●目次
●随想(1)
ローバーリングは電源である
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
初夏随想・指導者のタイプ
忘れられない話(その1)
忘れられない話(その2)
●スカウティングの基本
●ちかい・おきて
◆私見:ちかいの意義
英国ではプロミス、米国ではプロミスまたはオース(Oath)という。プロミスは「やくそく」であり、オースは「ちかい」と訳すべきだろう。
日本では「ちかい」と名づける。曲解を試みるならば、「やくそく」では弱くて、これを破るおそれがあるから「ちかい」という少々固い名称にしたのかもしれない。カブの方は逆に「ちかい」では固苦しいというので、「やくそく」の方をとったというようにきいている。
「ちかい」は正しくは「ちかひ」と書くべきだろう。「ひ」とは「霊」(たましい---本当は、たましひ---)を意味する日本の古語である。「たましひ」「霊」にちかうので「ちかひ」という。これは「日本書紀」あたりによく出てくる「うけひ」という古語に関係がある言葉で、共に「ひ」に向かってベストをつくす人間の決意をいみしている。
こんなことをいうと、一層固苦しくなるかもしれないが、日本人の心理には「天地神明に誓う」とか、天神地祇を祀って誓う」とか唱えて「神」「仏」に所信をちかうことが昔からある。そこでスカウトのちかいは、一体、誰に対してちかうのか? という大きな疑問にぶつかることになる。
昔の武士は神仏に誓った。それは人間同士は所詮、順逆常ならず、信用できない、ということ、また人間には栄枯、盛衰、生老病死があってたよりないので「絶対」のもの、即ち「神仏」や「天地神明」にちかったと考えられる。
明治以来の兵隊は、「大元帥」即ち軍服を着た「天皇」にちかった。それは、軍人としての天皇は兵馬の権、即ち「統帥権」をもっており、皇軍の首長であったからである。「軍旗」は大元帥の身代わりのハタだとされた。
スカウトは、武士や兵隊とはちがった人間である。だから神仏にちかったり、隊旗(これは軍旗とは全然性格がちがう)に誓ったりするのは、第一義的でない。
スカウトは、それなら「何に」「誰に」ちかうべきなのか?
私は、何よりもまず「自分」にちかうべきだと思う。「ひと」をあざむくことはできても、自分をあざむくことはできない。もし、平気で自分をいつわるような、そんな芸当が出来るならば、私は彼を「スカウト」と思いたくない。理由は? 簡単。彼は「名誉」をもたないからである。
「名誉」についての私見は、前に述べた。
「自分に敗ける」ことはあっても「自分をあざむく」ことがあってはならぬ。(“自分に克つ”の稿参照)平気で自分をあざむく者は、ヒトも平気であざむく。そうなると誰も、彼を信頼しない。だからスカウトではもうなくなっている。
自分が自分にちかう---これにまさる自発活動があるだろうか!
「この三ヶ条の「ちかい」は、ベーデン・パウエルが作った---いや、これは日本連盟がきめた---そういうふうに、ちかわないとスカウトになれないから、ぼくは、ちかうのです…。」
私は、こういう考え方をケイベツしたい。この考え方には、一つも「自分が主人公になった態度」がない。自発的なものがない。ドレイ的であり、被害者的であり、盲従的であり、封建的であるから---。
自分から進んで、B-Pに共鳴しスカウト仲間にとびこんだ、という精神がひとつもない。そんな他律的な者にスカウティングは生まれて来ない。
これはスカウト仲間への「仲間入り」の約束の言葉でもあるから、第二義的には---スカウト仲間に対してちかうのである。または隊長だとか、隊旗に対してちかう---ということも、まちがいではないが、第一義的には、「自分が自分にちかう」。昨日まではスカウトでなかった自分が、本日、只今、この言葉とともにスカウトになるのだ---というモチベーション(動機づけ)を意味する。仏教で、俗人から僧になるときに「得度」(とくど)の式をするが、私はそれに似たものを感じる。またはキリスト教の洗礼---いいかえれば、一生の一転機である。
カブの場合は、仲間にやくそくを結び、その制約が自分にもどってきて、自分を律する、という反射的効果をとり、スカウトの場合は、自分の在り方をさきにして自ら律し、そのはたらき(機能)を仲間(ヒト)におよぼすという、積極性をとる---年令、知能、体力、精神力の発達にマッチしたやり方になっていると私は考える。
(昭和35年2月6日 記)
◆私見:ちかいの組立(1)
前項で、ちかいは、実は、ちかひであることを説明した。ひは「たましひ」のひであり、漢字化すれば「霊」であることをのべておいた。さて、なぜ「誓」と書かないのか? これについて私の知っていることを付記しよう。
