●目次
●随想(1)
ローバーリングは電源である
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
初夏随想・指導者のタイプ
忘れられない話(その1)
忘れられない話(その2)
●スカウティングの基本
●ちかい・おきて
◆私の眼をみはらせた5名
札幌地区のローバー諸君が「宗教についてのアンケート」をされたその結果を「ローバーリング」誌から転載された記事を読んで、私はローバー達のあいだに宗教というものが必要だという価値発見をされつつあることに敬意を表します。
このアンケートの(2)として「入信の動機」というのがあるが、その中に、「スカウティングを通じて」と答えたのが5名ある。
私はこの5名という数字に目を見はった! それはなぜか?
この5名こそ、True Scouting (本当のスカウティング)をした人だと思うからであります。
このアンケートには「信仰する宗教がある」───と答えた者が52名ある。52名中26名は、先祖代々家に宗教があってそれによって入信し、4名は通学している学校がつながっている関係から入信し、2名は自分の身辺の出来事から発心し、あと11名は、はっきり記していないが入信したとある。いまいう5名は、そうした人々とちがいスカウティングを通じて入信したという点、私は、まことに、異色であると思うのであります。
なお、このアンケートで、宗教をもたない者が20名ある。───ということは、きわめて残念です。
規約507の(2)によれば、ローバーに上進するには、「明確なる信仰を持っていること」と、なっているから、速やかに、しかるべき、導きに接するよう、申しあげたいのです。このことは、True Scoutingへわけいる道だからです。
さて、私は、この5名のかたがたに申しのべたい。あなたがたのされる奉仕こそ、本当の奉仕だということ。すなわち、信仰の発露からにじみ出た感謝の念が、奉仕となることであります。それで奉仕というものを、宗教からでなく、道徳の次元での美徳あつかいしたり、形だけで精神(信仰心)のともなわない奉仕をしつつある人々に、これがほんとうの奉仕だという、りっぱな、お手本を示していただきたいのです。それが本当の教育というものです。
宗教信仰をともなわない教育は真の教育ではない───という思想が、昨年後半頃、日本の教育界にやっと生まれたようです。(注───日本連合教育会刊行書による。)
ベーデン・パウエル卿は、60年の昔、すでに、青少年の教育にそれを説きました。
それがスカウティングというものなのですね。───
(昭和43年12月7日 記)
◆スカウトと宗教
イギリスのスカウトの本を見ると神(GOD )に対するつとめ(duty)ということが、カブの本にまで非常に強調されている。年令の低いカブたちに、神のことをわかるようにするのは中々むつかしいけれども、カブ隊長は彼等に適した方法でこれを教えなければならない───とB-Pは説いている。このことは「スカウティング」の9月号(昭和31年)カブの研究に載っているものを参考にされたい。それには色々理由がある。その一つは英国のカブのやくそくに神という言葉がでているからである。
I promise to do my best ───To do my duty to God,and the King,To keep the Law of the Wolf Cub Pack,and to do a good turn to somebody everyday.というPromise である。即ちボーイスカウトのちかいと殆ど同じなのである。
BSの方は
On my honour,I promise that I will do my best ───To do my duty to God,and the King. To help other people at alltimes,To obey the Scout Law.
なのでその第1条目はカブと全く同じである。God のことを知るということは必修科目である。よってカブ隊長は隊付Chaplainとよく連絡してこれを実施するよう期待されている。これに比べると日本のカブのやくそくには神とか仏とかいうものは全然ない。そのことが悪いとか良いとかを論ずるのではない。スカウティングの在り方、考え方の根本論的な問題がここに先行する点を私は感じるのである。「すべてのスカウトは何かの宗教宗派に属し、その礼拝に出席することを期待される。」(POR第10条の(1))と英国の規定はうたっている。かようにスカウト教育という実践による教育は、宗教上の信仰生活の具現と結びついている点を日本の指導者たちは活眼をひらいて見究めねばならない。
