Q13:カブとビーバーはスカウトじゃないの?
Q:先日、某研修で日本連盟のトレーナーがこんなことを言い放ちました。
「基本原理の中の「スカウト運動の原理」に「神へのつとめ」「他へのつとめ」「自分へのつとめ」が明記されている。それに基づいて、スカウトの「ちかい」が設けられている。しかし、カブやビーバーの「やくそく」は2つしかない。3つあって初めてスカウトであろう。2つしかないのであれば、それは「スカウト」とは言わない」・・・・と。 どういうことなのでしょうか! (K.Y VM)
A:まず、先に言ってしまいます。それは「スカウト運動の原理」を全く理解していない大馬鹿者のトレー
ナーです。そんなトレーナーはやめてもらった方がいいかもしれません。
まず「基本原理」の冊子をよく読んでみましょう。P.9の2つめの段落に、こう書いてあります。
「スカウト運動の誕生以来、ある意味ではこれらの原理を明確に表現するための基礎的なツール(これは、理解可能で青少年の心に訴えられるもの)は、ちかいとおきてであり、これらはすべてのスカウト連盟が持っていなければならないものである。」
・・・と。
つまり、「神へのつとめ」「他へのつとめ」「自分へのつとめ」の3つのつとめについては、たまたま日本のスカウトの「ちかい」が、この3つのつとめと同じ並び方で示されているので、混同してしまいがちなのですが、あくまでこの原理を明確に表現しているのは「ちかい」と「おきて」の両方!であるわけです。決して片方ではないのです。
そう考えるならば、カブの「やくそく」と「カブ隊のさだめ」の中に、ビーバーの「やくそく」と「ビーバー隊のきまり」の両方の中に、この原理である3つのつとめが含まれていれば良いのです。
【カブの「やくそく」】
ぼく(わたし)は、
まじめにしっかりやります。
カブ隊のさだめを守ります。
【カブ隊のさだめ】
カブスカウトは、すなおであります。
カブスカウトは、自分のことを自分でします。
カブスカウトは、互いにたすけあいます。
カブスカウトは、おさないものをいたわります。
カブスカウトは、すすんでよいことをします。
【ビーバーの「やくそく」】
ぼく(わたし)は、
みんなとなかよくします。
ビーバー隊のきまりをまもります。
【ビーバー隊のきまり】
ビーバースカウトは、げんきにあそびます。
ビーバースカウトは、ものをたいせつにします。
ビーバースカウトは、よいことをします。
いかがですか、「神へのつとめ」「他へのつとめ」「自分へのつとめ」の3つともしっかりと含まれているでしょう? (3つのつとめの具体的な解釈は「基本原理」の冊子を読んでください。)
【2016.04.17 担当コミ】
Q14:WB実修所の課題研究で、指導を受けているコミッショナーから、スカウトの「おきて」と「カブ隊のさだめ」の関連を線で結べと言われました。
Q:続けての質問ですみません。WB実修所の課題研究の指導を受けている地区の某コミッショナーから、「スカウトのおきて」と「カブ隊のさだめ」を関連づけて線で結んでみろとの指示をもらいました。よくはわからないのですが、それって意味あることとは思えないのです。いかかでしょうか? (K.Y VM)
A:これも、「おきて」の本質を理解していないトレーナー、トレーニングチーム員、コミッショナーがよく陥るところです。
まず、初代理事長の二荒芳徳氏による「ちかい」→「ちかひ」→「ちか・霊」→「霊(自分の中に宿る絶対者)にちかづく」と「おきて」→「おき・て」→「おき・手」→「心の置き所の方向」と言う意味を理解するところから初めてください。(「ちーやん夜話集」を読もう)
さて、「おきて」の条文を良く読んでいくと、それは、「社会に対する自分自身の在り方」ということが分かります。「社会」とは、人と人との関わりによって形成されているところで、それは「自分」を中心において、家庭から始まって世界へと広がっていくものです。家庭、地域、県や国、海外・・・と広がるに従って、自分とそこにいる人との関係は変わっていきますね。しかし、その基本というか基盤にあるものは、「不変」である「おきて」なのです。「世界」は有限でしょうが、実質はちっぽけな自分から見れば「無限」にも等しいですね。その無限の彼方に向かっているのが「スカウトのおきて」なのです。ここでいう「世界」は人間界だけではありません。人間界を包み込むありとあらゆる物質的・精神的な「世界」を意味していると考えてください。
「スカウトのおきて」は、人間対人間の関係、つまり相対的な世界(社会)でのルール(=道徳律)でもあります。
例えば「奉仕」というもの考えたときに、良く理解していない多くのリーダーは、奉仕を「道徳」的な美徳だと捉えて、奉仕はスカウトの義務であるからしなければならないと、あたかもノルマのように捉えてしまうでしょう。
ところが、「奉仕」のホントの意味は、「つかえたてまつる」という意味で、「つかえたてまつる」の「つかえ」は、神や仏に仕えることを意味しています。「人」に仕えることではありません。また、「まつる」は、「祭る」であり、「祭る」とは絶対者を崇拝すること、そしてそれに感謝することなのです。
つまり「奉仕」とは、絶対者と人間が一体となることをいうのです。一体となって、共に宇宙の生命力のエネルギーを生かし、それを享受して、繁栄と幸福とに注ぐという行動への点火で、人間活動の始動なのです。それは信仰心を起点としているのです。(中村 知のことばから)
どんな宗教にあっても、奉仕とは、人間と絶対者との一体感に基づく行動を指しています。言うなれば、「神や仏」のチームの一員となってはたらくということでしょう。これを単に道徳的教育の面のみで解説すると、神仏不在となってしまう・・・・・・。(大阪スカウトクラブ「スカウティングの原点を探るⅩ・明確な信仰の奨励3」より)
