●目次
●随想(1)
ローバーリングは電源である
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
初夏随想・指導者のタイプ
忘れられない話(その1)
忘れられない話(その2)
●スカウティングの基本
●ちかい・おきて
◆冬のスカウティングとプログラム
カウティングは1年を通じて休みというものがない。スポーツならば夏に出来なかったり、冬に出来なかったりするものがあり、いわゆるシーズンオフということがあるが、スカウティングにはシーズンオフはないのであるから、リーダーは冬でもプログラムをもたねばならない。
ところが実際、隊の状況を眺めると、冬季の12月は反省会とか忘年会、1月早々は新年の会合など、半ば行事的なプログラムによって集会をうづめることが出来るが、1月の中頃から2月、3月にかけては休隊状態に陥る傾向がある。これは
①学年末で隊員の学校生活に余裕がなくなり、隊、班活動にこれが響いて欠席がふえるため。
②リーダーの方でも教員の人はこれと同じ理由で力をそがれる。
③寒さのため戸外活動がにぶる。
④室内集会にすることは場所、暖房などの手間がかかって引きうけてくれる人がない。
⑤寒いことから来る横着性───等々が、一般的の理由である。ただし土地の状況によって多少の差異はある。
以上のことは外国のスカウト界にもあるようで、従って冬のスカウティングについてのやり方が研究され、単行本になって出版されているようである。私の所感から申せば、これは結局、プログラムの貧困から来ることが、実際の原因だと思う。すなわち“種子(たね)ぎれ”状態が、たまたま冬季にばれた───馬脚をあらわした───と診断する。もし、プログラムが豊富であり、それの展開が隊員をかりたて、以上述べた冬のシーズンの不利な条件を克服さすだけの魅力があるならば、休隊状態に陥ることは充分免れ得られるのである。
ではそのような、魅力のあるプログラムはどうすれば作れるか? という本質的な題目にぶっつかる。そこでまず、冬───というものを研究せねばならない。指導者にとってのホームプロジェクトの第一歩はここに始まる。 “冬将軍”の研究───。
冬というものがスカウティングの実施上、プラスに役立つ面と、マイナスになる面とがある筈だ。前記の(1)から(5)に至るファクターは、いづれもマイナス面である。こうしたマイナスファクターは、実は年中どのシーズンにでも若干あるので、冬ばかりに限らない。冬場が比較的高率、高濃度だというにすぎない。
ここで考え方を変えて、プラスの面を検討して見るならば、冬にしか出来 ないことがいくつもある。冬の自然研究、霜、雪、霰、氷、濃霧を巧みに生かしたゲームや観察、救急法(結索を含む)、信号、方位、測定(測量)、追跡(雪中)、焚火(雪、風、氷上)と調理と後始末、冬の星座(1年中で最もよく見える季節である)それらを含めたハイキング、夜行ハイク、そのどれもが視、聴、嗅、触、味の五官の訓練を伴い、温度感覚、距離感覚、時間感覚を付加される。冬場あまりキャンプに行かないようだが、東京以南の西日本なら大体出来ぬことはない。ただし山など高い所は避けねばならない。氷点下3度位までなら出来る。
室内集会となると、これは特に冬の魅力である。設備や場所に多少の難はあろうだが、隊長は、隊委員と力を合わせて、室内集会の場所を是が非でも獲得してほしい。隊長の資格の一つでもある。ことに北日本の隊では、室内集会場をもたないならば致命的マイナスを来たす。
隊長を20年つとめたようなエキスパートでも、1人でプログラムをすらすらと年中立てられるものではない。彼が職業的リーダーでない限り、時間的に無理である。もし出来たとしても、それが最良ではない。隊長は副長、副長補、隊付、上級班長と合同してテーマを選び、そのテーマを中心として次週から次々週まで、或いは月間のプログラムを作成することを本則とする。幹部訓練という面を忘れてはならない。隊長は隊員だけを指導するのでなくて、副長以下の中級幹部の教育をも行う義務がある筈だ。
