもあることを!

 

 健志会の建物は戦災で焼けたが、その法人が残っていたばかりに、再建日本BSは名義を切り替えてこれを相続できたのであって、再建日本ボーイスカウトは実にこの信義の上に、ただ一つの生命を託しているのである。

 

 戦後国民のモラルが低下し、BSを名のる者の中にも、信義の何たるかを解せず、自らこれを棄てて平気な輩も少々出現したけれども、信義をすて、これを失うた瞬間から、彼はボーイスカウトではないのだ───ということを改めて認識されたい。「スカウトは誠実である」というおきて第1は、このことを指している。義理なんていう徳目は、封建的なものだと考える人もあろうが、義の新しいセンスは別に存在する。このことについては、他日また筆をとろう。

 全日本の他の諸会が、仮に全部信義というものを枷棄したとしても、われわれBSのみはこれを失うまいぞ!  国際復帰のよろこびは、これを焦点として、始めて光る。

(昭和25年7月9日 記)

 

 

 

 

 

◆昭和27年の年頭に考える  世相とスカウティング

 

 

 

 隊長の皆様、新しい年を迎えて希望に燃えて居られることと存じます。隊員たちも、皆成長します。この成長ということによって私どもは元気が出ます。1年366日という閏年の新年を迎えて、今年は一日よけいに訓練できるなァーと、当地の隊の人々も、ほほえんでいます。

 さて、今年はわが日本も講和条約の発効によって、自立独立国となるようですが、たとい政治的においては、まだ他国の援助を必要とするなさけない状態であります。しかるに、あたかも、完全な独立独歩の国になったかの錯覚を抱いて、一部国民の中には早くも外国を排斥して、日本独自のなんとやらを発揮すべきだ、などと力み出す。いわゆる保守反動の国粋派が出かかっている。これら浅見、短慮な者の浅はかな言動というものは、必ずや物笑いになり、かえって外侮を招き、世界の信頼を失う結果となるでしょう。何と申しても、食糧の不足を他国から仰がねばならない。それには支払いのドルがいる。そのドルは貿易によって稼がねばならぬ。その貿易は生産工業による生産品を売ることにある。その資材原料は、これまた外国から買わねばならぬ。かつ動力たる石炭、電力の不足は皆様の周知のとおりである。輸送力にせよ、トラック、汽車、汽船、航空機の力の不足で、現在でも莫大なる滞貨がある。

 このように見るならば、今の日本は、外国の信用を失ったが最後、明日の生活にも事欠くような経済事情である。ドッヂ氏は大きな警戒を残して先般帰米しましたが、結局日本人は少し上調子になっていますね。こうした世相の中にあって、我々はScoutingを展開しているのです。そこで私はいろいろと考えさせられています。その一端を申して見ましょう。

 

〔第1〕余人はどうあろうと、我々スカウトは、おきての8の示す、質素な生活をしなければならない。耐乏の生活とは申しません。耐乏という言葉は、創意工夫をしない物臭さを思わせるからイヤです。社会の一部では、温泉に半月もつかっているような人もありますが、病人でない限り、現下日本の経済事情から考えて、どうかしていると思います。私どもに万一かかる余裕があったとしたら、それは隊の経費に捧げるでしょう。我々はそういう恵まれたチャンスをもちます。

 ここ、塩原温泉に通ずるバスで毎日社用族がセッセと金を捨てに行くのを見ると、その反面、一家心中するような社会を思わずにいられません。かかるバランスのとれない世相というものは、実に恐ろしい世相であります。質素の泉まで後退して、足もとの世相をよく見るべきです。

 

〔第2〕口に平和平和と叫びながら、その人が若い女の問題で家に波風を立てているならば、矛盾も甚だしい次第です。男にしろ女にしろ貞操というものが平和の根本であることを思います。スカウトが平和の斥候であるかぎり、まず範を示すべきでしょう。

 

〔第3〕世界は民主主義と共産主義と、独裁主義の3つ巴になっているようです。私1個の上にも、この3つは巣喰っていないとは申されません。或るときはオヤジの権力を振りまわす独裁者になり都合のよい時には民主主義の立役者になり、時には得手勝手な理屈をつけて共産主義みたいなァと自省することもある。しかしScoutingはファッショ(独裁)でない。また無神論者でないからコミュニズム(共産主義)でもない。ハッキリと民主主義なのである。だから私が、スカウトである以上、デモクラシーの精神を深めこれを身につけるよう昇華(Subfimate )して行かねばならぬ。講和後の日本は、恐らくこの3つ巴が今日よりも一層激化するであろう。そして去就に迷う人、裏切る人、中間子的存在も現れるだろう。スカウトは迷わない。

