●目次
●随想(1)
ローバーリングは電源である
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
初夏随想・指導者のタイプ
忘れられない話(その1)
忘れられない話(その2)
●スカウティングの基本
●ちかい・おきて
◆少年がBSから逃げていないか
Boys are in scouting because they want to be and not because they have to be. They stay as long as the program satisfies them and only as long as it holds their interest and enthusion.
“少年達がスカウティングしているのは、したいからしているのであって、せねばならぬからしているのではない。彼等はプログラムが彼等を満足させる限りにおいてのみ、とどまり、そしてプログラムが彼等の興味と熱意とを保持する限りにおいてのみとどまる。”
この面白い言葉はアメリカの“Commissioner Service Manual ”という書物にあるものである。実に端的にものの道理を説破している。英文としても中々面白い文章と思う。
一体日本のスカウティングは現在の処、何をもって少年達を引きとめているだろうか? と反省して見るのである。恐らく少年達はバッジや服装にチャームされ、キャンプやハイクに引きつけられ、一風変わった三指の敬礼やスカウトサインに一種の魅力を感じて、辛うじて隊員たることに満足しているのではあるまいか。もし、それ以上のもの、例えば班生活の味わいとか、責任と義務の喜びとか、いうものでスカウトがやめられない分ならよろしい方である。最初は物珍しいからよいものの、キャンプの5~6回もして、こんなものか---と珍しさが薄くなると、丁度2級に半分なった頃になると、段々集会にも来なくなり新制高校に入る頃になると逃げてしまう---というのがありはしないか?
これは指導者の教養の不足、経験の乏しさもあろうが、それならそれで project しようという熱の貧困の方が大きい。一年もすれば種ぎれになる。資料をかき集めるのはまだよい方で、それさえやらない。日本のBSは目下のところ指導資料が貧弱であるから探し求め得ないことも同情に値する。英文の読める人達だけがアチラの資料を何とか利用している。けれども私は罪を資料難に帰するだけではイクジがないと思う。問題は指導者の創意工夫の欠乏、換言すればプロジェクトの不足に訴えねばならない。それよりもさらに何故子供達にプロジェクトさせて良いプログラムを自分等で作るよう仕向けないか?- --という点である。
経験のある大人でさえも中々プログラムを考案しかねるのに、まして、もっと新米で智能も低い子供にそんなことが出来るものか---と云う人もあるかも知れない。無論イキナリ立派なプログラムが出来ようとは予測しない。けれども、そういう方向に教育することがスカウティングではないであろうか? いつも大人の幹部の立てたプログラムや県連のプランした行事への参加ばかりに隊員が動かされていて、それでスカウティングなんだろうか?
前記の英文の言葉は指導者に対するボエンであって、プログラムもよう立てられんような指導者だから子供を逃がすのだ---という逆説的なイミを含んでいる。その点で天下りのプログラムを指しているようである。勿論指導者にその能力がないということは、指導者として致命的な欠陥である。といって、彼がプログラム編成の名人であったとしてもそれ故に彼が立派な指導者であるとは申されぬ。というわけは、子供にそれをやらせないからである。
子供にやらせないということは彼が名人であって得意だからだ。その結果はどうか? 彼は巧みに子供をアヤツっているが、子供自体は少しも育たないのだ。依然として、子供達は「せねばならぬから」やっている。という形だ。下手でもよいから子供にやらせる。そして作ったものをディスカッションする。評価する。そこに教育があり、子供は育っていくのではあるまいか? 得意になって指導者が引きずり廻している間は教育の教だけの世界であって、育はお留守になっているといわねばならぬ。子供にやらせるには、そこに分担というか割当(assignment)が必要である。割当はその各の子供の好きなことをとらせる。割当られた子供は責任と興味とを感ずるであろう。これスナワチ云うところのプロジェクト教育法の出発である。
次に子供は観察推理工夫をするだろう。指導者はそれに「方向ずけ」(orientation )をすればよいのだ。これがスカウティングの本道であって、その本道を歩く者がスカウトである。
服装やバッジに心をひかれている間は、まだカワイラシイ卵である。それが孵化しなくてはならぬ。それも大きいスカウティングの一つのプログラムだから大事だ。コワシてはならない。
(昭和25年9月12日 記)
◆強制ということについて
親愛なるT君、お手紙ありがとう。お元気で何よりです。お手紙の中で、“スカウティングに強制ということ”が問題になっていることを知りました。果たして、強制ということがあり得るものかどうか、お質問があったので、この誌上をかりて私見を申しのべることにいたしました。
ある隊員が、隊長のいうことをきかない、とか、みんなと協調してゆかない。とか、班生活をみだすとか、集会に出て来ないとか、横暴であるかということは、スカウトが、もともとやはり人間である以上あり得ることです。これをなおすため、隊長が見せしめのため全員の面前で叱りつける、或いはある種の制裁? を加える---という意味から、「指導者に強制力ありや」という問が出たようですね。ほかの言葉で云えば「教権」ありや---ということになります。教権ということは、既に、教育界でも論争があったことで、「有る」という人と「有りはするが濫用してはならぬ」といった人々があって、「無い」と断定した人はなかったようでした。もっとも、これは十何年昔のことで、現在はどういうか知りません。そんなことは、ここではどうでもよろしい。私はいわゆる「反抗」ということを、もっと検討して見たいと思う。「反抗」の本意がわかれば、それに対応する教育指導は考えられると思う。この研究なくして指導法のみを論じたのでは、変なものになりはしないか?
