日本ボーイスカウト茨城県連盟
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●目次

●随想(1)

 スカウト象にさわる

 スカウティングと社会性

 偉大なる自発活動

 スカウティングのXとY

 ローバーリングは電源である

 隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 初夏随想・指導者のタイプ

 忘れられない話(その1)

 忘れられない話(その2)

 

●スカウティングの基本

 奉仕とは

 標語について

 何に備え何を備えるか

 新しい時代に生きるスカウト教育

 自発活動(その1)人に対する忠節をつくすのか?

 自発活動(その2)日本人に欠けているもの

 継続と成功

 智 仁 勇

 

●ちかい・おきて

 私見:ちかいの意義

 私見:ちかいの組立(1)

 私見:ちかいの組立(2)

 名誉とは

 名誉について

 “ちかい”のリファームについて

 幸福の道について

 スカウトの精神訓練

 B-Pはおきて第4をこのように実行した

 新春自戒 ジャンボリー

 自分に敗けない

 

●プログラム

 少年がBSから逃げていないか

 強制ということについて

 自分のプログラムというものをよく考えよう

 スカウト百までゲーム忘れぬ

 冬のスカウティングとプログラム

 B-P祭にあたって

 チーフ・スカウト最後のメッセージ

 スカウトソングについて

 1956年の意義・ジャンボリー

 

●進歩制度と班制度

 バッジシステムの魅力

 技能章について

 技能章におもう

 自発活動ということ

 自己研修とチームワーク

 班活動について

 班活動の吟味

 ハイキングとパトローリングと班

 隊訓練の性格について

 班別制度の盲点を突く

 コミッショナーの質問

 グンティウカスを戒める文

 

●指導者道

 指導者とは

 ボエンの意義

 真夏の夜の夢

 万年隊長論

 万年隊長のことについて

 指導者のタイプについて

 ユーモアの功徳

 跳び越えるべきもの

 よく考えてみよう

 

●信仰問題

 私の眼をみはらせた5名

 スカウトと宗教

 スカウティングと宗教

 神仏の問題

 

●随想(2)

 GIVE AND TAKEということについて

 信義について

 昭和27年の念頭に考える

 世相とスカウティング

 道徳教育愚見

 「勝」と「克」 (1)

 「勝」と「克」 (2)

 

●中村 知先生スカウティング随想

 はじめに

 私とスカウティング

 盟友 中村 知の 後世にのこしたものは

 あとがき

 中村先生ついに逝く

 ingとは積み重ね

 主治医としての思い出 高山 芳雄

 医師に対する信頼

 病床の横顔

 スカウティングに就いての一考察

 スカウティングは,プロゼクチングだ。

 

中村 知先生スカウティング随想

 

 一つ松,幾代か歴ぬる吹く風の

    声の清(す)めるは年深みかも  市原 王 万葉集1042

 

         私はこの歌が心にしみるほどすきである。

         こういう老松になりたいと思う。

           那須にいた頃,特にその感を深くし,この歌を作曲した。

                                      中村 知

 

 

 

 

 

 

■はじめに

 

 中村先生は,昭和25年の暮れから公務として,ボーイスカウトの研究や,資料の翻訳に専念して居られました。その間に,各地の親しいスカウターの要請に応じて,余暇を見つけては,その時々の思いを書き送られました。あるものは県連の機関紙に,あるものは,地区の機関紙に掲載せられて,当時の指導者から,夜話(キャンプ・ファイヤー・ヤーン)として活用され,また,読物としてスカウト達にも深い感銘を与えました。

 しかしその後先生の健康がすぐれず,続けて書いていただけなくなり,また昔のものは,散逸したり,書架の隅に埋もれてしまっていますので,せめて一冊にまとめて,リーダー達が,好きな時に読めるようにしたいとの希望が強くなりました。

 そこでなんとう誌さきがけ誌の生みの親である松本石翆,住谷豊両氏の努力で,それらの機関紙に出た文が整理され,発行が企画されました。全部を通読した結果,現在でもリーダーの参考になるものも沢山ありましたので,関係者だけでなく,出来るだけ多くの人人に読んでいただきたいと考え,「夜話集」として印刷発行することにしました。