これでスカウティングの4本柱の4つめの「奉仕」の意味が理解できたでしょうか。
さて、「ちかい」に話を戻しましょう。ちーやんは前述の「ちか霊」「おき手」から、『「スカウトのおきて」はすべて「ちかい」へと指向するのである。だから、「スカウトのおきて」は「ちかい」と一体でなければならない。なので、「おきて」の全項目は、信仰心の表れ方であると見るべきで、道徳律とみるべきではなかろう・・・』と言っています。
「スカウトのおきて」に示された8つの行動は、それは人対人の間における関係、つまり相対的な世界でのルール(道徳律)です。しかしながら、ベンチャー・ローバーという発達段階になれば、これをさらに高めて「『おきて』は信仰心の発露から来る行動」なんだよということを自覚するに至らなければなりません。「おきて」を相対世界(道徳世界)のルールであるとのみ考えるのではなく、「絶対者との『関連』を結んだ道徳以上のルールなのだ』という気づきを導きだし(またはそこに至り)、それを自覚してこそのベンチャーでありローバーといえるのでしょう。
このように、「ちかい」と「スカウトのおきて」、そして信仰心との位置づけを正しく理解しなくては、それをスカウトに伝えることはできませんね。
ちょっと脱線しますが、「スカウティングは野外活動である」と言われています。どうしてでしょうか。それは、野外で活動することで丈夫で健康な身体を作り上げることではありません。
B-Pは、スカウティングの活動の中核に「ウッドクラフト」を置きました。「ウッドクラフト」というと日本的には「木工工作」を想像してしまいがちですが、そうではなりません。
「Wood」は「森」のことであり、つまりは「大自然」のことを指す。当時、英語では日本的・東洋的な「大自然」という語がないため、「Wood」や「Jungle」といった魅力ある言い方をしたとのことです。一方「Craft」は、日本語では「技術」とありますが、B-Pは、技術だけでなくさらにそれから放出するエネルギーも含めていました。
B-Pの最後のメッセージにも、
「自然研究をすると、過去か君たちのために、この世を、美しいものやすばらしいものに満ち満ちた、楽しいところにおつくりになったことがよくわかる。」
・・・と言っています。それがなかったらウッドクラフトは単なる森の技術に終わってしまいます。この「美」と「驚異」の感得によって、そこに神の存在を信じさせ、神のはたらき、みわざを発見していくのです。
ここに、スカウティングが野外活動を重視する理由があります。
さて、話を戻します。
このように「スカウトのおきて」が広い世界に向かって、自分から発せられるもの(自発)で、それに取り組んでいくという自ら決めた(誓った)行動であることは分かったでしょう。(ここから自発活動はきているのです)
では、「カブ隊のさだめ」はどうなのでしょうか。その前に、カブスカウト隊の位置づけを見ていきましょう。 カブ隊はボーイスカウトになる準備の段階です。同様に、ビーバースカウトはカブスカウトになる準備の段階です。
ですので、教育規定7-13で「ビーバースカウトの訓育は、(中略)等を伸ばし、カブスカウトへの上進を目指すものとする」。同様に教育規定7-16では「カブスカウトの訓育は、(中略)に参加することによって、よい社会人としての基本を習得し、ボーイスカウトへの上進を目指すものとする」とあるのです。
これは、カブ隊では、よい社会人としての基本を「隊」という小さな枠組みのなかで身につけ、年代特性に合った、多種多様な活動に取り組むことで自信を持たせ、成長させて、次の段階に繋げていくよという位置づけなのです。
つまり、ボーイスカウトは、「世界に向いての一歩」を踏み出す時期と位置づけられているますが、ビーバーはより小さな「ビーバー隊」という枠のなかで、成人の力を借りて身近な目標(ビーバー隊のきまり)で心身を達成させるものであり。カブは、やはり成人の支援を受けて「カブ隊」や「組」という、2つの枠組みの中で、活動や組の運営に取り組むことで、自分の在り方と役割(カブ隊のさだめと「すじたおす」)の基本を理解し、心身を成長させていくものであると言えます。
要はビーバー→カブ→ボーイへの上進は、ホップ・ステップ・ジャンプの3段飛びのようにそれぞれが連携した大切なステップなのです。しかしながら、それぞれ段階で求めていることのベクトルは全く違っており、それぞれの成長段階で身につけるものは当然違っています(根底に流れている大きな流れは同じでしょうが)。
そして、これらをよく見ると「隊」や「組」、「指導者」や「仲間のスカウト」という、あくまでも「人間対人間」の中での「道徳律」なのです。
ですから、「おきて」と「さだめ」・「きまり」を線で結ぶことには意味を見いだせません。
さて、スカウトのちかいをたてたとき、ボーイは「第一歩」を、ベンチャーはもっと歩みを進めて、ローバーはもっともっと遠くに、そして指導者になったら、それを振り返りながら終わりなき「光の路」を確実に歩を進めていくわけです。それは、カブやビーバーと違って、そこに終わり(ゴール)はありません。
ちかいは、一生に一度しか立てることはできません。そう、この光の路を歩き始めることを自分自身の「霊」に誓うのですから。そして折あるごとにそれを確認(再認)するのです。自分の歩みを確認するために。
よく「カブ隊のさだめ」は「スカウトのおきて」をカブスカウト年代に合わせて、分かりやすくしたものだ・・・と言う方がいます。3つのつとめと「ちかい」と「おきて」という観点から遠回しに言えば、そう言えなくもないようですが、下の図をみていくと、やはり「違う」・・・な。
【2016.04.17 担当コミ】