 

 〔第4〕先にはスカウトでもない者がSea Scout を起こそうとし、次にはこれまたスカウトの何たるかを知らない人たちがAir Scout を始め、航空教育をやるという。なぜ、海洋青少年団とか航空少年団と云わないで、スカウトと称するのだろうか? 青少年団という名は戦時中の名称として面白くない。それよりもスカウトと称した方が当世向きだ───と、いう考えらしい。だから日本人はモノを知らなすぎる───と外人は笑う。スカウトという特殊なものがありそれを日本で行うならば、ボーイスカウト日本連盟に必ず加盟し、登録せねばならぬという世界的常識を彼等は持たないのである。BSJに加盟せぬ限り、世界公認のスカウトは1人もあり得ない───ということを、私どもは世人に周知させる責があるようだ。

  いよいよ今年からCub Scout も、Senior Scoutも発生して、Sea Scout やAir Scout も出来るであろうからそれらがBSJの中に立派な足場を占めれば、あんな馬鹿げた問題は起こるまい。

 

 当村の那須第13隊が生まれて以来、毎土曜午後、少年達はこの森の中でいろいろな訓練を行い、指導者達は週に一夜は、私とここで指導の研究をしています。私も相談相手になっています。出来る限り教材、資料を提供しています。昔の実修所を出た人も加わっています。隊の成長は個人の成長、個人の成長は隊の成長です。研究のようすが気になります。

 こうして今年も愉快にやります。皆様、どうぞ元気で、皆様の研究されたデータなりプリントされたものなど、お送り頂ければうれしいものです。貴隊の成長を祈ります。弥栄。

(昭和27年1月1日 記)

 

 

 

 

 

◆道徳教育愚見

 

 

 道徳教育論───という本が出たことを知り早速読む。著者は玉川学園長小原国芳氏。都下町田市玉川大学出版部発行、価180円送料不要。

 その中にボーイスカウトに関する記事がある。同書114頁から123頁にかけて。その部分は「玉川教育」から引用したと書いてあるが、その文は、二荒芳徳先生の作である。先生は、玉川の父兄の一人である関係かららしい。

 

 さて、私は、道徳教育というものは結局、実行による教育でなかったならば、単なる学科に終わってしまう。ボーイスカウトのように「実行することによって学ぶ」と、いう方式をとらないならば、習性とはならない。その点で、スカウト教育は、学校教育よりも前進していると思った。

 しかも、「一日一善」とか「日々の善行」ということを、本当に実行してさえいれば、特別な道徳教育はなくてよい。と、考えていた。

 もし、それでも道徳教育を施すのなら、その一つ手前にすることがある。それは、感覚訓練である。と、考えた。なぜかなら、道徳(モラル)は、センス(感覚)から出て来る。センスの教育をやらないで、だしぬけに、立派なモラルが生まれて来る筈はない。と考えた。

 この点でも、スカウト教育は、感覚訓練をまっさきにとりあげている。これは、学校教育では影がうすい。色々な学科、特に音楽とか図工や、体育とかで、その一端はなされている筈だけれども、情操教育というような美名にカバーされて、そのものズバリの感覚訓練は、実施されていないよう私は思う。(これはあたらないかもしれない───が)そういうわけで、感覚訓練(観察、推理)と技能訓練と日々の善行という実行さえやれば、目的は達し得る。と簡単に割り切っていた。

 

 ところが、以上は実に浅見であったことに気がついた。自分では、善意であることを行っても、相手にはそう映らないことがザラにある。また、善行の押し売りに受け取られる場合もある。

 

 およそ、人に悪感や不快や迷惑を与えることは、不道徳の一種である。自分の不精からヒゲを伸ばしているとか、不快な匂いを与えるとか、不潔だと思わせたり、無礼だとか、ナマイキだ、とかいう感じを人に与えるならば、これまた不道徳である。

 かように考えると、私のすることは、百パーセント不道徳ばかりしていることに気づく。靴もよく光らさないし、声もよくないし、もののいい方も、ぶっきらぼうで、なっていない。スマートネスということも、これ故に強調されていると思う。

 これでも人に、手数や迷惑をかけまいと思うて、努めているつもりで、心臓も強くないし、万事、エンリョしがちなのだけれども、気のつかんことが余りにも多すぎて人に対してすまんことだらけで落第である。

 

 ところが、以上のべた私の欠点は、ことごとく、12の「おきて」に出ているのにはびっくりした。

 昔、おきての義解みたいなものを書いたこともあって、一応わかっていたつもりだったのに、ひとつも、わかっていない。実行していないから学んでもいない。と、いえる。

 

 とうとう、おきての第12番目によって、遺憾なくしょい投げをくった。

───スカウトは、つつしみ深い───

 

 もう道徳教育のことは、いわないことにする。いえなくなった!

