●目次
●随想(1)
ローバーリングは電源である
隊長がエライか? 地区委員がエライか?
初夏随想・指導者のタイプ
忘れられない話(その1)
忘れられない話(その2)
●スカウティングの基本
●ちかい・おきて
◆奉仕とは
「うちの団でローバー隊を作る計画があるのですが、肝心のローバーたちが、まだ迷っています。」という。「なぜ迷っているのか?」と問うたら、「ローバーは、地区や県連の行事に奉仕せねばならんでしょう。そうなると自分のことが出来なくなる。損するみたいだ、と思うらしい。」という答えであった。
私は、「せねばならんとは、どういうことですか? 強制されるのですか? 奉仕をしないと工合いが悪いから、やむを得ずする、という受け身的な考え方なのですか? やらされるというような奴隷的使役なのですか? 自発活動での奉仕じゃないのですか?」と、連発式の詰問をした。相手は沈黙した。
私はさらに追い討ちをかけた。「奉仕は力だめしですよ。自分がどれくらいお役に立つだろうか、という力をためすのですよ。だから損にはならない。」と、たたみかけた。すると相手は、「ははァ…力だめしねェ…と、感心したような、びっくりしたような、かつ、半信半疑のような顔をみせ、せきばらいを一つして、急に話題を変えてしまった。
私は、この日以来、「奉仕とは何ぞや?」という課題ととっくんだ。スカウティングにおいて、究極の行動である「奉仕」ということについて、ひとつも研究していなかった自分に気がついたからである。研究していないくせに、口では奉仕々々と、よく云う。こいつはいかんぞ、と自分を叱った。
以上が序論である。
さてここで、「奉仕」という言葉について考えてみよう。奉仕とは、「つかえたてまつる」という和訓で、何につかえるか、と、いうと、神につかえる、と、いうことから来ているようである。あるいは、これは、神道の教義にとらわれている解釈かも知れないが、神に限らず仏に対してもいえるであろう。即ち、至上なものに仕える---ことがその極限であろう。国に対する奉仕におよび、外国では、National Serviceといえば兵役のことになる。
大正年間以来、日本では、「社会」という意識がもりあがってきて、社会奉仕という言葉が流行するようになった。それが昭和のはじめ頃、商業主義の盛行によって、サービスという言葉が、百貨店の用語のようになった。たとえば、大阪の大丸あたりが、そのキャッチフレーズの元祖ではなかろうか? 当時、大阪では、「ほしいしゃかい」するのだ---と「社会奉仕」をひやかした者があったことを私はおぼえている。これは、なんらかの反対給付や、儲けや、謝礼を予期したもので、結局、取引であり商売だった。これは、奉仕を看板にし、奉仕を売り物にした商魂でしかあるまい。
昭和も15年頃になると、奉仕という言葉では、もうききめがなくなった。それほど、この言葉は新鮮味を失い、無力となった。そこで、これにかわる言葉として「滅私奉公」という言葉が作られた。奉公と奉仕と同義語で、それに滅私という冠詞がくっついて、人心をとらえたものである。
日本人は、こういう言葉の魔術にかかりやすい国民だといわれる。奉公とは、公、すなわち、朝廷に奉るということ、この公が、後に主人公の公になり、主人につかえることとなり、奉公人という言葉が生まれた。雇傭人である。武士仲間では、主君に奉公すると云った。公はオオヤケであり、主家のことである。後にオオヤケは、公衆とか、社会大衆を意味するようになった。公共のことである。
スカウティングにおける奉仕の意義を考えてみよう。
スカウティング・フォア・ボーイズの巻頭に、いわゆるスカウティングの四本柱とでもいうべきものが載っている。それは、人格、健康、技能(手技)と奉仕の四つである。この四つの、どれか一つが欠けても、スカウティングは成り立たない、と、いうように思われるのである。そして、その最終段階に、この奉仕があげられているのである。われわれのスカウト教育は公民教育だといわれる。公民生活とは結局は奉仕生活なのだから、これは当然である。
よって、スカウティングのあらゆる指向は、この「奉仕」に帰納されなければならないであろう。
いま、このことを、次の帰納によって立証してみようと思う。
日々の善行---これは奉仕訓練の根本であり、積みかさねであって、方法的であり、かつ目的的である。これを忘れては奉仕はあり得ないといえよう。