 ここに集録されたものは,先生が日本連盟を代表し,見解や研究結果を発表されたものではありません。その時に応じて,私見を書かれたものであります。また,先生にしても,10年20年後の現在も全く同じ考えでないことが多々あると思います。

 しかし,われわれには,中村先生ご自身のスカウティングの足跡を見る思いがするし,その精究教理に骨身を削ったお姿に,新らたに敬服の念を覚えます。

 この本によって,若いリーダー達が,スカウティングというものを,なおよく知ってくれるとともに,今後自分ながらの研究を進めるための指針にして頂けたら,幸甚に思います。

 なお,ここに集録された文は,当用漢字や現代かなづかいにないような先生独得のことばや表現法を交えて書かれてありますが,中村先生の妙味を生かす意味で,大部分をそのままにしました。よろしくご判読下さるよう念のため申し添えます。

ちーやん夜話集刊行会 宮 本 守 雄

村 田 正 雄

松 本 石 翆

住 谷   豊

 

 

 

 

 

 

◆私とスカウティング

 

1908年1月24日(明治41年)

 英国のバークンヘッドにおいてボーイスカウトは創立式をあげた。創始者は南阿戦役の英雄,陸軍中条ロバート・ベーデン・パウエル(1957~1941)目的は英国の次代の少年をたたきなおして,大英帝国の危機を救うにあった。そのため軍事訓練だという批判もあったが,教育界は新教育だと見た。それは感覚訓練を土台とし自発自啓,観察力と推理力を通しての人間形成で,大自然の中に教育の場を見出したルソーの教育思潮の20世紀版的展開だと見られたからである。

 

1908年6月19日(明治41年)

   広島商業師範学校長北条時敬先生が万国道徳会議日本代表として渡英の際,文部大臣牧野伸顕氏は,

  ボーイスカウトを研究してくるよう北条氏に委嘱した。

1909年9月

   北条校長は,ボーイスカウトに関する出版物,用具,服装その他を持って帰朝。報告したが文部大臣

  がかわっていて政府はその報告を受け取らなかった(その内閣の逓信大臣に後藤新平氏がいたのだが,

  そのことを知らなかった)北条校長は広島において10月17日,将来品を展示した。付属中学校だった私

  はそれを見た。この将来品は後年,鹿児島市が譲り受けたが空襲のため焼失した。ただ1910年版の

  "Scouting For Boys " だけは北条氏が日本青年館に寄贈したため残っている。

   付属中学校では1907年4月,日本最初の校外生活指導のため通学区域を元として14組の町組を作り生

  徒の動静,風紀を取り締まった。

   1909年4月,町組を校外団と改め,生徒の自治にまかせ,東西中南北,第一,第二寄宿舎の7団とし

  た。そのうち,北部校外団は「城東団」と称し,北条校長の示唆により,班別制度をとってボーイスカ

  ウトのやり方を採用した。

   団員数は5年生9,4年生5,3年生3,2年生5,1年生8,合計30人,5年渡辺 寛(現存,医

  博)が団長。私は4年生で班長だった。「城東団歌」は私の作詞。

北条校長は

1913年, 東北帝大総長(初代)に

1917年, 学習院長になられたが広島,愛媛,宮城県の教員たちにボーイスカウトについて数回講演さ

  れた。(西田幾多郎博士編「 廓堂片影」に講演の要旨が集録してある)。

1923年(大正12年)

   私は大阪府立高津中学の歴史科教員となったが,生徒の希望によって校友会にスカウト部を作り,そ

  の団長となって1939年(昭和14年)まで在任した。

   その校長三沢先生は,私の母校広島高師教授,兼付属中学の主事だった。時に東の伊藤(長七,東京

  5中校長)西の三沢とうたわれた自由教育の双璧であった。しかも三沢先生は米国留学中,ボーイスカ

  ウトの隊長を経験されていたので,全国唯一,公立中学校ボーイスカウトとして私を激励された。

1939年(昭和14年)

