ボーイスカウト十話(10)
「弥栄」世界に広がる
三島通陽
- 「親鸞には一人の弟子もこれなく」とは、親鸞上人が、その弟子たちにいったことばで、これは、上人は釈迦の教えを、みなに伝えているだけで、みんな釈迦の直弟子と思えるとの意である。スカウトの指導者も、これと同じで、みな同一線上に立ってパウエル卿の教えを学ぶ者どもである。これがわが国のスカウト運動の伝統である。
- しかし、またわれわれは常に二つのことを心すべしとされてきた。一つは「師を追い越すような弟子をつくれ」ということを、二つには、常に「自分の後継者を養成せよ」とのことである。
- 現に、40余年をふりかえってみると、師を追い越した弟子たちが続々と現れてきた。師のほうは、たいした指導者だと思われない人が、その弟子の何人かに、すばらしい人間ができたことだ。いまスカウト運動の中堅の指導者群は、みな少年スカウトから上がった者が大部分だが、おもしろいことは、彼らはみな、その先生よりもすぐれていることを一般が認めている。しかもその先生より偉くなった教え子が、いつまでも「先生々々」と、おいぼれた先生をしたっている姿がおもしろい。ここにスカウト教育の何かがある。
- つぎに「あとつぎ」のことだが、隊長はつぎの隊長を、各役員もそれぞれ後継者を養成し、死後、老齢、病気、転任にそなえよということである。またスカウト・ファミリィも多くなって、三代はザラ、四代目も出てきた。ここにこの運動の何か魅力があるのではないか。
- さて、ここで自分のことを申してどうかと思われようが、これが、一つのわが原則なのであえて書く。戦後スカウトが再建された時、だれか子供好きの学者の大物を総長にと私は捜していた。パウエル卿はビー・ザ・ボーイマン(おとな子供になれ)といった。そんな人はいないかと捜した。ところが再建の参謀長格の京都の中野忠八から熱意あふれる手紙を受け取った。それは全国代表の総意として、今回は輸入総長はことわる。君が引き受けよ。そしたら私は家財を売り払って上京し、本部総局長を引き受ける。しかし、君は国会議員をやめろ。政党と関係をもつこと、一票もらいあるくことは、総長だけは困るというのだ。私は当時、緑風会所属の参議院議員だった。私はそれまで総長の器にあらずと固辞しつづけていたが、意を決し、つぎの参院立候補をやめた。中野という人は、正しい人で、戦時後ヤミ食料を買わなかったので栄養失調の上に病を得て急死した。その実弟久留島秀三郎は、同志の人々の姿を見かね、兄の弔い合戦だと理事長を引き受けたのが、今日につづき、私らを追い越した奉仕者になった。いまわが国で、このごろの青少年は悪い悪いと言われる。しかし、私は外国へ行くたびに、この道のベテランから、日本少年はすばらしいとほめられどおしである。ここに考うべき問題がある・・・・・・。
- さて、最後に、日本の祝声が、世界的になった話して、この十話を終わることにしよう。
- 日本に初めて、スカウトが始まった40余年前、佐野常羽はロンドンの郊外にあるパウエル卿直伝のギルウェル指導者訓練所に学んだ時、13ヶ国の人が入所していた。所長のイルソンは、その全員に各国の「スカウトの祝声をやってみよ」といった。佐野は「イヤサカ(弥栄)」をやって、その意味はエヴァ・グローリーだが、良いことはますますよくする、失敗も禍い転じて福となすの意だというと、イルソンは喜び、発声法は日本のが一番いい、その上哲学がはいっている。日本のが一番だとして「以後このイヤサカをもって本訓練所の祝声とする」といった。それから30年たち、戦後はじめて私がここへ行ったら英国のスカウトが「イヤサカ」と迎えてくれた。ここでは戦時中も平気でこれをやっていたと聞き、私はビックリした。
- その後も続々として、この訓練所に、世界のこの道の指導者がやってきて、訓練を受けては帰る。みなこの「イヤサカ」をもらって各国に帰ってゆく。それで世界のよきリーダーは、これを知らぬ者はなくなった。
(おわり)
(スカウティング誌 '81.2 より転載)
「毎日新聞」昭和40年2月25日より3月7日まで連載。