戦前の日本連盟が、「誓」とか「掟」とかという表現をことさらしないで、「ちかひ」「おきて」と書いたのは、理由があった。側聞するところによると、当時理事長だった故二荒芳徳先生(前総コミッショナー)が、倭訓を強調され、誓とか掟は、どうも他律的にひびいて面白くない。たとえば、おきてとは、心のおきどころの「おき」と、方向を示す「て」という言葉の混成語である。それを「掟」と書いたのでは、そういう意味が出て来ない---という説明であった。「この土手にのぼるべからず」という立札にある「掟」みたいで---と大笑いになったそうである。そこで同じような理由で「誓」という字は敬遠されて「ちかひ」が用いられたのであった。私はこれは誠に卓見だと思う。第一、感じがよい。漢字でない方がカンジがよい---。
さて「ちかい」は前言葉があってから、三ヶ条が頭をならべて表現されている。前言葉にある「私は」という言葉が非常に大切で一人称単数をつかう。普通の会則とか、宣言には「われわれ」とか「我等」とか「吾人は」とか複数を用いるのが日本人の癖である。悪くいえば、多数をたのむいい方が好きな国民である。
ところが前言葉では「私は」である点に留意されたい。これは基本的人権に基づいた発言をあらわす。ひとは、どうあろうとも「私は」である。その上、「自発活動」そのものである。もう、これだけで、スカウティングの在り方が明示され尽くしていると私は思う。
その次に問題になる言葉は「名誉にかけて」である。この「名誉」とは何か? については、前に述べておいたから詳述をさけたい。要するに、ウソやイツワリでなく、本心からちかう意味の最大級の表現である。昔流に云えば「刀にかけて」であり、「天地神明に誓って」となろう。
その次に「実行を誓います」の言葉。これでわかるように、「ちかい」は、まだ、「実行」そのものを指していない。「実行」そのものの部は、「おきて」の方にある。この段階はまだ「発想」の段階であり「決意」の段階だと私は解する。「意思」の設定なのだ。これについては、あとで、「ちかい」の第2と「おきて」の第3との相似点と同時に、異同点の説明の時、詳述したい。
それよりも、私は、最後の「誓います」の「ます」に注意を向けたい。「誓いましょう」でも「誓いました」でもなく、明らかに「誓います」という「現在形」である。そんなことアタリマエダ---と、一笑に付する読者があるだろうと思うが、私は、一笑どころか真剣ですぞ! 即ち、これは、常に現在形であり、永遠に現在形である。瞬間々々、Every Momemnt に「誓います」なのである。だから、いつも、いつもスカウトであり、今の今もスカウトであり、Always a Scoutであるわけです。
(昭和35年3月17日 記)
◆私見:ちかいの組立(2)
ちかいの三つを、概観すると---。
第1は、神(仏)国…のそれぞれに「誠を尽くし」、おきてを守る。というのである。この神、仏、国、おきては、どれも抽象的存在である。俗にいえば眼に見えないものへの忠誠である。且つ、人間以上の高いところに在るものへの忠誠である。最小限、これらの存在を、否定しないことをあらわす。だから神仏を否定した無神論者や、国を否定した思想の持ち主は、スカウトとして失格者である。心のおきどころの確かでない者、心の動向が無秩序、または有害であるような精神異常者、即ち、おきての無い者もまた失格者である。尊ぶべきものを尊ばないような思いあがった無法者ではお話にならん、ということになる。おきて第12に、これは伸びてくる。
第2の「いつも他の人々を援けます。」というのは、自分よりも先に、他の人々のことを考えなさい、という意味がその本命であって「援け」る---という言葉は、まだ、具体的な行動をさしていない、と私は解する。
前述のとおり「ちかい」は、発想であり決意であって、行動の、一つの手前の段階、即ち「意思」律をあらわすものと、私は思う。「行動」はむしろ「おきて」のがわで律するものと思う。従って、このいつも他の人々を援けるという意思が、おきて第3の「スカウトは人の力になる」という「行動」を起こすことになると思う。ある一部の者は、ちかい第2と「おきて」第3とは、同じことを重複して云うていると、非難するが、私は、そうは思わない。
B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」のなかで、「この教育は、利己主義を利他主義に置き換えるものである。」という意味のことを説いている。(邦訳本P48、P478、他数カ所。)そのことを、この第2においてあらわしているものと、私は理解している。従って、自分個人のことは、一番あとまわしになる。即ち、ちかいの第3にはじめて、「自己」があらわれる。
