日本ボーイスカウト茨城県連盟
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資料センター

●目次

●随想(1)

 スカウト象にさわる

 スカウティングと社会性

 偉大なる自発活動

 スカウティングのXとY

 ローバーリングは電源である

 隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 初夏随想・指導者のタイプ

 忘れられない話(その1)

 忘れられない話(その2)

 

●スカウティングの基本

 奉仕とは

 標語について

 何に備え何を備えるか

 新しい時代に生きるスカウト教育

 自発活動(その1)人に対する忠節をつくすのか?

 自発活動(その2)日本人に欠けているもの

 継続と成功

 智 仁 勇

 

●ちかい・おきて

 私見:ちかいの意義

 私見:ちかいの組立(1)

 私見:ちかいの組立(2)

 名誉とは

 名誉について

 “ちかい”のリファームについて

 幸福の道について

 スカウトの精神訓練

 B-Pはおきて第4をこのように実行した

 新春自戒 ジャンボリー

 自分に敗けない

 

●プログラム

 少年がBSから逃げていないか

 強制ということについて

 自分のプログラムというものをよく考えよう

 スカウト百までゲーム忘れぬ

 冬のスカウティングとプログラム

 B-P祭にあたって

 チーフ・スカウト最後のメッセージ

 スカウトソングについて

 1956年の意義・ジャンボリー

 

●進歩制度と班制度

 バッジシステムの魅力

 技能章について

 技能章におもう

 自発活動ということ

 自己研修とチームワーク

 班活動について

 班活動の吟味

 ハイキングとパトローリングと班

 隊訓練の性格について

 班別制度の盲点を突く

 コミッショナーの質問

 グンティウカスを戒める文

 

●指導者道

 指導者とは

 ボエンの意義

 真夏の夜の夢

 万年隊長論

 万年隊長のことについて

 指導者のタイプについて

 ユーモアの功徳

 跳び越えるべきもの

 よく考えてみよう

 

●信仰問題

 私の眼をみはらせた5名

 スカウトと宗教

 スカウティングと宗教

 神仏の問題

 

●随想(2)

 GIVE AND TAKEということについて

 信義について

 昭和27年の念頭に考える

 世相とスカウティング

 道徳教育愚見

 「勝」と「克」 (1)

 「勝」と「克」 (2)

 

●中村 知先生スカウティング随想

 はじめに

 私とスカウティング

 盟友 中村 知の 後世にのこしたものは

 あとがき

 中村先生ついに逝く

 ingとは積み重ね

 主治医としての思い出 高山芳雄

 医師に対する信頼

 病床の横顔

 スカウティングに就いての一考察

 スカウティングは,プロゼクチングだ。

 

◆冊子版(A4縦)全77ページ

 1.9MB

 

◆スカウト象にさわる

 

 

 「象でなく、像ではないのですか?」

 「まァ、だまっておしまいまで読みなさい。結局同じことになるけど…。」

 群盲触象---てな漢語がある。沢山の盲人が象にさわって、勝手な観察と推理をくだし、それぞれ自分が正しく、他人の説はマチガイだといい張る。けれども、誰か、その全貌をつかみ得ただろうか? という、ボエンである。

 スカウト象---この象(像)の名を「スカウト」という。命名者はB-Pである。B-Pが描いた理想人の像である。幻像である。

 「ははァ、足が4本あるネ。」

 「それはネ…CS、BS、SS、RSという4本ですよ。」

 「いや、それはネエ君、人格、健康、技能、奉仕の4本柱ですよ。」

 これは理論派の盲人。

 「この長い鼻ネ。これで食べたり、飲んだり、物をつかんだり、イキをしたり、ポンプになったり、ホースになったりするそうだが、してみると、スカウト象というものは、一般コドモ大衆に公開して、いっそうのことコドモ会にしてしまう方が、利用価値があるんじゃなかろうか?」