(昭和33年2月17日 記)

 

(付記)小原国芳氏が、広島高等師範学校に在学中、北條時敬校長が英国から帰って、ボーイスカウトを日本に紹介された。1909年の9月である。故に、小原先生は、スカウトのことは、初期から知っていられる。当時、私は同校付属中学校の4年生で、同校長の考えによって生まれた、城東団の次長だった。城東団は、今も集まりをしている。 北條校長は後に、東北大学総長、学習院長として日本一の教育家であった。その遺稿「郭堂片影」という本に、ボーイスカウトに関する講演のメモが沢山のっている。この本は今、もう入手困難、私は幸いにノートに写してはいるが、原本を探している。日連でもほしい。どこかにないであろうか?

 

 

 

 

 

 

◆「勝」と「克」 (1)

 

 

 「勝」も「克」も、どちらも「カツ」である。ところが、その意味は決して同じではない。いや同じであってはならない。

 「勝」の反対には「敗」だの「負」など「マケ」があるのに、「克」に対する反対の文字は無いのである。ただコトバとして「カテナイ」(不克)というだけが、いわれるにすぎない。このちがいは、どこから来るのか?

 

 「勝」とは相対的の「カチ」である。相対的とは、自分以外に相手があり、それと何か勝負して勝ったことをいう。逆説的に、いうならば、相手が無かったら勝負にならないのだ。結局その相手が強かったら、自分は、コテンコテンに敗ける。「相手次第」というわけである。そう考えると、勝つも負けるも「時の運」だったり、「相手次第」であって、勝っても自慢にならないし、負けても自分の格が下落したわけでもない。ワシは依然として、元来のワシである。───にもかかわらず、人は、勝てば祝い、負ければシュンとなって、卑下するのは、一体どうして、そうなったのか?

 

 私は、それを「あやまった教育」のセイにかたづけたい。日本という国は、勝った者が支配するように教えられて来た国である。勝った者の言うことは、ことごとく神聖であって、犯すことが出来ない。「これ真理である」かのように、仰ぎ服させられた。私は日本歴史を学んだ学徒の一人だが、この点、非常に不快である。「真理」が日本を統治したことが、一度でもあったか? と、今でも疑問に思っている。建国の歴史や氏姓の時代、蘇我、物部の争い、藤原氏の永きにわたるペナント保持、次に源平、今度は源氏同士の中の争い、織田氏以後の戦国時代。その前に応仁の乱という、革命的な支配階級自滅の勝負があったのに、新興支配家信長が横すべりした。そして豊臣、徳川となり、一応天下太平になったが、こんどは階級の争いとなった。実力本位なのだ。

 明治維新は達成されたものの、これは日本のルネッサンスになりそこね、依然権力者が支配し、しかも、ずるいことに皇室を笠にかぶって、真理らしく見せかけた。

 大戦争に敗けて日本は、敗者になった。先の私の論に従えば、敗れたとて日本のものの格はひとつも下落したわけではないのに、これを下落と考えこんで、愛国心まで投げすてた人が多い。

 まあ、私は、聖徳太子の摂政時代の約30年間だけが「真理、日本に光被」したように思う。それ以外、すべてこれ、外道(ゲドウ)阿修羅(アシュラ)日本史と思うから、勉強してみようという気になれない。

 

 さて、「克」の方の「カツ」は、自分以外に相手がいないのである。いいかえれば、「自分が自分にカツ」のである。故に「克己」という。これは絶対の「カチ」である。「勝つ」なんていうケチ臭い相対性の「カチ」とちがう。自分が自分にマケることは、日に何回もあるがその原因の大部分は、相対世界にさそわれて、自己本来のペースを失ったときである。これは、武道でも、スポーツでも、大いに、戒めるところである。

 すべて競争心というものは、人格を作る上の「方法」としてはいいが、というてこれを「目的」にしたならば、人間は自滅するだけで、一つも平和は生まれない。

 

 読者よ、以上、一見してスカウティングと関係のないようなことを書いた。と、お思いになるか知らんが、実はそうでなく、教育に関係や原因がある。

 連日連夜、悩んでいるスカウティングは、すべてこれにかかっている。と、私は思う。

 子供の自分、私の一番きらいだったのは、運動会であった。勝とうとする人の心の浅ましさが私の子供心にしみこんだ。勝負を一生涯好まなかった私の両親を、私は今も偉大に思う。私は、一度も、勝つようにいいつけられずに、66年やって来た。故に、負けた───という意識もない。自分本来のペースを失わないことのみを念じている。