ある意味で私も一人前以上の反抗児であったので、「反抗」という文字には魅力をもちます。それで、ますますこの研究に興味をもちました。私は次のように「反抗」の種々相を分析してみました。
A.少年自身から発する反抗
これは、他の力への反発ではなく、その少年自体に原因があり、他人の力をかりずに、独力で反抗するものです。これには次のケースがあるようです。
以上列挙して見ると、反抗にもいろいろある。先天的の性格から来るもの、自己防衛本能から来るもの、競争本能、支配本能から来るもの等々、というものが、隊長の意志と正面衝突する。衝突した瞬間、一々これを分析する余裕がないから、「隊長」は、「教権」に挑戦したな!…とばかり立腹してどなりつける。「親」にも「先生」にもこれはある。
ところがその大部分は、潜在している本能から出発していること上述のとおりである。このことは、反抗している少年ご本人にも、その自覚がない。そこで叱られている本旨が一向にこたえんものだから、叱る方はますます激怒する。---一体この取引は有効なりや? 恐らく無駄弾丸(ダマ)に終わるだろう。怒るだけ損ということ。
一体教育とは何であろうか?(ひらき直るようだが)それは、第一に本能の浄化(或いは昇華)にあるのではないだろうか。持って生まれた本能をよい方向にむける。本能をそのままに放任しておけば、人間は犬猫と何らちがわぬ動物になりさがる。その上、各人各様の性格をもち、誕生以来育って来た環境が、それぞれ皆異なるのであるから、教育は一筋縄には行かぬ。ワクにはめる「強制」というものは考えられない。
もう一歩考えを深めるならば、成人指導者の側から名づければ、それは「反抗」と名づけられるだろうが、子供の側からいえば、それは反抗ではない。ではそれは何か? 私は子供のために、あえて弁護してあげよう。(子供は表現力が一人前ではないからね。)よく聞いて下さいよ。隊長さん達。どこの国の子供でも、どんな子供でも「僕はこれだけ成長したよ」といって、親にも兄さんにも、先生にも、隊長にも「見てもらいたい」のです。「認めて貰いたい」のです。身長が何センチ延び体重が何キロになった--というように、心の成長をも認めてほしいのです。ですが、それをどう表現したら認めて貰えるのか? 子供の乏しい表現力では大人に通じない。ここで世界で最大の悲劇が生まれているのです。どう表現すれば認めて貰えるか? いろいろ試しているうちに、成長なんていう重大なことをとかく見のがしがちの大人どもは、生意気云うな!とすぐ云いたがる。この発信者と受信者との未熟練から、意思が疎通せず、子供は業(ゴオ)を煮やし、大人は短気になり、「反抗」は成作されるのです。ですから、反抗---とは、大人と子供合作の演出劇ですね。
考えてごらんなさい。万有引力が働いて、雨も天から地に向かって降る世の中に、なぜ草や木は逆に地上から上に伸びるのでしょうか。
私は成長とは反抗だと思います。反抗なくて何で草木が伸びうるでしょう。ですが、大宇宙の心は大きすぎます。この反抗をだまっています。
草木はその大きな心に甘えているからです。私は反抗とは甘え得る者のみがなし得る特権だとね…。」
これは私が青年時代に書いた下手な脚本の中の一対話です。
要するに、以上のAに属する反抗は、各人各様のもので、その起因もいろいろのケースがある。彼は「成長権」を叫んでいるのに、我は「教権」で渡り合い、「強制」せんとするようなことは、およそ悲劇(喜劇?)の骨頂であって、いわゆる「反抗」をして本物の「反抗」に育てあげる結果となり、世に流行の逆コースとなりはしませんか。どうもリーダーのサインのつけそこないのように思います。