 「君はバカだな。この象牙の方が金になるのを知らんのか?」

 これは利用派、実利派の盲人。

 「一ペン位さわってわかるもんか。継続観察をやりなさい。」

 「僕は、和尚さんから白い象の話を聞きました。仏さまが乗るそうですネ。」

 このような、声も聞かれる。けれども、スカウト象の全貌をつかむことは中々むつかしい。隊長を何年やったとか、実修所へ何回入所したとか、所長であるとか、コミッショナーであるとか、理事長であるとか、何であるとかいうても、この象の全貌をつかんだという証明にはならない。

 将棋の升田は、九段と、王将位と、名人位の三つのタイトルを得たが、これは「実力」で勝ち得たものだ。我々は、少年に「実力」で初級、2級、1級、菊、隼、富士、をとるようすすめているくせに、指導者は果たしてご自分の実力で、理事や、コミッショナーになったであろうか?

 「実力」以外のSomething を足場として、立っているのではあるまいか? 曰く年功、曰く年齢、曰く金力、曰く社会的地位、曰く情実、曰く強引に…。

 折角つかんだ隊員を、1年か2年で逃してしまい、その補充に毎年何人かの新入者をいれて、1級以上の等級に進み、富士まで登った者は全国に20人もいない。何年たっても日本のBSは富士山の二合目か三合目あたりを登ったり降りたりしていて、それから上の方は雲で見えない。結果的に富士山の全容をよう見ず、二合目、三合目のみをもって、これ富士山なり、スカウティングなり、とわかったようなツラをしている。これが現在の段階、こう考えてみると、ウヌボレの度が、きつすぎる。下手なゲームのやり方だ。

 B-P描くところのスカウト像は、そんなヤスモノではない。安い評価をしなさんな。スカウト像は生物だから、毎年大きく伸びつつある。像と書くと無生物と思われ易いから、私は象と書いた。ニンベンは、いいかえたらウヌボレヘンだから、ない方がよい。

 本当に積みあげて出来た立派なローバースカウトよ出て来い。一体、幾人いるのか?

 年令だけのローバースなら、スカウト以外の青年の中にも居る。

 ジャンボリーのような、お祭りばかりに熱をあげるのが能じゃあるまい。事前訓練を欠いた野営大会、キャンポリー、ジャンボリーというものは、事前訓練という助走路を欠いているから飛躍がない。

 結局は、“Scouting for Boys ”をよく読んでいないため、象がつかめない。 ローランド・フィリップス著「班別制度」を読んだら、いかに、みんなが現在やっている班制が、班制の擬態であるかにびっくりするであろう。大いにハンセイ(反省)すべき点あり、勝手に理解し、我流で押しとおし、狭い視野内で速断し、想像を過信し、自分自身を高く評価しすぎると、足もとの今まで雑に積んできた煉瓦はくずれる。

 SS、RSと積みあげる頃になると、下の方がくずれる。

 私は、象の全貌がまだわからない。そう考えると、ほんまに、ゾウとする!

(昭和32年7月13日 記)

 

 

 

 

 

◆スカウティングと社会性

 

 

 ある日私は、次のような手紙をある県連の人から受けとった。それは---要するに---我々スカウトは、あまりにもコチコチになり、スカウティングにこだわって、社会と隔離していると思う。それで、社会ともっと近接する教育をするため、夏の隊キャンプを隊キャンプとしないで、「夏の村」とし、村長とか村会とかをもうけ、村の自治的様式でキャンプしている。

 それがいいかどうか、意見をききたい。---というのである。

 私は、キャンプの仕方としては、それも一つのやり方であろう。しかし、隊キャンプをやめてまで、そんなことをするとは、外道である。スカウティングのキャンプというもの、乃至は隊キャンプ本来の性格を、もっと勉強してほしい。我々は、キャンプを、キャンプのためにするんじゃなくて、スカウティングのためにするのだから、目的と方法との関係をハッキリ究明してほしい。と答えておいた。