これで出来たプログラムはいわば、幹部の行ったプロジェクトであり、ワークショップでしかない。これをそのままナマで班長に手渡して班訓練に流したのでは、班長や班のプロジェクト・ワークショップにはならない。素通りで終わってしまう。どうしても、これをさらにグリンバーの訓練(班長訓練)にかけて、班長のプロジェクトやワークショップにしなければ身につかないし、彼等のスカウティングにならない。
このようにして、隊のプログラムは出来るのであるから、“種子切れ”のあろう筈はないのである。一人がいつも作るのなら種子ぎれはあるかも知れないが、たくさんの人々が、それぞれテーマを中心にプロジェクトしたり、ワークショップするのだから“3人よれば文殊のチエ”とやらで何か出て来る。この何か出て来ることがスカウティングの面白いところなのだ。またそういうふうに仕向けることがスカウティングだともいえよう。だから種子ぎれになった人は、スカウティングでないことをしていた───のではないかと自省されたい。
最後に結論を申し述べよう。以上いろいろとファクターをならべたのは、考え方のより所を作ったにすぎない。また、プログラムを作る方法として幹部会、グリンバー集会などの段階を述べたが、それらは途中の駅であって終着駅ではない。終点は個々の少年である。実はその個々の少年のスカウティングのために、班や隊や、地区や県連や日連が奉仕し、成人指導者や育成会が奉仕しているのである。無論、それら各々にはそれぞれの立場においての プロジェクトを通じてのスカウティングはあるけれども、これらは恒星であり或いは遊星であり、星群であり、星座であるにすぎず、太陽系の中心は太陽である。ボーイスカウト宇宙の太陽は、実に、個々の少年である。
従って真のプログラムは個々の少年自体を対象とされる。その個々の少年に一番身近いものは“班”である。この班が立派な班機能をもっているならば、絶対に種子ぎれはあり得ない。
“種子は蒔いても芽は出ない。そのうちに種子はなくなった”とこぼす人は、土壌のあり方を検討して見るとよい。土壌(班)に欠陥があるようだ。酸性土壌かも知れない。そしていきなり、畑へ蒔かないこと、その種子を苗床(幹部会)に一旦蒔いて発芽させた後、分ケツするよう、グリンバーにおろし、班(土壌)ごとにそれぞれの要求する肥料を施して育てることだ。
冬の農閑には工作や救急法や、モールスの暗記など好適のテーマとなろう。
2月22日の“ベーデン・パウエルの日”(いわゆるB-P祭)の行事、2月12日の日連再建記念日の行事、それを中心としたスカウト週間の行事など、行事面もプログラムの中に生かしたい。
(昭和27年2月4日 記)
◆B-P祭にあたって
世界のクリスチャンが12月5日をクリスマスとして祝うのと同じ気持ちで世界のスカウトは2月22日のベーデン・パウエル誕生日(マス)として祝う。もう、今ではお祝いするというよりも追慕するという方が適切であろう。それは1941年1月8日、アフリカのケニヤで世を去られたからである。既に10年前になる。
外国では、その人の死んだ日を記念しないで生まれた日をその人の記念日としている。日本や東洋諸国のように死んだ日、いわゆる命日というものを行わない。イエスキリストが果たして12月25日に生まれたかどうかについては異説があるそうだが、ベーデン・パウエルは確実に1857年2月22日ロンドンで生まれた。日本の年号で安政4年で明治元年よりも11年以前である。チーフスカウトの詳しい年譜や伝記については吉川哲雄先生あたりにお願いするとして、私は、かつて大阪の高津中学(現高津高校)スカウト華やかなりし頃のB-P祭の思い出をいたしたい。
そのころ一体誰がB-P祭をやろうと言い出したのか私の記憶にないが、いつのまにか隊(そのころは団といった)の年中行事になってしまった。また、そのやり方もいつしかきまって来た。まず、その前週の名誉会議(今でいうグリンバー・パトロール・ミーティング)で各班長が相談して、隊としての企画をきめる。そして各班の分担をきめる。例えば馬班は式場係、鷲班は装飾係、白熊班はエサ係(これは茶話会の食べもの係のこと)兎班は後片付け等々である。2月の末といえばその当時、中学校としては第三学期の峠で、五年生は卒業試験もすんで上級学校入学試験の準備中であり、卒業式を旬日の後に控えている。在校生は、第三学期の試験前の一種ボヤッとする時期なので、期せずしてB-P祭がすんだら勉強にとりかかろうというキワになっていた。