   私は日本連盟の職員となり,その後大戦のための大日本青少年団に吸収統合されたが,戦後元に復し

  今日に至る。

 

中村 知   なかむら さとる

       筆名 東野通義

       愛称 ちーやん

1893年2月21日

   愛媛県松山市に生まれる。(父は福島県人,陸軍士官,母は広島県人)

1906~1911年

   広島高等師範学校(現広島大学)付属中学校在学中,1907年英国に起こったボーイスカウトにつき校

  長北条時敬先生の視察談を聞き感動し、生徒同志30人と「城東団」を結成し,班長となる。時に1909年

  11月。この団は1930年まで続いた。

1907年3月

   東洋協会植民専門学校(現拓殖大学)朝鮮語学科卒業。朝鮮研究を志し,朝鮮の農山村に生活。

  (1909年9月)

1922年3月

   京都帝国大学文学部史学科東洋史(特に朝鮮史)選科修了。開講された大阪外語に在職1年,眼疾の

  ため学界に見切りをつける。

1923年3月~1939年9月

   大阪府立高津中学校(現高津高校)歴史科教諭。在職17年中,名校長三沢糾先生の提唱によるクラ

  ブ活動の一環として「スカウト部」を創設,公立中学校唯一のボーイスカウト隊誕生し、1924~1939年

  その隊長となる。

   その間1929年ボーイスカウト第3回世界ジャンボリー日本派遣団員に選ばれ,英国に出向きかねてギ

  ルウェルパークの国際指導者訓練コース2種類を修了。

1939年9月

   少年団日本連盟(現ボーイスカウト日本連盟)教務部長となり指導者養成を担当。

1941年1月

   青少年団体統合により大日本青少年団に吸収され,少年部課長,錬成局少年部長となり終戦に至る。

1946年

   ボーイスカウト再建のため同志と運動。

1949年6月

   新設の広島市立児童図書館長となる。

1950年11月

   ボーイスカウト日本連盟那須野営場開設により野営場長となる。

1955年11月

   ボーイスカウト日本連盟事務局奉仕部長となる。

1964年4月

   ボーイスカウト日本連盟嘱託となり,現在に至る。

1966年11月

   永年にわたり社会教育に従事した功績により勲5等瑞宝章を受ける。

 

 

 

 

 

◆盟友 中村 知の 後世にのこしたものは

 

 

 ベーデン・パウエル卿が英国で,ボーイスカウトを始めたのは,今から55年前の事である。その頃,日本の文部大臣は牧野伸顕で,よく英書を読む人だったので,すぐこれを知り,その進んだ青少年の社会教育法に目をつけた。それで,時の広島高師(今の広島大学)の校長の北条時敬が,英国に道徳会議の代表として出張するにあたり,この調査をもあわせて依頼した。北条はこの前年に英国で発足したこの教育訓練を見て感心し,その文献や用具類を揃えて持ち帰ったが,その直後内閣が変わったので,文部省では,折角のこのよき材料をもてあまし,これを北条に渡した。

 そこで北条は,彼の校長をしていた広島高師の付属中学校の生徒にこれを伝え,6個隊を作ってボーイスカウトのような訓練を試みたのであったが,たまたまその一つの城東団という隊の中に,わが中村知少年がいたのであった。彼は子供心にこの野外生活の訓練に大きな魅力を感じ,恩師北条の精神指導にうたれた。そしてこれが彼をして,一生この運動に心身を捧げしめるに到ったのである。

 中村知はその後拓大を卒業し,さらに京大で東洋史学を専攻し,大阪府立高津中学(現高津高校)に教鞭を執った。

 その頃,わが国にも,少年団運動が起こった。大正3年頃,京都には中野忠八が,まず少年団を作ってこの ベ卿のボーイスカウト式の訓練をはじめたのに,彼もおおいに興味を感じて,中野とも親しく交わり,連絡もとって,彼の高津中学の生徒の中の希望者を集めてボーイスカウトを作り,彼はその隊長として,スカウトの訓練を実施した。