次にBの分類---ほか(外部)からの原因によって起こる反抗、これにまず(a)(b)ありとする。
二つとも学校ストライキによくある型です。前の英雄型も多少含んでいる。これは要するに自己の意志の弱いことが主因です。すなわち自己本来のペースがない。いつも他人に引きづられる。大変危険人物です。これには、もっと「自己」を知らせる教育が必要です。それには彼の「特技」を発見させ、これを伸ばさせて、その特技を通じて「分担」と「責任」とを体得させ、それによって「自己」というものを知らせ、自己の在り方を知らせることが大切でしょう。「分担」から「全体」がわかって来ます。例の義侠心も、この土台の上で発揮されれば聡明(分別力)を伴ったものとして賞賛に値します。自己のペースを知らんということはなんとしても不聡明のことです。いつも他人に引っかき廻されていては、どこに彼の「生活」があるのでしょうか?
次は(c)項。これは彼の班生活から来る反抗です。すなわち班の他の者との折り合いが悪いとか、ウマが合わぬとかいうことが原因になる。
a・bともその判断の基準は班精神である。日本BSの現状ではそこまで班制度が育っていないように思います。そんなことでは「ボーイスカウトは行方(ゆくえ)不明」です。
最後のd項、これは隊長が「反抗」の原因を作る場合です。私は次の諸項を列挙して隊長の反省の資料といたしたい。
次のことが「反抗」の原因になる。
隊員にあることを説明する場合、その表現に研究の要なきや?
ア. 自分だけにわかっていて、聞き手(ことに少年)に意向が汲みとれぬ。
イ. あまりくどくどしくて反感をもたせる。
ウ. あまり命令的、強制的で反感をもたせる。
エ. 態度が気にくわぬ。
オ. あまり表現が下手(へた)で、混雑させる。
カ. 大人言葉では子供に通じない。
キ. 少年心理に合わぬ表現。
私はイギリスの“スカウティング フォア ボーイズ”、アメリカの“ハンドブック フォア ボーイズ”、“ハンドブック フォア スカウトマスター”を見ても「強制」ということを発見しません。“エイズ ツー スカウトマスター”には、いかにして隊員をキャッチするか?---という所がある。
結局、隊長が隊員を充分にキャッチしていないのが根本の原因だと思う。充分キャッチしておれば、「強制」を発動する必要はないのではあるまいか。
なお、これを一つの資料として、円卓会でプロジェクトしていただき、私へもその結果をおしらせ願いたいと思います。この説に「反抗」されても怒りませんから。ただし私は決して「反抗」を美徳としたり、奨励してはいません。 最後に一言!
(昭和27年3月20日 記)
◆自分のプログラムというものをよく考えよう
この半年にわたって私は相当各地のリーダーと膝をまじえて語る機会に恵まれた。そして、何処でも、プログラムという問題で悩んでいることを訴えられた。その、いうところのプログラムとは何か、と、聞くと隊のプログム、地区のプログラム…時として班のプログラム、それを、どう作ってよいかわからないので、日連できめたものを出してほしい、と言われる。私は前後して、カブの講習を応援のため、各県をまわった井上茂氏からも同じような訴えがあるときかされた。
そんなものを中央で作って流したならば、それは隊や班の自主性、否々個人の人権をも無視した統制団体、例えばヒットラー・ユーゲントや、大日本青少年団になりますぞ! と、M氏が警告したという話も耳にした。再建10年とか、日連35年とかいわれている今日、いまもってそんなタヨリないというか、少年団的な、一律他力統制がプログラムだと考えている人が割合に多いのに、私はガッカリした。どうしてこんなにみんなは奴隷になりたがるのだろうか?