いよいよ当日になり、学校がひけると皆クラブルームに集って来て服をきがえる。ユニフォーム姿になると、その頃は冬でも半ズボンなので、寒くてじっとしていられないので、各自の分担についてバタバタ走り廻る。式場は正面にベーデン・パウエルの写真を飾り、そのバックに英国旗を張りつけ、壇上、向かって左に国旗の室内掲揚柱、右側に隊(団)旗、それにならんで各班々旗を立てる。唯、異様なのは写真の前に大きな花瓶が花なしに安置されていることである。祭典は形の如く国旗掲揚から始まり、英国旗に敬礼し、団長たる私からチーフスカウトについて短い誕生の話をする。そして各班の最年少者が、それぞれの班で集めた色とりどりの冬の花の花束を捧げてB-Pの写真の前にあらわれ“おじいさん、お誕生おめでとうございます”というような言葉をつけて花瓶に花をさす。班の順番にそれを繰りかえす。それで献花祭とも云った。それがすむと、当番班長の発声で“いやさか”を三唱して式は終わる。これからが第二部で室内シンポジウムになる。室内営火の形でもある。唯、各班の演技の中にベーデン・パウエルの伝記の一節が必ず劇化されねばならぬのが特色である。その他はソングや室内ゲーム等々、何でもよろしい。時期を見てエサが配給される。センベイ、モチガシ、ミカン 等々であるが、冗費節約のためセンベイやオカキは松屋町あたりの問屋から屑物を安く沢山仕入れて来るという点、さすがは大阪っ子である。かくて茶が汲まれ和気アイアイとして番組は進行する。約1時間半くらいで会を閉じる。またたくうちに後片付けして、たのしかったB-P祭は終わりになる。
こういう行事を私の団長であった十数年間くりかえした。時に高校や高専に進学した先輩スカウトがやって来て、昔の自分の班をなつかしみ後輩を激励もする。鈴木君や村田君などの昔なつかしき光景なのだ。
私は、終戦後の再建スカウト各隊のためにB-P祭を行われることを進言したい。この22日を含む一週間を全国的、或いは県連的にスカウト週間として特別なEvent を持たれるよう望んでいる。アメリカではスカウト週間中全員必ずユニフォームをつけねばならないと聞いている。これは世人にこの運動を認識させる一法でもあろう。ガールスカウトはこの日をThinking Day(思念の日)として全界のGSがお祝いする。
下に記した一文はB-Pが1941年1月8日アフリカのケニヤでなくなられた、直後発見された遺言文である。アメリカ版の“Scouting for Boys ”の巻末に出ているのを私が下手な翻訳をして見た。これをもっと上手になおして貰いたい。そしてB-P祭の時、朗読するならば、我々の追慕の念を最も適切に表すことが出来ると思うし、この祭典の意義を最もよく発現するものだと考える。
チーフ・スカウト最後のメッセージ
親愛なるスカウト諸君
君達が、もし、“ピーターパン”の芝居を見たことがあるならば、海賊の頭目がいつも、遺言状を用意していたことを思い出すであろう。それは彼が死期の来た時、彼の箱からそれを取り出す時間がないかも知れないことを虞れたからである。それは私の場合も全く同様であるから、今私は死ぬのではないけれども、私はそういう日の来ることを思って君達にサヨナラの一言を送りたいと思う。
諸君が私から聞く最後のものになるだろうと思ってほしい。くれぐれもそう考えられんことを…。
私は最も幸福な生涯を送った。だから君達の各々にも亦幸福であるよう私は望むのです。
私は神様が私たちを幸福にすべく、生を楽しむべき愉快なる世界に下し給うたことを信ずるのです。幸福というものは金持ちになったり単なる立身出世することや、我がまま気ままから来るものではありません。幸福に至る一つの階段は、君達が自身を少年の時代から健康に強壮にすることにあります。そうすれば君達が大人になったとき、役に立つ人間になることが出来、そして生活を楽しむことが出来ます。
自然研究というものは、この世界が美と驚異に充ち満ちていることを教え、神様がそういう世界を君達の快楽のためにお造り下さったことを示すでしょう。
君達の得たるところのもので満足し、その最善をつくしなさい。物事の暗い面を見ないで明るい面を見なさい。