 そして末尾に、私は---「社会性などという言葉は、善行をしない者の口にすべき言葉ではない、社会性とは換言すれば、善行性であろう。我々スカウトは、コトバでモノをいわないでオコナイ(実行)でモノをいいたいと思う。少なくとも、私は、そういう人間になりたい。」と付記したのである。

 私は、このことから、「社会性」ということについて考えさせられた。そして、スカウトたちが、社会から隔離している色々のことも考えてみた。

 ある市の、社会教育課に勤めている人で、地区コミをしている人が、スカウトはあまりにも独善的で異色すぎるから、一般に普及しないのだ。よって制服を廃止し、1隊32名以下という制限もなくし、誰でも今日からリーダーになれるような、し易いものにしたならば、コドモ会などを吸収できて大きな団体になれる。三指の礼なんていう特殊なものをやめて、ふつうの礼をしたらどうだ。---と、いうている。というので、地区コミともあろう者が、けしからんことをいう。あの男は社教屋の立場からモノをいうクセがある。社教屋としては、BSのようなものは、一般性がないと診断するらしい。---など。

 これに似たりよったりの意見が、「倍加運動」という声の下から出ているらしい。要するに「スカウティングの社会性」或いは「スカウティングと社会性」という問題になる。

 本職で一人前の人生を送る上に、スカウターとして奉仕している日本の指導者は、時間的に、世間的なツキアイをなるべくやめて、スカウトのために働くのであるから、そういうイミでの社会性というものは、スカウティングに熱心になればなるほど減少する。

 少年の場合も、スカウトの訓練に時間が別にあるわけではないから、自分で時間を作らねばならない。従って、一般の学友とのツキアイは少なくなる。その上、制服というものを着るから、ホカの者からは一種特別人扱いをされる。海外にでも派遣されようものなら、英雄扱い、または名士扱いをされよう。

 結局、何か、他の人々とちがう、あるものを感じる。または、世人に感じさせる。日本人のような人の見方をする国民には、当然の現象であろう。

 以上の文章(言葉)を、くるっと裏返してみると、社会にもスカウト性がない。または足りない---という答えが出て来る。足りないから、我々は社会に、スカウト性を植えつける先駆者として、「敢然として頂角を行く」という、ほこり、名誉、責任、自発活動、忍従、勇気、そして特異性がもりあがり、そこに同志意識、スカウト兄弟感、仲間愛、などを含むところの運動(ムーヴメント)になってしまった。B-Pの、生まれ甲斐はここにあったし、我々の生き甲斐もここにある。

 さあ、こうなると、スカウティングの側にも、社会の側にも、「不足」がある。何の不足か---といえば「吟味の不足」「反省の不足」「謙虚の不足」「認識の不足」「理解の不足」---「協力の不足」---等々。

 だが、私はそれらを超えた、もっと大きな不足を叫びたい。(スカウト側の不足ですぞ!!)それは「善行の不足」である。

 これは「奉仕の不足」以上に不足している。(私には)

 B-Pの教えのように、そして、ちかい、おきてを本当に実行し、日々の善行に励むならば、誰が狂人扱いをしたり、別人扱いをしようぞ。いうところの「社会性」などというコトバは、問題にさえならなくなる。口にする必要がなくなるから。

 「行うことによって学ぶ」(Learn by doing)という、B-Pのやり方をモトにして考えるならば、我々は「行うことによって語る」のが本命であろう。しゃべったり、書いて示したりするのは「行い」の足りない証拠で、まことにはずかしい。

(昭和32年9月19日 記)

 

 

 

 

 

◆偉大なる自発活動

 

 

 B-P祭を迎えるこの日、私は“おきて”を厳しく自分に深めねばならない。次の話は、イギリス連盟発行の“ザ・スカウト”(週刊誌)の1955年11月4日刊行の誌上に主筆のハゼルウッド氏(Rex Hajelwood )が執筆したものによる。それは僅か10才のカブ、ロバート・マックリントック少年(Robert Maclintock )の行った偉大なる自発活動ぶりについてである。1916年発生したウルフ・カブの運動は今年まさに40年を迎えるので6月16日から24日までギルウェルパークで記念行事が行われる由であるが、私はこの佳話を広く日本のスカウト兄弟に伝え、もってこの祝福の言葉にいたしたい。