そなえよつねに---これも奉仕を狙っての心がまえ、そして奉仕技能の準備である。何に一体そなえるのであるか? それは云うまでもなく、奉仕のチャンスを探し求め、チャンスを発見するや、まってましたとばかり奉仕を敢行する準備を完了することである。「準備ずみ」であらねばならぬ。 日々の善行といい、そなえよつねにといい、どちらも自発活動がその生命であって、しなければならぬからするのではない。他から命ぜられてするものでもない。奉仕したら損をするとか、トクをするとかいう境地を超えた純粋行動である。
こういう行動が無条件にいつでも出来る人間になるように幼い時分から練習する。その練習期にあっては方法的に或る条件を与えて条件反射をくりかえす必要があろうけれども、その積みかさねが、いつしか習性となって無条件反射的に出来るようになる。そういう人間にすることがスカウティングである。観察推理訓練の目的も、また、ここにあるのである。
ちかいの第2---いつも他の人々を援けます---も、おきて第3---スカウトは人の力になる---も、奉仕の徳目である。
さらに誠実、忠節、友誼、親切、従順、快活、質素、勇敢、純潔、敬虔のそれぞれは、いずれも、人につかえる道である。スマートネスもまた、人に悪感を与えないというモラルである。
まじめにしっかりやり、互いにたすけあい、自分のことは自分でする。おさない者をいたわり、そして進んでよい事をする---というカブスカウトのさだめも、みな、人への奉仕を意味する。
これら、人への奉仕は、いいかえれば、自分への奉仕---自己研修---ではないか!
B-Pは、自己研修という言葉をあまりつかわない。「自分への奉仕」と云っていたことは注目に値する。自己研修という言葉は、東洋的、日本的な表現であろうが、何となく個人主義的、利己的、打算的な感がする。これについては、後述したい。
さて奉仕活動を発動するにあたって、その奉仕分野は、いろいろ考えられる。
まず自分の属する班や組の者に対する奉仕、それから次長や班長、組長、デンチーフ、デンマザー、デンダットへの奉仕、上級班長や隊付や副長補に対する奉仕、副長、隊長に対する奉仕、団委員、団委員長に対する奉仕、それに、集団としての組、班、隊、団、地区、県連、日連への奉仕、世界のスカウト圏への奉仕、ひっくるめてスカウティング運動への奉仕がある。
これ以外に家庭、隣保、地域、職域、学域、公共社会、国、国際世界への奉仕もある。
また災害救助や犯罪防止や防火、植樹、自然愛護、環境衛生、交通安全、助けあい運動、募金などへの奉仕もある。場合によっては軍役奉仕もあり得よう。宗教奉仕も考えられる。
考えてみれば、日々の生活は、一刻といえども奉仕ならざるはなし、どれかの奉仕に直面している、といえる。
ここで問題をしぼって、先に述べた自己研修と奉仕について、もう一度考えてみたい。
あるローバーたちは、前述のごとく、奉仕に引き出されるならば自己研修が出来なくなるという。そして損だと考える。私は、この段階の人たちに、次のような図を示したい。
** **
* * * *
* 自 * * 奉 *
* 己 * * *
* 研 * * *
* 修 * * 仕 *
* * * *
** **
このように、彼らは、ふたつに分けて考えているらしい。ところが、私は、こう考えている。
** **
* * * *
* 自 * 奉 *
* 己 * * *
* 研 * * *
* 修 * 仕 *
* * * *
** **
その理由は、奉仕することによって自己研修が深まり、自己研修によって、奉仕もまた進歩するからである。そして二つの円のかさなっている部分は、自己研修すなわち奉仕であり、奉仕即自己研修であって、どちらか片っ方だけでない。と思うのである。
B-Pが、最後のメッセージに述べたところの、真の幸福というものが、丁度この部分にあたるように私は思う。すなわち他人の幸福をはかることによって自分の幸福を得る、という思想である。東洋思想では、これを、「徳」と云う。「徳を養います」---とは正に、これをさしている。私は、こういう奉仕が、本当の奉仕だと思うのである。
滅私奉公のような、自分をギセイにする奉仕---は、まかりまちがうと、とんでもない奉仕になりそうだ。なぜか? これは売名的になったり、人権を無視した強制になりがちだからである。奉仕によって自己も活かされねばならない。自己を殺したのでは、それは奉仕ではなくて、虐殺である。自殺を美化したものにすぎない。いいかえれば、義侠心を満足させるだけのための奉仕であるならば、それは自己満足は出来るだろうが、人は迷惑せんとも限らない。報償をアテにした打算的な、交換条件的な奉仕は、胸糞がわるくなる。名誉心にかられた奉仕も、ずいぶん世の中にはあるものだ。
結局、「善」とは何か? という課題と同じようなことになってきた。「奉仕」とは何か???