 大正11年には,少年団日本連盟(第1代総長,後藤新平)が結成されたので,彼は喜んで他の同志とともにこの傘下にはいり,特に佐野常羽に師事した。この佐野は,英国で親しくベ卿の知遇を得て教えを受け,またボーイスカウトの訓練の本山ともいうべき,ギルウェル実修所に学んで来た人で,大正14年には,富士の山中湖畔で,日本ではじめての指導者実修所を開いた。彼は勇んでその第一期生となって修行し,佐野の人格指導に傾倒した。その後彼は佐野にも愛され,ずっと彼の教えを受け,1929年には英国で世界ジャンボリーが開かれたので,佐野に従って渡英して参加,続いてギルウェル実修所にも学んだ。それで彼は,自身を得,ますますこの道に精進し,一方に高津中学ボーイスカウトの実際指導をしたり,大阪連盟の改造にあたり,一方では佐野に従ってますますこの道の指導者養成面の指導と研究に没頭した。

 彼には少年指導に必要なユーモアがある。それでなかなか話題をまいたものだが,その一つを紹介すると,世界ジャンボリーへ行った時,豪雨がきてキャンプの道がドロンコになったので,彼は日本からゲームのためにもって来た竹馬に乗って悠々かっ歩して,世界の少年達を驚かせたが,佐野からは,その茶目っけを叱られたそうだ。また,彼は詩と音楽を勉強して,沢山のよいスカウト・ソングを作詞,作曲した。どれも,彼の体験からほとばしり出たもので,スカウト気分がよくあふれた曲だが,その中にはなかなかのユーモアのきいたものもあって,少年達に愛唱されている。

 戦後,わがスカウト運動が再建されるや,指導面に円熟した彼は,本部の専従指導者となって実際指導を行い,那須の常設野営場長を5年務めたが,その間に不幸眼底出血で倒れた。それでもう荒行はできなくなったが,その不自由な眼で,彼は天眼鏡を使って,ベ卿の”SCOUTING FOR BOYS"などの宝典を次々と訳出して,日本スカウト道にバイブル的な光を与えた。もう一つ彼の高津時代の隊員達は,今になって皆立派に成長し,あるいは能力ある外交官,学者,技師長などになって活躍しているが,その中の数人は,また現在の日本スカウト運動の最有力な中堅人物となっている。われわれは,「弟子を自分より偉くつくる」ことを誇りとしているが,彼こそ身を持ってその範を示した男である。

 第一代後藤総長は「金を残したり,仕事を残したりするより,人を残して一生を終わるこそ上の上たるもの」といわれたが,彼こそこの言葉を実行して一生を飾る人である。

                                昭和37年7月記

                    総長 三 島 通 陽

 

 

 

 

 

 

● あ と が き

 

 中村知先生の「ちーやん夜話集」発行の思いたちは,昭和37年「なんとう誌」65号の編集後記に書かれました。この企画については,全国の同志からリーダーへの指針であり,警鐘でもあるとして,大きな期待を持たれ,激励の手紙が各地から届き,故三島総長からも掲載用の一文を拝受いたしました。

 中村先生からは「私の文を一冊にするならば,いったい何という表題にしたらよかろうかーーーと勝手に考えること一週間。<流転の野帳>と言う名を考えました。<流転>とは,私の仏教的目ざめ,<野帳>とはスカウト用語,この二つの咬みあわせです」といってこられました。

 それから7年間,いろいろな関係でこの話は立消えになっていたかのように見えますが,火の気はどこかでくすぶり続けていました。ふと一本の柴に小さな焔が燃えあがり,それが広がりはじめ,ついにある団のローバーたちが手分けして原文から原稿用紙に書き写す作業が始められました。膨大な原稿用紙の束が完成すると,本格的な作業に移りました。

 刊行会の発足,資金面の事,内容の検討,分類整理など,めまぐるしい作業が,夏の第5回日本ジャンボリーが済み,万国博覧会が終了してホッとした気分になるいとまもなく進められました。刊行会は,あちらの家,こちらの事務所と再三再四開かれ,表題も「流転の野帳」「ちーやん随想集」から「ちーやん夜話集」となり,「中村先生スカウティング随想」という副題をつけることになりました。