1955年9月17日、ハゼルウッド氏は北部アイルランドに旅した。同夜は、Larne でのオールド・ウルブスの集会に臨席し、夜遅く45里の道をBallycastle に引き返し、80人の班長たちと会合で歌い語って1泊したのは23時20分であった。海岸であるこの地方はその夜、雨雲低くたれて恐ろしい風で海は荒れていた。翌日、朝早く一少年の勇敢な人命救助の話で皆は夢を破られた。その行動に力をかしたトメルティ(Peter Fomely)というビッコの男の話によると、---「私は防波堤の終点にある小店に立っていました。その時、波は大体50呎位の高さで防波堤を乗り越えぶちあたっていました。そして2人の男の大人と2人の少年が、波にさらわれて港の中へ流されているのを見ました。一人の少年がエビの壷をしっかり持っている。私は防波堤を大急ぎで走って救命帯の置き場へ行きました。長いロープをみつけて、その少年(その少年はギルバート・ハミル Gilbert Hamill)の方へ投げました。彼は大波のてっぺんに乗っていたところです。不幸にしてロープは流されたので、もう駄目だと思いました。すると、ロバート・マックリントック君が反対側からその大荒れの海中にとび込んだのです。ハミルをつかまえようと泳いだ。やっと彼の腕をつかまえて救命帯の方へと泳いだが、一度は腕がはなれてハミルは海中に深く沈みました。だがロバートは再び彼を捕えてとうとう救命帯まで着き、もがきにもがいてハミルの身体に救命帯をとりつけたのです。それで私と他の人とで岸へ引き上げました。岸へ上がるとロバートは、もう一人大人が助けを呼んでいるから僕はすぐひきかえす、というのです。私たちは、こんなに荒れているので行ったってもう遅い、ととめましたが彼はいうことをきかずあばれました。ボートを出すことも出来ないほどの大シケで、その上、真っ暗でした。何しろ、10才の子供でしょう。私はこんな勇敢な子供を見たことがありません。」

 Ballycastle 在住の隊長の談、そして助けられたハミル少年の感謝の言葉が載っているがこれは省略する。ロバートは、イギリスの総長から、ブロンズ・クロス(青銅十字章)を授けられた。これは自分の危険をかえりみないで人命を救ったものに与えられるものである。

 この話は、これで終わったのではない。  ロバート家では、子供は暗くならないうちに家に帰るように、というさだめがある。その晩、暗くなってもロバートが帰ってこないので、父と母とは、彼が帰ったら叱らねばならんと話し合っていた。夜8時になっても帰ってこない。8時30分に帰ってきたので両親から大いに叱られ、まっすぐ寝床にはいるよう命ぜられた。それで、彼はこの事件については一言も親にいわず神妙に床についたのであった。

 父母が、ロバートの勇敢な行為を知ったのは翌朝、近所の人々が、ロバートは元気かどうか見舞いに来てくれた時であった。恐らく親たちは、びっくり仰天してロバートのベッドへ駆けつけて、昨夜の出来事を息をはずませて尋ねたことだろうと想像される。

 ロバートは実にいい少年である。彼は、罰からのがれようとはしなかった。完全に叱られ、完全に誉められた。罰は罰、賞は賞。ハゼルウッド氏は、こう書いている。B-Pは、こういう立派な少年を世に出そうとして心血を注いだのだ。大人でも負けるロバートの偉大な自発活動よ! 私はこれを読んで、12のおきてをゆっくり口の中で唱えた。ロバート君に感謝をささげて…。

 B-P祭の劇に脚色いかが?