これは純粋無垢の善や、無条件の奉仕をした人だけが答えられるもので、そのようなことを、まだ、したことのない私には、いくら頭をひねっても答えられないのは、甚だ残念である。
私は、ひとの答案をひっぱり出して、ご覧にいれるほかはない。
中国の古哲人、老子は---善行無轍跡(ゼンコウ、テツセキ、ナシ)と答えた。善行の純粋なものは、車の通ったあと、ワダチ(轍)のあと(せき)がひとつも残らない。輪跡がない、というのである。ひとに見せびらかそうにも何もない。まことに空気のような善行だ。
印度の聖雄とうたわれたガンジーは、「真の善行は、純潔な者だけが、なし得る」と答えた。「善行をひとつ、してやろう」などと考えてから善行するような作為の人間は、もうすでに不純だ、というのである。いわんや善行したら、ほめてくれるだろう、などと、報酬を予期するような善行は、不純だから善行ではない、と、いうのである。
ここで私は、「スカウトは純潔である」という、おきて第11を思い出して、冷や汗が出た。
英国のおきて第10にこれがある。英国のおきて(Law )は、最初9ヶ条だった。ところが、みんなが、もう一つふやして第10に「純潔」を入れてほしいと、B-Pにおねがいしたところ、B-Pは最初は反対した。その理由は、おきての第1から第9までをひっくるめてぶつかっても、「純潔」には勝てない。それほど純潔という徳目は比重が大きいのだ。もし、これを第10に加えるならば、純潔の比重は10分の1にしかならない。とんでもないことだ、というのであった。B-Pのこの説明は、大いに味わうべきもので、おそらく、ガンジーの言葉と相通ずるものがあるであろう。とにかく純潔は、10分の1ではないぞということを土台として、結局、おきての第10に加えたそうである。(レイノルズ著、“Boy Scout Movement”による。)
実行した人の言葉には、力があるものだ。B-Pの云う「自分への奉仕」という言葉を味わいたい。
(昭和36年3月6日 記)
◆標語について
「そなえよつねに」という標語は、「何時も役立つよう準備ずみであれ」という解説でひと通りの意味はつきているようである。けれども標語の性質上、語呂なり簡潔性なりから「そなえよつねに」の7字の発声に要約されて見るとどうも「役立つ」という意思がぼやけて「そなえよ」という言葉の方が強く響くのであります。
「そなえよ」という言葉そのものは決して悪くはない。心を引きしめる言葉であり、自らむちうつ語勢をもっている。であるからよいのではあるが、ややもすると非常突発の事件に備えるとか、天災地変に備えるとか、悪くすれば戦争に備えるような錯覚を伴わしめる。勿論そんなこともあるが、私はその事ばかりにこの標語の解説をすることに異論を唱えたい。即ち隊長が年少幹部班の訓練で、この標語をこのように解説するとしたならば、単純で素朴な少年達は、ただそれのみにこの標語を理解してしまうのではあるまいか?