日本ジャンボリーの日曜儀礼で仏教徒のスカウトが儀礼を終わったあと、村山有氏の提案でスカウト仏教のグループ推進の運動が発足した。これは米国のスカウトが各宗派の篤信章とでも訳すべきバッジを貰っている事に鑑みて、日本でもこれを実現したいということに源があるように承っている。(注・現在の宗教章の前ぶれである)大変これは結構なことだと私は思う。先年京都で開かれた各教代表者会議で打ち出した線にこれはそっているものと思う。こういう方法によって日本のスカウティングに宗教的指導(宗教教育ではなく)の面が、スカウターの側から盛りあがるならば、B-Pの意図にそれだけ近づくだろうと私は思う。と同時に私はこれは、あくまでちかい、とおきてを足場にしてなされなければならないという点を力説いたしたい。もし、そうでなく進むならば、それは一種の宗教運動或いは布教宣伝の側にまきこまれて、スカウティングをしつつあるという自己ペースをかき乱される危険を招くように思う。その点で、ことは極めて微妙である。仏教徒がまずこれを行うならば、他の宗教も歩調をそろえて篤信章の制度に共鳴してくるであろう。私はそうあってほしいと思う。思うと同時に、この教育の主体はスカウトの方にあること、そしてちかい、おきてを足場としたスカウティングそのものであるべきこと、神職、僧侶、牧師などの人々はその人が同時にスカウターであっても、またはなくても、成人としてスカウトの宗教信仰への自発活動乃至はそのウォーミング・アップを授けるという愛の心で尽くして頂きたいと思う。そんなことはないだろうが、万一にも教徒の集まりを一つの組織として、何かの行動の足場とするようなことがないようにお願いしたい。
(昭和31年9月7日 記)
◆スカウティングと宗教
近頃、スカウティングを本当に行うには、何かの、宗教の信仰をもたなければ、結局、大成しない。ということをつくづく感じます。
こういうと宗教家の人たちは、両手をあげて賛成なさると思いますが、私はそう、大ざっぱに、賛成してくれては、実はこまるし、さらに教線拡張の具にスカウティングを利用して貰っては、いよいよ困ると思うのです。
それは、どこまでも、ちかいの第1に根拠があるのであって、宗教そのものの側に根拠をおいて、私は、いうのではないからです。問題の起点は、どこまでもスカウティングの側にあるのであって、宗門の側ではない。宗門の方の側を起点としても同じことがいえようし、その結論は恐らく合致するでしょうが、私は、宗教家じゃないから、立っている側がちがうので、従って起点をこちら側においていう外ありません。
ちかい第1の神または仏にまことを尽くし───という詞。その、マコトをツクスという語、それは、何を意味するか? ということにこの問題をしぼって考えたいのであります。
このちかい、最低11才の少年から始まり、最高の年令は、結局何才なのかきめられません。40才50才になってから、スカウト(リーダー)になる人もあります。何才であろうと、スカウト仲間に入るときは、1人残らず、ちかいをたてねばならない。それで最高年令は、まちまちできめられない。
このように、11才以上何才、何10才にもわたるので、その人の、知能、体力、生活力等々、皆まちまちですから、マコトのツクシ方も、またまちまちであります。簡単に、ただ神をうやまう、仏におじぎする、という程度から、信心する、または非常に深い信仰心をもつ、俗人であっても本職の僧侶や、牧師や、神官以上の人もあり得るのです。それが単に祭礼や読経に通ずるだけでなく、生活の実践が、キリストやシャカの教にぴったりしている、という、まことに立派な段格まであると思うのです。
こうなると、マコトをツクスという言葉を、千変一律に、きめた解釈なんてあり得ないことになります。私はそれでよいと思うし、それが本当だろうとも考えます。
あの三ヶ条のちかいを、もう何年となく座右の銘としていますが、三年前に心に感じたことと、今感じていることとは同一ではない。その間少しばかりにせよ、考え方、感じ方が進歩している。(私の場合)そうしてみるならば、一定の解釈なんてものはありようがないことになります。
今、私は、シニアーの問題、ローバーの問題を考えていますが、この場合、このマコトをツクス、という言葉を、11才や13才の初級や2級の子供と同じ解釈または感じ方で、かたづけてよいものだろうか?