(昭和34年2月21日 記)

 

 

 

 

 

 

◆「勝」と「克」 (2)

 

 

 大戦たけなわの頃、私は錬成所の仕事のため千葉県北の田舎道を陸軍大佐と歩いていた。話は「戦陣訓」が中心だった。それは「軍人勅諭」の補足みたいなものとしてその頃制定された。その冒頭に「必勝の信念」という一章がある。私は、なぜ必克の信念としなかったのか、と大佐殿に反問した。大佐は必克なんていう言葉はない。という。なかったら作ればよい、と私は言う。そして、私は同じ「カツ」でも勝は相対的の勝、克の方は絶対的のカチで、オノレに克つことだ。と主張した。大佐は、にがい顔をして、それは君の屁理屈だ、という。

 

 その晩、錬成道場で私は、神武天皇御東征の講話をした。大佐殿は傍聴していた。神武天皇が河内の孔舎衛坂(クサエザカ)で賊軍ナガスネヒコとの一戦にやぶれ、大阪湾を経て紀州に迂回して北上、大和に出撃した。その途中、兄のイツセノミコトは陣歿する。それまでに日向の国を出発以来次々と兄を失って神武は主将になってしまった。この迂回作戦も苦戦で全軍敗退の一歩手前まで来た。もう投げようかと思った神武は、ミブのカワカミという吉野川の支流の河原に天神地祇をまつり撤宵、独り静かに凝念(ぎょうねん)した。暁の日の光がさす頃、忽然として新しいインスピレーションを感じた。そして「われ必ず克たん」と叫んだ。(これをウケヒという。一種のチカイである)これは精神的に大きな境地をひらいた叫びである。

 以後の戦は全く別人のように連戦連勝、ついに東征の業を達成し、人皇第一代の天皇と仰がれて、カシハラにおいて即位した。これは日本書紀巻三・神武紀に出ている。この叙述に、日本書紀の作者は「必ず克たん」と記している。「勝」の字を使っていない。多くの人々には、勝でも克でもどっちでも同じだ、というくらいに特別な関心はないようだが、私は、もし、勝の字だったら神武は、またどこかで、自分より強い者に敗けたろうと思う。「本当のカチはオノレがオノレにカツ、即ち克つでなければならぬ───」という話をした。

 

 大佐は、その時は黙っていたが、次の朝の朝礼の時、日本は強い、日清、日露の大戦に勝ち、有史以来外夷に敗けたことはない───と訓話した。

 大佐は昔、天智天皇の軍が朝鮮に出陣し百済(クダラ)と連合して、相手の唐、新羅(シラギ)連合軍と白江村で戦って全滅してしまい、結果として百済は亡国となり、次いで高句麗(コウクリ)も亡んで新羅が半島を統一する。日本は、上古以来の国策だった朝鮮半島に対する政策を抛棄せざるを得なくなったという歴史を、一向ご存じないのである。日本が清国や露国の大国と戦って勝ったのは、日本軍97%~98%の兵に教育が行き届き、相手の兵は、逆に97~98%無学で、文字さえ知らぬという、ケダモノどもだったことが大きな原因であり、相手が弱すぎたから日本が勝ったまでのことで、それを日本は強い、とウヌボレたところに「勝者の悲哀」があるはずだった。

 これは第二次世界大戦で完全に証明されたではないか。

 横綱栃錦が、今や引退とまで噂された不調を克服して、春場所優勝したあの心境への展開経路にも「オノレに克つ」段階であったことと思う。勝てばおごって驕慢となり、修行を懈怠し、敗ければ、ヤブレ(弊れ)カブレに卑下しクサリ、劣等感をもつ。驕慢の時は自分の限界を忘れて、ノリを越えてまで人を支配したがる。これすべて、自己を失った、自己のペースを失って、ナニモノかの幻影のペースに引きずり込まれた様相である。相対世界に、アクセクとして、損じゃ、トクじゃ、よろこびじゃ悲しみじゃ、とか、オレのカオをつぶしたの、オレをどうしてくれるだの、はずかしいだの、ミットモないだの───一体、ナニをモトとして生きているのだろうか?

 これすべて「奴れい」の一種でしかない。相対世界に沈滞しているあいだはナヤミはつきぬ。

 

 こう思いつつ、私は日々オノレに克ちたい。克とう、と努めている。そのためには、スカウティングが、私にとって一番、絶対道を示してくれるから、やめるわけには行かない。

 もし、スカウトの世界にも相対的優劣を争うものがいるならば、それは原理につかずして、方法にこだわる段階のクライに生き甲斐を感じているとしか思えない。

(昭和34年4月24日 記)

 

 

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