第3に「体を強くし、心をすこやかに、徳を養います。」と。
体を強くし---と、一口にいうけれども、その意味は実に広大である。私は、近年病気をして、色々と反省させられた。60才をすぎてから起きる疾病の遠因は、殆ど全部が、少年時代に、無意識や不注意、乃至は無知、または強がり、No care に原因していることを知った。このことは後日、詳述したいと思っている。
心をすこやかに---この言葉も中々、やさしいようで、むつかしい。現在の私としては、唯、漠然と真、善、美への追及とだけ受け取っているにすぎない。「歩く時には、泥んこの水たまりを見ないで、かわいているところを見て歩きなさい。」と、言ったローランド・フィリップスの説話(「班長への手紙」、邦訳本「パトロールシステム」「班長への手紙」合本のP134参照)は、誠に示唆深いものがある。結局、「おきて」第10につながる決意であり、意思である。
徳を養います。---については、今度発刊された雑誌「スカウト」4月号(P40~41)に私が書いたように、他人の幸福をはかることを意味する。それは、B-Pの80才の時のメッセージと、最後のメッセージから解明できる。(「ボーイスカウトとはどんなものか」P32P34参照)
第3の、この自己修練のちかいが、単に、自己中心的に、自分さえよければ、で、ないことは、この末文の「徳を養います」の一語によって、いみじくも、道破されている。この点に、留意したい。
さて、それでは、徳を養うためには、換言すれば、自己をささげるには、どうしても「小我」をすてて、「大我」に活きなければならない。このためには、ゲーテのいわゆる「至高なるもの」への、敬仰、思慕、追従が必要である。ここにおいて、私は「ちかい」第1に、もどって、仏(私の場合)に国に、誠を尽くすのではなかったら、私は、小我にとらわれて一生を曇らせるほかない。
このように「ちかい」には第1もなく、第2、第3というような順序もないのが本当である。円周みたいに始めも終わりもない。(この稿文には、仮に、第1、第2、第3としたが---)だから規約ではどれも皆一としてある。
一番むつかしい言葉は、「誠意を尽くし」である。これについては、以前、叙述したと記憶するが、これは“To do my Duty ”にあたる日本語である。デューティ(Duty)は、邦語の「つとめ」「義務」に近いのだが、権利に対する義務では決してない。日本人の普通いう義務とは、権利あっての義務、義務あっての権利、即ち相対的の義務をいう癖が多い。この方はObligation(義務)であって、Dutyではあるまい。Dutyは、絶対的なもので、それの対象は無い。そうして自発的である。なんらの交換条件や、反対給付を予想しない義務(つとめ)だ。命令もされず、制圧もされず、全くの基本的人権の自発活動からくる奉仕である。これを「誠を尽くし」という表現にしたことは、誰の提唱なのか知らないが、中々味があると私は思う。(中野忠八先生のような気がする)
さて、この「誠を尽くし」の程度、どの程度の誠なのか、これはスカウト各人の年令、知能、力量、識量、境遇によってその段階は千差万別であるべきで、それ自体に、進歩の軌跡をもつものであるから、一定の基準をもって律するのは、まちがいである。スカウティングの妙味を内包している点からみても、実に味がある言葉だと思う。
最後に---。
このちかいは、米国のOathまたは、 Promissの、翻訳である---と言って非難する者がある。ある消息通の言によると、終戦直後、進駐軍当局は、日本BSの再建に関して、多分に疑念を抱いて、軍国主義の再建を警戒し、中々許可しなかった。そこで、米国のと同じ、ちかい、おきてにしてその疑念を解くため、且つは再建を急ぐ必要上、翻訳を提出したのだと言う。よって独立達成後は、これをやめて新規に立案すべし、という意見もあった。しかし規約の改正に際して、このままで別に弊害はないということと、ちかいやおきてのような大切なものを、軽々しくまたは感情的に改正することは適切でない、ということでそのままとされた。
けれども、「徳を養います」という部分は決して翻訳でない。「徳」という概念は東洋的なもので、いわば日本独自の考え方である。私は「徳を養います」という言葉だけをもってしても、日本式スカウティング(もしそういう言い方が許されるならば)を端的にいいあらわしていると、誠にうれしく思うのである。
(昭和35年4月11日 記)
◆名誉とは