私は、よいと思いません。そう思ったので色々勉強もしました。その揚げ句、B-Pはことによると、「僧衣を着ざる牧師を作る───」というような考えが、スカウティングの根底になっていて、それを、RSで仕上げたいという考えがあったのではなかろうか、とさえ思われるフシがあります。
「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本は、少年向けにB-Pが書いた本であるから、あの本だけからは、今いったことは汲みとられません。(或いはもっとよく読んだなら、片鱗が出ているかも知れないが───)これは結局、ローバーの段階で出来るでしょう。
こういうことを、私が考え出したのは、ローランド・フィリップスという実在の立派なスカウト(1916年戦死はしたが)の示した行為、さらにそれを通して、ローバーの理想の在り方を論じた、ジョン・コックスの著書を、再読三読した結果であります。
今夏、私は、SS、RSについて異なった二種の、情報を入手しました。
そのひとつは、あるブロックの、キャンポリーに奉仕したSS連中が、奉仕ということを全然理解していなかった。という批判の声でした。その中には富士スカウトもいた。それなのに、精神訓練の面は全くゼロだった。唯、やたらに技能章を沢山つけているだけだと、いう声です。その技能も、実はお粗末なもので、一体どんな考査をしたのか、あやしいもんだ、という評価であります。
今一つの情報は、SSとRSの2人が、ある地方実修所の奉仕に出た。ところが、こんな田舎に、立派なSSとRSが、いるのかと、驚いたという。RSの方は菊スカウト、SSは1級スカウトで、その点で技能章の数も少ないし、いわゆる外まわりは一流ではないが、その機敏さ、心くばりの周到さ、いたれり尽くせりの奉仕ぶり、これを見てまったく感心したという。
前の例とこの例との差異は、一体どこから来たのだろうか、と私に考えさせたのです。少なくとも、あとのよい例の2人は、宗教団体の育成している隊に属していること、そして、RSの方は、将来教会長になる身分であることを知るに及んで、私は───解決のカギを得た気がしました。
ちかいの第1は、少なくとも無神論者をなくすること。出来るだけ、何教かの信者になること。そして僧衣をつけざる坊さん、牧師、神官になるよう、すすめいているのだと思うのであります。
もしスカウターが、今の日本の官公立小中学校や大学のように、宗教をぬきにした教育を実施するのであれば、どこに、スカウティングの優秀性ありや? と、問われたとき返事が出来ないと思います。ちかい第1を思えば思う程、私はこの感を深くするのであります。
(昭和32年10月2日 記)
◆神仏の問題
───これはある県の出来事である───
ある年少隊がピクニックに行った。そしてM神宮の森を通った。初夏の緑と多分な酸素の吸入によって子供たちは新鮮な活動力を得て帰った。ところが、予期しなかった抗議が、カブの親から出された。それは───
「カブの訓育では、神社に参拝することを教えないのですか?」という質問であった。これは質問というよりか、むしろ抗議に近かった。
その隊長は、これに対して、どう答えたか、私は、知らない。
数日後、その地区のラウンドテーブルがあった。その年少部会の席上、このことをテーマとして討議したそうである。察するに、その隊長が、そういうテーマを出したものと思われる。
その討議は結局、何の結論も出なかった由である。もっとも討議というものは結論を出さねばならぬものではない。と聞いているので、それを云々するつもりはない。ただ、二、三のリーダーが、神や仏をおがむのは封建時代の遺風だとか、スカウティングでは、そんなことは問題にしない、などという言葉を吐いたそうである。これは、だまって居られない大問題である。同時に、その席にいたコミッショナーが、それに対して、適切なボエンも喰らわさないで見のがした、というに至っては、私は、コミッショナーの資格を疑わざるを得ない。
その後これは、県全体のコミッショナー会議の席上でも話題に出た由であるが、この件に非常な関心をもって意見を吐いた者は極めて少数で、大部分の者は「無関心」にすぎ去り、県コミも適切なリードをしなかったと聞く。一体全体、そんなことでスカウティングは成り立つものか、どうか?
父兄の方にも、私は、誤りがあると思う。昔は、神社というものは、国家組織の一部であったが、今は国家構造からはなれて、宗教の一つとなり、神社神道というものになった。だからこれを信仰するか、しないかは、個人の自由になっている。であるから、神社をおがむことも個人の自由である。しかし、社前を通るとき、ちょっと頭を下げて会釈する位のことはエチケットである。という考え方はあり得る。その隊長は、それさえやらなかったのかも知れない。
スカウトの「ちかい」には、神または仏にまことをつくす───という言葉がある。まことをつくす───という言葉には、定まった程度はない。その人個人々々によって浅い深いがある。年令により、理解の仕方により、信仰度により、千差万別であるはず、けれども少なくとも、無礼に失したり、これを無視することは許されない。従って無神論者は必然的にスカウトたる資格を欠く外はない。
今一つ───規約第14条は、スカウトの一人々々が、明確なる信仰をもつようスカウト運動はこれを奨励する、と謳っている。だから、もしカブの中のだれかが、神社の神を信仰するのであれば、隊長は、神社をおがむよう励ますことが隊長としての義務である。
もっとも、カブの「やくそく」にも「さだめ」にも、神とか仏とかいう文字、言葉は一つも出ていない。出ていないから「無関心」であってよい、とはいわさぬ。この点、今度の進歩制度の改正委員会の年少部会でも大きな問題となった。結局「しつけ」の面でこの訓育を前より一層強化することにしたのである。
英国も米国も、カブのやくそく、さだめのどちらかの中に、ハッキリGod という言葉が出されている。ある人がベーデン・パウエル卿に、そんな年少者に、神がわかるか? と反問した。するとB-Pは、わからなかったら教えるべきである───それが教育だ───と、キッパリ答えたという。
県コミや、地区コミは「行事コミ」にとどまってはならない。「教育コミ」になって貰わないと、コミッショナー制度のイミはない。
(昭和34年11月16日 記)
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