けれども本当の幸福を得る道は他人に幸福を与えることによって得られるものです。諸君の発見した世界より、多少でもこの世界を善いものにするならば、君達の死ぬる順番が来たとき、君達は自分の最善をつくしたのだから兎に角、時を無駄にしなかったという幸福を感じながら死ぬことが出来ます。この考え方の上に“そなえよつねに”を行って幸福に生き、そして幸福に死ぬこと───それはスカウトのちかいをいつも実行することです。───たとえ諸君が少年であることをやめた後でも───そうすれば神様は諸君を助けて下さるでしょう。
君の友
ベーデン・パウエル・オブ・ギルウェル
(1941年1月8日、ベーデン・パウエルの死後彼の書類の間から発見されたものである)
私は、三つの“ちかい”をこの意味から“幸福への三つの道”と考えている。
私は偶然にも2月21日に生まれたので、B-Pmasの前夜祭を祝う幸福をもつ。
なお、このB-P祭当日の2月22日は、ワシントンの誕生日であるとともに「国際友愛日」(International Friendship Day)であることを追記する。
(昭和26年2月1日 記)
◆スカウトソングについて
大阪の南東地区でスカウトソングの練習会をやる、という記事を見て、これは良い計画だと思った。それで、思いつくままに、スカウトソングについて書くことにする。
ある年の夏、私のところ(那須野々営場)に、カブスカウトが何コ隊も合宿訓練に来た。平生は淋しい、この大きな森も、急に若い人たちの声で賑やかになった。夏分なら最大限300人位舎営出来るここの設備も、ほとんどフルに活用された。隊によって皆それぞれの特色があった。私は、だまって見ていたのだが、結局、一つの重大なことを発見した。それは、盛んに歌っている隊のコドモは、自発活動が旺盛だ、と、いう結論である。これに反して歌うことを進んでやらない隊のコドモはおどおどしていて、いつも隊長の顔色をうかがって動いたり、その命令を待って動いているさまが、私の眼に強く印象された。スカウトソングの教育的価値というものは、情操教育とか、スカウト精神の発揚とか、親和力のもとになるとか、表現教育であるとか、一つの健康教育、リズムによる心身のバランスの調整とか、色々と説明され得よう。だが、これが自発活動力のアクセルになるという見方は、私にとって全く新発見だった。これは全く偽りのないことで、気分の悪いときや、病気や心配事のあるときには、歌はうたえるものではない。そういう時には、自発活動も弱っている。これに反して気持ちのよい時には、自然に歌が口をついて出るものだ。そういう時には自発活動も旺盛だし、飯もうまい。
だからといって、楽譜を無視した歌い方や、拍子をまちがえたタクトのとり方や、ふざけた歌い方は、むしろ歌はない方がマシということになる。これは、指導の仕方によって、どうにでもなると思う。例えば「光の路」についていうと、「おうぞらを…」の出だしの「お」は第4拍から出るべきなのに、第1拍にしたタクトのまちがったとり方───これは各地とも非常に多い。また「君が代」は完全な4拍子であるのに2拍子でタクトをとる人がある。これなどは楽譜を読む力がないのか。ただ、手をふって調子をとればよい、と簡単に考えている人だろうと思う。もう、こうなると、3拍子の歌曲などメチャ、メチャになる。「そなえよ、つねに」の歌が好例である。
いま一つ、ちょっとむつかしい例をとるならば、「営火の祈り」の歌。あれの、8小節から9小節にかけての「いのりは…」のところの、「い」は、8小節の第6拍である。従って、そのあと「…たちのぼりて」までは裏拍子を歌うわけになる。それは、ちょうど、アメリカ民謡のオールド・ブラックジョーの歌の、アイ、カミング…のところと同じように裏拍子になっている。然るに、一般の歌うのをきいていると「いのり…」の「い」は第9小節の第1拍に、さげて歌っている。これではこの曲の切々(せつせつ)たる楽想がこわされるのだ。この歌曲は6拍子であり、8分音符6つで1小節になる構造なので、指導の仕方がむつかしい。私の作詞作曲になる「山鳩」の楽譜───これは、3拍子と4拍子とが入りまじっている珍しい構成である。この歌曲でタクトの練習をすると、今、私の云っていることが、よくわかると思う。