そこで私はこの解説は、「役立つ」ということがその意味の根本であることを力説したい。英語でいうUsefulである。スカウトは精神において技術において、他の子供と異なる高度の訓練を身につけるのであるが、それらはことごとく役立つことによって修得の甲斐が生ずる。救急法や結索法を知るということは、単にそれが出来るというだけでは意味をなさない。それらの技術をスカウト精神によって役立たせることにより、初めて意義を生ずるのである。逆説的に云えば、役立つようにそれらを修得するにある。
結索のねじ結びに例をとれば、最初の綱の掛け方に、右廻しと左廻しの2通りがある。右廻しに巻いて右掛けして捻る場合、右からくる圧力には、締まる一方であるが、左からの圧力に対しては弱く、時としてゆるんで用をなさなくなる。左からの圧力に耐えるためには左巻き左かけにして捻る必要がある。このように「役立つ」ということを念頭において修得すれば、ここに修得の意義を生ずるのである。若しそうでなく、漠然とその時の工合いで右かけや左かけをやって、それで捻り結びが出来たと考えるような訓練をしたならば、突嗟の場合、真に「役立つ」かどうか怪しいのである。ましてや結索競争の場合、1メーターそこそこの短いロープの尾の方から通して、ねじ結びの型だけを作るような「要領結び」を指導者が得意になって教えるとしたら、結索ももはや一つの邪道に陥り、「役立つ」ということから遠く逸脱してしまう。私はこうした種類の隊をしばしば見ることによって日本のスカウトは「要領スカウト」になりそうな不安を感じている。
こうした考え方で私は「そなえよつねに」は日常生活の一つ一つに対する我等の生き方を示したもので、決して突発時に対する用意のみ指していない。むしろ平凡なることにも、そのものをマコトならしめるよう忠であれ---ということ。
そのために汝の修技を役立たせよ---ということの方に強い意味があると思う。平凡なことを非凡に行う。---ということにもなろう。 「そなえよつねに」を私は「役立てつねに」と云いかえて味わっているわけである。
(昭和25年2月20日 大阪に立ち寄って)
◆何に備え何を備えるか
“そなえよつねに”という言葉は一体何に備えるのだろうか? 何を一体備えるのだろうか? こういう自問を発してみた。普通、この標語は、いつなん時、いかなる場所で、如何なる事が起こった場合でも、善処、処理できるということ、昔の言葉でいうと、一旦緩急あれば義勇、公に奉ずるというような、こと危急の場合、突発事件などに際して、あわてず憶せず、難にあたり奉仕するというような解釈が唱えられている。Scouting for Boys にも、そう説明した章があることは周知のとおりである。けれども、私は危急の場合非凡な働きをするばかりでなく、平生平凡なことにも役立つ---と考えたので“やまびこ”誌には、これは「役立てつねに」と云いかえた方が、わかりやすいと書いたことがある。ところが今回は、何に備えるか、何を備えるか、という自問が出た。
まずそれには、心に備えるところ、かつ心を備えねばならぬ---と考えた。次には体に備え、丈夫な体を作らねばならぬ---と思った。しかし、それだけではいけない。溺者を助けるにも、水泳や結索法や人工呼吸法が出来なければ駄目、そこで技(わざ)を修め、それが自分で出来なければならぬ。すなわち、技に備え、技を備えねばならぬ。そこで人格、健康技能を備えよ。つねに ---ということになるが、この三つは結局、世のため人のため、奉仕するに備えることである。私はここまで考えた時に Scouting for Boys 巻頭にベーデン・パウエルが挙げた Scouting 指導の四つの柱を思い出して、豁然としたのである。
The subjects of instruction with it fills the chinks are individual efficiency through development of
Character
Health,and
Handicraft in the individual,and in Citizenship through his employment of this ef-ficiency in
Service
とベーデン・パウエルは記している。
私はHandicraftを単に手技と解釈せず、術科、技能、すなわち術技と解した。この人格(Charact-er)健康(Health)技能(Handicraft)と奉仕(Service)に備えること、かつそれらを身につけ築き備えることを、この標語は示していると思ったのである。