 内容も昭和25年から43年に至る103編にもおよんでいましたが,約20年間にわたって書かれたので,中には次代の変遷とともに,制度の改正があり,また当時の論説主帳が現在実現されているものもあって,次の65編だけを集録いたしました。

  大阪BSクラブ    「やまびこ」から  7編

  福岡県連盟機関紙

      (住谷 豊編集)  「さきがけ」から  11編

  大阪南東地区機関誌

    (住谷 豊編集)  「なんとう」から   43編

  北海道連盟機関誌

      (藤井学子編集)  「パイオニア」から  4編

 またこの冊子の発行にあたって,日本連盟総コミッショナー渡辺昭先生をはじめ,先達の山口季次郎先生その他,多くの方々,また大阪63団のローバー諸君などのご声援,ご援助に対して,心から感謝の意を捧げます。

 中村知先生のスカウティングに対する情熱の一端に触れられることによつて,全国の指導者のみなさんが,少しでもよりよいスカウティングを展開されることを期待してやまない次第であります。

 

昭和45年12月

 

             第5回日本ジャンボリーおよび大阪での万国博覧会を終えた年を記念して

             ちーやん夜話集刊行会

 

                             ちーやん夜話集  頒価400円

                             昭和45年12月10日発行

                             発行者  ちーやん夜話集刊行会

                             発行所  大阪市東住吉区***

                                          松本 石翆

 

 

 

 

 

 

■中村先生ついに逝く

昭和47年3月1日午前7時40分

 

 昭和47年4月18日発行   「はんなん 17号」

 

 ちーやんという愛称で全国のスカウターから敬愛された中村知先生が,病床5年,79才の長寿ではあったが,ついに他界された。スカウト運動のためには,誠におしいお方を亡くして,痛恨の極みであり,もっともっと長命され,われわれスカウターを導いて頂きたかったと,全国の同志の声が聞こえるようです。

 本誌に貴重なページをさいて中村先生を偲ぶのは,因縁浅からざるものがあるからです。私と中村先生とは,昭和24年那須野の特修以来23年間,師とも父とも仰ぎ,先生の書かれる随想記を,福岡の「さきがけ」,大阪の「なんとう」と,私の編集するスカウト誌に次々と掲載し,先生のスカウティングに対する御高見を,私がスカウターに伝える役目をしてきたという関係で,この「はんなん」誌にも,続いて番外編として再掲しているからです。

 先生から37.6.3付けの手紙に「私の拙い稿を載せて頂き,ある一部からはお叱りをうけましたが,私としては半分研究発表,半分は遺言みたいなつもりで筆をとってきました」と書いてあります。

 20数年前,私もまだ若かった頃,先生の下で日本で最初の実修所を福岡でやり,「1325,右に独立樹」と大きな声でハイクの先頭にたたれた元気な姿を思いだします。今の若い指導者は,中村先生をご存知ないが,「ちーやん夜話集」を読まれ,先生のけいがいに接したつもりで,正しいスカウティングに取り組んで頂きたい。そして先生がおられたことを,日本のスカウト運動の歴史に残すために,このページをつくりましたことをおゆるしねがいます。

(阪南地区委員長 住谷 豊)

 

 

 

 

 

◆ingとは積み重ね

 

 Scouting の ing は,英文法上では無論「進行形」と名づけ,『スカウトのことを「なしつつある」』という表現である。「いつもいつも」「今の今も」,「スカウト」である以上,いつもスカウティングである。

 私は最近ある動機から,この ing を進行形以外に,「つみかさね」と解する気持ちが濃くなった。

 その動機というのは,去る11月3日(※昭和33年),東京で行われた,凡太平洋ジャンボリー派遣スカウトの,選抜の面接に上京してきた26人のスカウトの中に,親子2代にわたるスカウトを見出したことに発する。しかもその2人は,父を亡くしたた者で,その父は両方とも日連から鳩章を授けられた功労者であった。スカウティングという,広大にして終局のない永遠の路で,父は途中に於てあえなくたおれ,そのバトンはその息子によって継がれて進行しているのだ! 私は,この進行を,単に進行とのみ考えず,「つみかさね」と考えるようになった。

