日本ボーイスカウト茨城県連盟
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資料センター

ボーイスカウト十話(7)

 

無名スカウトと無名戦士

 

三島  通陽

 

 

 1909年の、霧に閉ざされた冬の夕暮れ、ロンドン郊外の駅に、1人の紳士が、地図と旅行カバンを持って、汽車から降りた。紳士は行く先がわらなくて困っていた。キビキビした少年が現れたので、紳士は道を訪ねた。少年は

 「私が案内しましょう」

とカバンを持ち先に歩いた。目的地についたので、紳士は、銀貨を出しチップとして少年に与えようとした。少年は

 「私はボーイスカウトです。お礼はいただきません。私に一日一善をさせてくださってありがとう」

とニッコリしてヤミに消えた。

 どの国の少年も、こんな時は喜んでチップをもらうのに、それを断り、逆に礼をいって立ち去るとは・・・・・紳士は驚いた。ボーイスカウトだから、といったが、それは何であろう。有人に聞くと、パウエル卿が昨年はじめてつくった少年運動だと答えた。紳士はボイスという有名な出版業者だった。ボーイスカウトについての書物を全部買って、米国に帰り友人と話し合い、スカウト運動が米国に発足したのは、1910年2月8日のことであった。

 15年後には、全米にこの運動がひろまりその数は100万人を越した。米国スカウトは、その功労者を表彰することによって、いろいろ考えてみると、第1は、ボイスを案内した英国少年だということになり、英国スカウト本部に頼んだり、人を派遣したりして探してもわからない。名乗ってほしいといっても出ない。それで米国側では、協議のすえ、米国スカウト功労章のバッファロー(野牛)の形と同じ銅像を作り「日々の善行を努めんとする一少年の忠実が、北米合衆国にボーイスカウト運動を起こさせた。アンノン(名の知れざる)少年のために」と書いて、贈ることになった。

 1926年6月4日、ギルウェルの森(-これはボーイスカウトのメッカであり、指導者訓練の総本山の道場-)ともいうべきところで厳粛に、贈呈式が行われた。当時の皇太子プリンス・オブ・ウェールズがスカウト制服で受領したが、その時、たまたまギルウェルに学んでいた日本人の佐野常羽が立ち会った。その銅像は、今でもギルウェルにある。

 つぎに1951年、わが国ボーイスカウトが再建後、初めて世界会議に出席の帰途、私は米国に回り、本部をたずねて、わが再建への助力の礼をのべた。すると話を終わらぬうち、ジャック博士(米国スカウト総局長)は「三島さん、お礼はこっちで申したい」と話したのがこのアンノウン・ソールジャーの話である。

 太平洋戦争の末期のころ、南太平洋の、小さい島で、日米両軍が、死闘を繰り返していた時、重傷で倒れた米兵の目に、一人の日本兵が銃剣で突っ込んでくるのが見えた。重傷で動けず、目を閉じたら、気を失ってしまった。

 やがて気づくと、日本兵はおらず、側に紙切れがあった。米国赤十字に助けられてから手紙を読むと「私は君を刺そうとした日本兵だ。気味が三指礼をしているのを見て、私も子供の時、スカウトだったことを思い出した。何で君を殺せよう。傷は応急手当をした。グッド・ラック」と英語で書いてあった。その米兵はスカウトだったので、死せんとするにあたり、無意識に三指礼をしていたのである。ジャックはこの話を日本人に聞かせたら怒るかと聞いた。私はそんなことはない。日本武士道は、戦闘力を失った敵にむごいことをするなといわれ、また敵ながらあっぱれという言葉もある。双方の戦士にこの言葉が与えられるだろうといった。ジャックの求めで、帰国後この戦士を捜したが、未だに見あたらぬ。戦士したのであろうか。ジャックもさきごろなくなった。しかしこの無名戦士の話は長く消えぬであろう。

(スカウティング誌 '80.11 より転載)

 

(スカウティング誌 '80.11より転載)