だから、ベーデン・パウエルは必ずしも突発事件や危急に備えよとばかりは考えなかったと思う。Scouting指導の主たる土台は、人格造立、健康安全、技能取得、公益奉仕の四つにあること、そこでスカウトは、この四つに備えよ、いつも、つねに、とこれを要約して標語化したものだと思う。“BePrepared”の標語“そなえよつねに”の真意はこれだと思った。さらにこの四つの柱からほぐして解析すれば、Scoutingの構成原理がつかめるように思われた。
(昭和26年11月1日 記)
◆新しい時代に生きるスカウト教育
今日の新教育というものは、アメリカの碵学ジョンデューイの学説を基盤としていることは誰しも知るところである。70才を超えるこの考碵学の教育説は今は全世界のデモクラチック諸国の教育に対する光である。
アメリカのスカウト教育がその影響を蒙っているらしいことは想像される。また逆にスカウト教育がデューイに影響した点もあるのではあるまいか? この間の消息については残念ながら何一つ知る手がかりがない。
イギリスに生まれたスカウト教育法は、世界各国に伝播して、それぞれの国風と行き方に取り入れられた。その例としてドイツやイタリーの改ざんは周知のごとく失敗した。ソビエート化したピオニールの現状はわからない。唯アメリカでのスカウティングは最近20年間に非常な研究と改良を見たのである。それはアメリカの建国以来のパイオニア精神と合致し、その公民教育と合致し、そしてデューイの学説と一致したからであるらしい。これらに関しては私は今後の研究にまつ他はない。今日の処、単なる想見の域を出ない。
私はデューイの教育学説について有名なニューヨーク大学のホーン教授(Herman Harrell Horne)が新教育の特長として25項目をあげている。それを一見しようと思う。
次の項目の番号に私が〇印をつけたものは、スカウト教育と共通したものであることを示す。
(1) ○児童を中心とすること
(2) ○児童生徒の教育参加
(3) ○個人尊重
(4) ○プロジェクトメソッドの採用
(5) ○討論法、協議法の採用
(6) ○為すことによって学ばせる
(7) ○作業―学習―遊戯」のプラン
(8) 形式的学級教授の縮滅乃至廃止
(9) ○内的動機に基礎を置く
(10) ○支配しない(教師は案内し指導するにとどまる)
(11) 学校の生活化
(12) 校舎の改革(学級教授が廃されるので校舎の形態が変わる。図書館、実験室、作業工場の結合が校舎である)
(13) 学校を社会生活の中心とする
(14) ○児童生徒の興味を尊重する
(15) ○論理方法よりは心理的方法
(16) ○自由訓練(強制を避ける)
(17) ○課外活動(エキストラカリキュラムを本体化する)
(18) 教科課程観の改修
(19) 知能検査の採用
(20) 学力測定の採用
(21) 下級中学制の採用
(22) ○職業による教育の重視(職業のための教育ではない)
(23) ○社会心の涵養
(24) ○国際心の涵養
(25) ○経験の改造を教育目標とする
以上の通り17/25はスカウト教育が既にこれを実施している。私は最後の“25経験の改造を教育目標とする”という意味についてその説明を引用しよう。
---新教育では教育を極めて広く考える。教育は生活そのもののごとく広く大きいのである。教育されるものも個人にとどまらない。集団や社会の生長が考慮される。教育とは単なる心の訓練でなく、智識の伝達でなく、過去の繰り返しでもなく、将来への単純なる準備でもなく、性格破産者の矯正を意味するものでもない。個人的なまた社会的な経験を改造し再組織し変形するにある。というのが新教育における教育の考え方である---。とこれ即ち、デューイの経験改造論から来ている。
以上のとおりスカウト教育は、正に新教育の要素を沢山備えている。そこで学校教育が新教育になったとき、それはスカウトとダブルことになるから、その時もはやスカウト教育は不要になるのではないか? と速断する先生方が出るかも知れない。だが、私はやはり二本建ては必ず存在しなければならぬと考える。それどころか、学校教育が、新教育の途を前導すればするほどスカウト教育は必要度を増すのだと思う。それは青少年の人格陶治(教育)において、まさになさねばならぬ領域と量の拡大は、到底学校教育だけでは時間的空間的に賄い切れぬからである。
かくて“Once a Scout always a Scout ”という言葉は真理であって、スカウティングそのものも未来永劫不減である。
(昭和25年2月25日 記)