 ただ,進行するだけでは,横だけの運動である。これを「つみかさね」と見るとき,縦の運動となる。換言すれば,時間的進行だけでなく,「そのモノ自体,実質」の成長進歩を私は考えたいのである。

 「私は30年も,ボーイスカウト運動をやっています」ということには,時間的の進行を示すが,果して彼の30年間の修行は,彼のスカウティングの実質を,とれだけ成長させたか? これは時間とは別のモノであるはず。 即ち,「つみあげ」「つみかさね」が足らなかったら,実質には30年以下...の物と大差ないであろう。

 

 スカウティング創始以来,ここに51年,やがて52年になるので,親子2代にわたるスカウトは,もうザラにある。今や,祖父,父,孫の3代にわたる例が,日本にもぼちぼち出てきた。

 こうして永世にわたって積み重ねられてゆく。これぞ Scouting である。「つみかさね」なくて,何の Scouting ぞや!

 この点でもB-P一家は,模範を示している。B-Pのお孫さんは,スカウトである。

 私は,亡くなったある1人の父スカウトが,今,私の目の前で,テストの答案を書いている子スカウトと大体同じ年頃の時の,同じような考査の時の姿を追憶して,深い感慨にうたれた。

 その夜,仕事をおえて帰宅してみると,この7月末に生まれた私の孫が,宇都宮から来ているのを知った。

 これが,私の3代目の第1号である。私のところの3倍化運動の出発なのだ。

(昭和33年11月13日 記)

 

 

 

 

 

■主治医としての思い出

高山 芳雄

 

 最後のご様子

 昭和47年3月1日早朝7時30分,居間の電話が鳴り響いた。中村先生の奥様からである。先生が吐かれたとのこと。悪い予感がする。往診鞄を受けとるや走った。走った。看護婦も走った。

 部屋にかけ上がってみると,やっぱりそうだ。白ろうのようなお顔,夢中で注射,「お父さん,お父さん,苦しいですか」との奥様の叫びに,言葉にならぬ声で応えられた気がする。

 また注射,急いで手を先生のお腹にあててみると,いつもの脈うつ大動脈瘤が触れない。破裂だ,万事休す。心臓の博動も停止した。「奥様,ご最後です。残念です」 ちょうど午前7時40分でした。奥様,令息勝宣君は涙と共に合掌しながら,ガックリと肩をおとされた。

 仰げば頭側に接する書棚,その手前隣の仏壇,先祖のご位牌,御両親の写真,向こう隣に,B-P卿の写真,どうか先生を温かく向かえてあげてください。と手をあわせて,おねがいした。

 

 

 

 

 

 

■医師に対する信頼

 

 昭和34年9月,先生の眼底出血,動脈硬化症の治療を依頼され,私の胎盤療法をお受けになった。ちーやん夜話集83頁に,智・仁・勇の題のもとに,当時のことを書いておられる。

 以来満13年間,私は主治医として先生にお仕えした。

 顧みれば13年間の月日,先生と奥様は,この私を主治医として信頼し続けて下さった。心筋硬塞のとき,東京女子医大に入院されたのは,私からお願いしてのことであった。

 13年間の闘病生活で,このように一人の医師を信頼し続けるということは,容易にできることではない。しかも家賃の高い都心部を離れたら,と勧めた方もあったが,あえて私の近くに辛抱して下さったことを思うと,先生の奥様のお人柄,スカウトスピリットによるものと,医師としては冥利に尽きることであって,私はいよいよ先生の寿命の一日も長からんことを祈りつつ,お守りしたのであった。

 

 

 

 

 

■病床の横顔

 