スカウトのちかいの前文に「私は名誉にかけて次の三条の実行をちかいます」とある。この「名誉にかけて」とは一体どういうことなのか? 指導者がスカウトにこれをどう説明すればよいのか? 私はかってある研修所の事前課題に、この問題を出したことがある。その答案は、辞書で「めいよ」をひいてみたり、名誉心とか名誉欲とかを一応あたってみたが、どうもうまく考えがつかないという答えが多かった。然るに、おきての第一に、このことは明白に出ているのである。それに気づいて答案を書いた人は僅か3人位しかいなかった。おきてのヨミが足らないナーと私は直感した。
スカウトは誠実である。
スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。嘘を云わず、ごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどは、すべてスカウトの名誉を保つ基礎である。
以上がおきて第1の全文である。多くの者は前文だけ暗記して全文を読んでいない。前文を除いた残りの文は本文でなく、説明文或いは副文であるという説がある。私はこの説に反対する。全文が本文である。これは故中野忠八先生(起案者だった)から直接私へのお話に従ったものである。ただ、初級になる少年には全文の暗記は無理であるから前文だけを誦えることになっているにすぎない。然し少なくとも、15才以上の者は全文の暗記が出来ないこともあるまい。努力次第だ。もし暗記できなくても全文を朗誦するようにしたい。なぜか、というに、15才以上の年長スカウトは、一段とおきての実践に峻烈さを要望されるからである。
「信頼に値する人」とは「責任を果たす人」であり、「誠実な人」である。名誉とはそれに値するものである。故に、誠実---責任---信頼---名誉、の四つは互いに原因であり結果である。「信頼される」ということが「名誉」になる。「自己を裏切らない」ということが責任の第1段階、すなわち「自分が自分に対する責任」を果たすことである。「他人への責任」「社会への責任」「国への責任」などは、この自己への責任の土台の上にこそ建てられるべきものである。自分が自分に対する責任を怠っていたのでは、他に対する責任など建てようがない筈であるが、古来日本人は命令者(権威)に対して奴隷であったため、その方への責任が恐ろしくて自分への責任を放棄していた。基本的人権を自分から棄て去っていたのである。そしていかにすれば責任を免がれるか、転嫁し得るか、巧みに逃げるかの術を研究したものである。---現今でも。
こういう権威に対する屈従による自己否定の仕方は、本当の没我でも無我でも捨身でもない。自責の念に堪えんなんていうが、それは弁解にすぎない。自己が自己に対する責任をとことんまで尽くし果たして、それが不幸、果たし切れないときに身をすてるなら筋は通る。即ち、そういう時には他人に対する責任も併せて達成できないから、オメオメ生きていられないということになる。B-Pが「スカウティング・フォア・ボーイズ」の中の、責任という項で船長は難破の時他の全員を助けるよう努力し、最後まで船に残って船と運命を共にすることを名誉だと教えられている。と記している。B-Pはそれ以上の説明をわざとしていないが、かように自分の死をかけている船長であるから、人々は安心して乗船するのである。もし、まっさきに脱船するような船長だったら誰がそんな船に乗るもんか、と、いうことになる。つまり彼は乗客から絶対に信頼されている。それが船長たる者の名誉なのである。不幸にして自己に、そして他の人々へ、国へ、神へ、最善を尽くしてもなお及ばなかったとき、ネルソンは“ I have done my duty ”と叫んで斃れた。dutyという言葉に相当する日本語がないのは残念である。
「名誉にかけて」という言葉は、英語では「死をかけて」というほど絶対な厳しいものだとB-PはS.F.Bに書いている。
私は、これを「自発活動の極地」であると思うようになった。
“かおりか光か、ああ、名誉!”薫りと光は、自発する。
(昭和31年4月4日 記)
◆名誉について
“私は名誉にかけて次の三条の…”の、名誉にかけて---というところを、カブスカウトの月の輪の子供にどう説明したらよいか、その中でも、“名誉”をいかに説明すべきや、という質問をうけた。私は、あなたは講習会で何を教えられましたか、と、逆に質問をした。するとその人は、私はカブの講習会には行きましたが、少年部の講習会には、まだ行けませんので、何とも教えてもらっていないと答えた。その団には少年隊がないので、カブの隊長が少年部のちかいと、おきてを教えねばならないのである。こういう実例が、方々にあるのではなかろうか?
