日本ボーイスカウト茨城県連盟
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資料センター

ボーイスカウト十話(1)

 

天皇陛下

 

三島  通陽

 

 

 日本のボーイスカウト運動の40余年の歴史をふりかえってみると、一方はいろいろの人々から恩恵を受けたことをけっして忘れてはならぬが、また一方には、様々な方面からの迫害も受けた。その最たるものは、軍部の硬派で、スカウト運動の国際性をきらって、ついに政府をして解散を命じさせた。これらの苦難のなかで、これまで成長した大きな理由は、まず創始者ベーデン-パウエル卿の天才的な、そして魅力的な教育法と、それに魅せられた多くの人々の信念的な協力一致であるとでもいえようか。

 では、この運動がどうして日本に伝えられ、そしておこったか。

 天皇陛下はお若いころ、よく側近の人々に「わが国のボーイスカウト運動に火をつけたのはわたしだよ」と冗談のように、おっしゃったそうだ。

 この話を伝え聞いた当時、われわれはこおどりして喜び、公開の席などで、これを言ったりすると、当時のやかましやの先達(せんだつ)佐野常羽に「袞龍(こんりょう)の袖(そで)にすがって、この運動をひろげようとは恐懼(きょうく)の至りで・・・」てなことでしかりとばされて、これは禁辞となっていた。が、陛下のこのご冗談は、まんざら火のないことではなかったのである。

 陛下が皇太子でご渡英になったのは、大正10年で、その5月17日にベーデン-パウエル卿を謁見(えっけん)された。卿はスカウト精神と、その教育法についてお話し申し上げたが、なかでも彼は、スカウト教育は、人に信頼される人間をつくること、その精神の究極の目的は、世界平和にあることを強調し、また彼が日本精神に心から傾倒していること、それを取り入れたコトを御礼もうしたいといった。げんに卿の多くの著書の中には、いたるところで日本精神をほめている。

 そして、殿下は21日には、エジンバラ市のスカウトラリー(集会)にお出になった。

 殿下の、この時のおことばを、当時の毎日新聞社出版の「御外遊記」(二荒・沢田両氏共著)の中から抜粋すると---(原文のまま)

 「・・・・・予ハ斯ノ如ク美シキ精神ヲ保持シタル本運動ガ、当然収ムベキアラユル成功ヲカチ得ルコトヲ切ニ祈ルト、最近日本ニ於イテ同ジ目的ヲ以テ起コリタル少年団運動ガ、時ヲ逐ウテ、今日此所ニ見ルガ如キ進歩ノ域ニ達シ、此運動ノ目的トスル貴キ使命ヲ実現スルニ協力センコト望ムモノナリ」

 このおことばを、はるかに日本で聞いたわれわれは奮起して、その翌年4月13日に少年団日本連盟が発足したのだから、このおことばで火がつけられた、とは冗談以上の真実である。

 この時、ベーデン-パウエル卿は、この殿下のおことばに感激し、ボーイスカウトの最高功労章、シルバー・ウルフ章を、殿下に贈呈した。これは日本人として、いや東洋で第1号の贈呈であった。ところが、この功労章は、皇居の戦災で焼かれてしまった。戦後それを伝え聞いたパウエル未亡人や英国の古いスカウト指導者たちは、これを悲しんで、早速再交付してきた。

 戦後、進駐軍内のスカウト出身者の助けで、他の国際団体にさきがけて、日本ボーイスカウトは再建された。

 その再建記念の大会は、皇居前広場で行われ、昭和22年9月24日には、当時占領下のドウリットル公園(日比谷公園にこんな名をつけるとはGHQの失政だが)で、ラリーが行われ、天皇、皇后両陛下と、皇太子、義宮両殿下がお出になり、陛下は、ほんとうにおうれしそうだった。久しぶりにユニホームを着て、元気いっぱい行動する日本少年の姿をニコニコとご覧になって、陛下は「よかったね。こんなに美しい平和な子供の運動が、こんなに早く再建できて、ほんとうに、よかったね・・・・・・」とお顔をほころばせてお喜びになってのおことばに、私たちは、40年の苦労も吹きとんだ。そして、そばにそれを聞いた白髪の年寄りの指導者たちの中には、そっと涙をふいたものが、何人かあった。

 

(スカウティング誌 '80.4 より転載)