プログラムは自分のプログラムに出発する。自分は今、県コミである、或いは隊長である。または理事長である、とするならば、自分が今しなければならないことは何であろうか? 何に一番努めなければならぬのだろうか?ここにその人の今のプログラムが出発する。隊員においても同様である。学校の勉強もあれば、家庭の用事もある。スカウトの修行もある。それらを計算にいれて何年の何月に2級になり、何年何月までに1級になっておかないと受験準備が出来ない。と、いうように、各自めいめい別々のプログラムが立てられるべきである。
そういう個人プログラムを全然指導してやらないで、群集心理で作ったり、指導者の側の都合で一方的に作った班のプロ、隊のプロに便乗させようとするのは危険ではあるまいか? 勿論、班とか隊とかいうもの自体にも自体としてもプログラムがなければならない。組織体であり有機体であるならば「あゆみ」があるのは当然である。しかしこれは班や隊が果たして有機体であるかどうかという吟味、分析にパスした上での話である。寄り合い世帯の、烏合(うごう)の衆みたいな班や隊には、有機体としての生命力が欠けているから問題外である。
そんな問題にもならんような、形だけの班、形だけの隊の、班プログラムや、隊プログラムで、個々の隊員の、大事な生活のあゆみを縛ろうとする大人の横着さを私はにくみたい。だが、勝負はもうついている。縛りきれなくて子供たちは逃げていった。どうすれば子供を逃がさずにいけるか?
こういうイミで、大方の人々はプログラムに悩んでいる。---これが本当の姿ではなかろうか?
もし、私の、診断どおりであるとするならば、「あなたは、スカウティングでないものを、スカウティングだと思ってやっている。」と、忠告してあげるほかはない。
(昭和32年5月9日 記)
◆スカウト百までゲーム忘れぬ
相当の老頭児(ロートル)が陣羽織を一着に及んで子供と一緒に兎狩りをやった。大阪連盟のB-P祭の記念行事は誠に愉快な企画である。
私は妻から「オオドモのコドモ」という異名をつけられたので「大伴子朋」という筆名を用いることがある、まことに光栄である。
B-Pは“Boys man”(子供大人)という言葉を発明し、スカウターは、童心をもつべしと条件ずけている、子供と一緒に遊べないようなものは隊長になれない、というのである。
“Scouting”は“game”である---という言葉もこれと同じように名言である。もし我々が、日常生活までを一つのgameとしてこれを楽しむようになったら、その人の人生はB-Pの理想に叶うのであろう。
学校の勉強も、試験も、就職も、そして職業も、結婚も、家庭生活も、社会生活も、病気も、失恋も、煩悶も、死も、悉くをgameとしてゆけるかどうか---私には自信はまだない。ただし、このことは、悪フザケにフザケた一種のニヒル的な態度とは大いに違う。と、いう注釈が入用である。それ故にgameとは何か? ということの解明が不十分であるならば、極めて危険である。ピストル強盗のようなものは、我々のいうgameではないのである。ストライキのようなものもgameじゃない。
gameは所詮「こころ」の問題である。形じゃない。従って、これは「わらべ、ごころ」(童心)がモトである。然し、その童心とは、良識をはずれた無分別であってはならない。少なくとも「大人の童心」は良識そのものであらねばならない。そこに指導性が内包されねばならぬからである。邪気のない、曇りのない、作意のない、極めて自然な天真らんまん、天衣無縫の利害を超えたものである筈。
スカウティングをやっている仲間のみが味わい得る境地であろう。
今一つ、つけ加えねばならぬ。それは、gameには必ず相手があり、仲間が出来るということだ。
人と人とのつながり、人に対する在り方、思いやり、Caie,covei責任そして「励まし」「扶けあい」「協働」(CO-operate)などという、生き方が知らず知らずのうちに身につくようになる。
利己的、独善的な横紙破りはgameをぶちこわす。ルールを守り、他の人々と結ぶことによってgameは成り立つ。
「なんとう」誌が24号も続いたのも、gameだからである。イヤイヤながら「仕事」として科せられたらモウ続かない。
“スカウト百までゲーム忘れぬ”
“雀百まで踊り忘れぬ”と、いう言葉があるが、私にはそれよりかこの方 がピンと来る。
(昭和32年3月21日 記)
▲目次に戻る
▲目次に戻る
▲目次に戻る
▲目次に戻る