(昭和31年2月13日 記)

 

 

 

 

 

◆スカウティングのXとY

 

 

 XとYというとこれは二元方程式に用いる符号である。スカウティングという方程式にもXとYという二元があると思う。

 私は、Yという符号を教育訓練という符号に用いる。即ち隊長やその他の指導者はこれに当たる人である。副長以下上級班長、班長までに及ぶだろう。隊指導者は講習会、研修会そして実修所などのコースで勉強するが、これはYの勉強である。スカウティングは教育であり、訓練であり、即ちYである、ということは決して誤りでない。ゲームであるが訓練である。レクリエーションではない、と。

 カブからだんだん年令がのぼってBSになりSSになる。ここまでの段階は全てYである。彼等は世間の小学生、中学生や高校生たちと何かちがう教育訓練をうけている自分を意識し、それを誇りとし名誉としている。そういう対象の指導にあたっている指導者たちにも、普通の大人、社会人などと違ったものを自分の生活に感じる。それは決して悪いことでもなければ、まちがいでもない。ところが、今ローバースのことを考えている私には、RSもやはりYでゆくべきか? という問題が起こっている。そして、Yの部分もあることはあるけれど、いま一つのものがある。それはXだということを今考えている。即ち教育指導という求心的なものと反対の方向(反対の方向という表現は極めてデリケートである。)として遠心的なもの、これをXと名づける。ただし遠心とはいうものの、これは決してスカウティングから足を洗って外れることではない。足は依然としてスカウティングの核心についているのだ。今私がデリケートだというたのは、その点である。青年期になると、今まで辿ってきたものの逆を行ってみたい気がする。心理的にはレジスタンスである。こういう年頃にRoveringがあるのである。その意味で彼は二元方程式を解かねばならぬ。

 Xとは運動(movement)としてのスカウティングのことを私はそう表現する。即ちスカウティングは決して教育訓練のみではないということである。movementとしてのスカウティングがあるということを考えたい。換言すれば、頭初述べたようにXとYの二元であるということを。

 このXとYのバランスがとれていないとスカウティングは発展しない。日本にスカウティングが伝来して48年になるのに、これが一向に広まらない原因は、遠心力にあると私は診断する。十人が十人、百人が百人、皆が隊長になる必要はない。君たちが永年スカウティングでうけたご恩をお返しする気があれば一介のRSとしてこれを果たす道は立派にある。即ち立派な家庭人として、良き社会人として、スカウティングで得たものを遠心的に働かせて本当に、ちかいの第2、おきての第3を実行する道である。真宗で説く還相回向であり、感謝報恩の生活である。

 このmovementの在り方が本当にスカウティングをPRする道であろう。私どもは、日本のスカウティングが、年少の Cubや、 Boyあたりの年令者に偏していたため、考え方が永年、教育訓練の面(即ちY)にのみ執着してしまい、実修所に入らねばリーダーでないように思い、教育の万事をその線で割り切ろうとしていた。然るにSSからさらにRSに対象がのぼって来た今日、卆然として反省させられたのである。むしろYは、Xになる前提であり、課程であるとさえ思う。本当のスカウティングはこれからなのだ。Xなのだ?

 The enthusiastic Scout has suffered from this in the past and we have been accused of making ourselves into  peculiar people,  If we are to be able to give of our best to Scouting, we must be in close contact with community life.

「こんなことか今まで熱心なスカウトは悩んだ。我々も自分を“変人”にして来た罪を犯している。我々が全力をあげてスカウティングに尽くし得るためには、公共社会と密接な接触を持たなくてはならない。」

 これはロウオーラン氏(英国の総長)が“Plan for Rover Scout”の序文の末尾に書いた一文である。

 私自身、変人になっている。スカウト狂人といわれる人もあって中々面白い話もあるが…これも悲しいかなスカウティングが世間で特殊扱いされていることから起きている。私は日本のRoveringを築くことによってこれまでの不備を充足し、日本のスカウティングの完成を期したいと思う。

(昭和31年6月5日 記)

 

 

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