私は数年前、ある地方の少年部指導者実修所の事前課題に“スカウトの名誉”という出題をしたことがある。その時の答案を見て、実はガッカリしたのである。ある者は、漢和辞典をめくって“名誉”の解説をしたのもある。しかしそれは答えになっていない。
これに対して、私は、次の二つの点を解答の鍵とすべきだと思う。
(1)おきての第1条をよく勉強すること。
(2)“スカウティング・フォア・ボーイズ”邦訳本 381頁のB-Pの示唆である。
おきての第1はいうまでもなく、「スカウトは誠実である」この主文の下に次の説明のようなものが載っている。---
スカウトの真の資格は信用され得る人間にのみ与えられる。嘘を云わずごまかしをせず、信頼されて託された任務を正確に行うことなどは、すべてスカウトの名誉を保つ基礎である。---と。
前記のとおり、この一文は、説明文のように思えるが、昭和22年~23年、これを制定した時の委員会は、このながたらしい文言をも、主文だと説明している。ただ、全主文を暗記することは、むつかしいので、暗記は前の主文だけでよい、というとり決めであつかったことは、その委員会の中心であった故中野忠八先生が昭和23年夏の、戦後最初の宮島実修所において講義をされたので明瞭である。しかるに、その後の講習会などにおいては、この全体が主文であることを、いつの間にか忘れて、説明文であるかのごとき講義をした向きもある。
要するに、たとえこれが、説明文であったにせよ、大多数の指導者もスカウトも、これを読んでいない。読んでいるならば、スカウトは、人から信用されることを名誉とする。信用されるためには、ウソをつかない。すなわち誠実である。だから名誉にかけてということは、正札通り、カケネなしということになろう。
また、これは米国のおきて第1とまったく同じものである。米国のは、ただ“スカウトは、信頼に価する”という表現になっている。日本は、それを、誠実であるといいかえただけの違い。
英国のおきて第1は“スカウトの名誉は信頼されることにある”---云い換えれば、“スカウトは信頼されることを名誉とする”となろう。
誠実---信頼---名誉、という三つの関連によって、明確な答えが出るはず。
B-Pが“スカウティング・フォア・ボーイズ”に書いてある示唆は、非常に暗示的である。要するに船が難破、沈没した時、船長がもし真先にわが身の安全をはかって船客を放っといて逃げるならばそんな信頼の出来ない船に生命をかけ、船賃まで出して乗る馬鹿はない。と云う云い方をしている。
以上で大体いいつくしたと思うが、私はこの一事から見てもスカウト教育上、大変大切な事柄が、案外なおざりにされたり、早や飲み込みされたり、伝達不十分にされているのではあるまいか、という気がする。いいかげんな、お茶をにごしたような教え方を、厳にいましめたいものと思う。
(昭和31年4月4日 記)
◆“ちかい”のリファームについて
英国でも米国でもボーイスカウトからシニアースカウトに、または、シニアースカウトからローバースカウトに上進する式に、“ちかい”のリファームを行うことになっている。(ただし米国にはローバースの制はないのだが)日本においてもこの手続きを採用しようという声がある。そこで、このことを考えてみたい。
リファーム(Refirm)とは再認、再確認ということであろう。即ち「ちかいの再確認式」 Refirm-ation を行うわけ。「ちかい」というものは一生に一度だけ行うものである。幾度も行うものではない。一度ちかった後は、唯、唱えるだけ、または、思い起こすだけで、それは「ちかい」ではない。そこでリファームなるものも、その程度であるかも知れない。然し、私はリファームなるものを別の意味に考えようとしている。
私は、リファームを唯、単に復習と考えない。内容的に、より高度の実践への決意と心得たい。もっと具体的にいうなら、初級にありては「ちかい」「おきて」の暗記とその意味の理解が要望される。2級と1級とは別にこれを考査課目としないで、日々のスカウト生活にどの程度あらわされているかを、面接法で評価するものと私は判断する。けれども、その実践はいわば道徳的の限界にとどまるように思う。然るにSS及びRSに成長すると宗教的の生活プロセスが押し上がってくると私は思う。即ち、SSやRSの日常生活というものは、僧服をつけざる僧とでも申すか、俗人の坊さん足ることをB-Pは期待している。と私には感じられる。そこで「神(仏)に誠を尽くし」という言葉が、少年時代(BS)よりもハッキリ具体化されなければならない。今までは観念的であったか知らんが、生活的でなければならない。ここにおいて何宗、何教、何派であろうと信仰の生活に入ることが期待されるのではなかろうか? 私は、Refirmという言葉のもつ意味をここまで掘りさげつつある。「誠を尽くし」という表現は文字の上では入信を規定していない。だからその解釈は自由であろう。だが、私自身のスカウティングは、そして私の自発活動はきびしく私を、信仰生活に指向してやまない。スカウティングという綱と、宗教という綱とが、私にとっては一本にない合わされつつあることを自覚するが故に、私はRefirmなる言葉をそのように考えるのである。
(昭和31年11月5日 記)
▲目次に戻る
▲目次に戻る
▲目次に戻る
▲目次に戻る
▲目次に戻る