最後に、「花はかおるよ」の歌曲。これは、最もむつかしい一例である。作詞者は葛原しげる氏(現に広島県福山市に健在)作曲者は山田耕筰氏である。「ボーイスカウト歌集」10頁の楽譜の右上辺に、これが書いてないのは手落ちであるが、両者ともスカウトではない。旧日本連盟の委嘱によって作詞作曲して頂いたのである。さて、この歌曲の4小節目「なのーか」のところの歌い方、且つはタクトのとり方───これぞ研究すべき好題目である。2分、8分、4分、8分音符である。これを計算すると2/4+1/8+1/4+1/8、通分すると、4/8+1/8+2/8+1/8=8/8=4/4になる勘定。「な」は2拍、「か」は半拍になる。そこで「の」と「か」との持ち時間の工合いいかん、という点にカギがある。これは、くりかえし、くりかえし自分で4拍子のタクトをとって練習して会得すべき一例である。
(昭和30年8月30日 記)
◆1956年の意義ジャンボリー
1956年のハイライトは何といっても日本ジャンボリーの開催である。これは今までの皇居前広場(日比谷)や新宿御苑で行った全国大会とも違うし、蔵王でやった大会とも異なる構想に基づいている。いわば本格的なジャンボリーの最初のものだといえよう。
ジャンボリーは、祭典である。だがお祭り騒ぎではない。次のような教育効果がなければなるまい。
第1には「参加する」ということである。これはオリンピック大会でも同様であって、勝敗を争うため行うのではなくて「参加するためにいくものだ」といわれている。参加するということは一つの教育であらねばならない。従ってプログラムであり、プログラムがある。たとえば5月末までに初級スカウトは2級にならなければ参加資格がとれない。もうあと5カ月しかない。あと何科目残っている、それを、いつ、どうとるか、というプログラムが生まれる。また、参加費や旅費や不足の用具を、どう工面或いは稼いで作るかというプログラムもある。こうしたことのプロジェクトに教育効果がある。唯、参加するという言葉だけのものではない。
第2に、現地に着いてから何をするか、というプログラムと、それをどう分担するかという役割、これぞPanticipation すなわち「参加」の本当の意味であるが、ここに至妙な教育的ねらいがあるわけだ。以上のことが欠けたなら唯のお祭りさわぎになる。
第3には、親和ということ。即ち他県や外国のスカウトたちと本当に兄弟であるという実感の体得である。これぞジャンボリーの本質といえよう。ジャンボリーは訓練ではなくて祭典だということは事実であって、昨年の富士特別訓練とは性格を異にすることもわかってもらいたいが、それと同時にジャンボリーもまた、教育であり、プログラムであることも忘れてはならない。 集まれば必ず「励ましあい」(emulation )と「競争」(competition )が起きる。自己の足らない点、まさっている点がわかる。これによって学ぶところ非常に大きい。 第4の教育的ねらいがここにある。友誼に厚い───ということはこの場合、身にしむと思う。おきて第4だけでなく、12のおきてのすべてが身にしみてくる筈である。そういうチャンスを与えるものが、ジャンボリーなのである。第5にスカウト熱をあげるチャンスであるということ。
昨年の富士特別訓練は、今年の日本ジャンボリーへの一つの試行であった。計画、実施の側からいっても、これは大いに勉強になった。今度はその時の10倍、1万人の参加者を予想するから目下委員の方々は大童である。
来年イギリスで世界ジャンボリーがある。その準備は既に昨年からかかっている由である。これは、スカウト運動50年祭と、ベーデン・パウエル生誕100年祭のジャンボリーである。日本も将来いつか世界ジャンボリーを主催するだろう。その時の準備は並大抵でない。今度の日本ジャンボリーの準備委員の方々も、そういうわけで目下勉強されている。かよう我々のすることは皆、勉強である。
1956年はこういう次第で日本のスカウト運動発展の上に深い意義があると思う。
(昭和31年1月8日 記)
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