 「スカウティングとは,どのような境遇の中でも,たとえ病床にあっても,”ちかい・おきて”を守り,人格・健康・技能・奉仕の四本柱に精進しつつ,与えられた任務(スカウター,所帯主,患者・・・としての)を完うすることですよ,ねえー」と,私に語られたことがあったが,先生はその通りを実行された。

 先生はかねて不平というものを余り言われなかった。B-P卿の教えのように,明るい面を見続けられ,軽妙なユーモアでご家族の看護にもよく応えられた。

 亡くなられる8日前の誕生日,2月21日の朝,病床に来られた奥様に,突然「オギャー,オギャー」といわれた。奥様も思わず「ハッピーバースデー」と祝われた,と聞いたのは最後の日から2日前の往診の時であった。

 

 

 

 

 

 

◆スカウティングに就いての一考察

中村 知

                              昭和25年6月号 日本連盟機関誌

                              ジャンボリー季刊第4号

 

 昨年春,広島県のICE図書館で,1948年版の米国のハンドブックを見つけたので,前年版と比較して読んでみると,進級教程の問題が全く改善せられ,初級,二級,一級とも,(1)スカウト精神 (2)スカウト勤務  (3)スカウト技能 の3つの部門に分けて,従来の科目が分類されているのに,深く興味を覚えたのである。

 従来ともすれば,技術に走りがちなわれわれに,改めて精神教育,特に「ちかい」「おきて」標語・一日一善の生活実践を協調した点,そして隊員が,家庭・学校・教会・郷土において,スカウトとして他に率先して奉仕するということ,もちろん班や隊での勤務にいそしむことを力説し,考査に際してそれらの実績を報告し,父兄・教師・牧師・隣人達のそれ(奉仕活動)についての副甲裏書(上申書のようなものか)を要する点まで叫ばれているのには,全く驚かされたのである。

 米国にあっては,スカウト教育は,正に社会を改善しつつある,という印象を与えられたのである。

 そこで私は公務の余暇に,ハンドブックを翻訳してみる決心をいたし,5月上旬から始め12月末日をもってついに訳了した。但し,自然研究の部分は,わが国の動植物と異なるものが多いので,省略した。

 終わりの方の技能章教程を訳するにあたって,私は幾度も感嘆の声をあげた。いかにプロジェクト教育法が,巧みに各問題を通じてあらわされているかに感嘆したのである。

 そもそも,ベーデン・パウエル卿がこの教育法に,「スカウト」教育法(斤侯教育法)と名ずけた理由は,彼が騎兵将校として斤侯(スカウト)を教育した,その斤侯教育法に起源していることは言うまでもない。

 スカウティング・フォアー・ボーイズという英国の教範を彼が著したその前の1900年に,ロンドンのアルダーショットから,彼は「エイド ツウスカウティング」(斤侯の手引)という赤表紙小型の斤侯操典(勿論これは兵書である)を刊行したが,その巻末の方を読むにしたがって,彼が後年,ボーイスカウト 即ち少年斤侯のプログラムをプロゼクトする過程がほの見えるのである。

 けれどもこの教育法(プロゼクト教育法)を,スカウト教育法と名ずけたゆえんのものは,むしろ「斤侯を養成する行き方を持ってする教育法」と解釈する方が真意のように思われる。端的に申せば「プロゼクト教育法」と言うのと同意語なのである。

 

 「斤侯を教育するには,まず想定を与えて兵に興味を起こさせ,それによって観察し行動することに,プロゼクトの作用がある。

 行動後,斤侯は上官にそれを報告する。上官はそれに就いて講評する。

 兵はその講評を聞いて反省し,この次には悪かった典を改善せんと決意してつとむ。すなわち向上に資する」こにまた第2のプロゼクトが生起する。

 こうしたやり方で,少年を教育しようというふくみから,「スカウト教育」すなわち「斤侯教育」と名ずけたと解釈できるのである。

 世に言うところの「へいわの斤侯を養成するのだ」という言葉も,誤りではないが,しいて「斤侯を養成する」と,”斤侯”という言葉にこだわる必要もあるまい。(プロゼクト教育法でよい)

 

 プロゼクトするとは,「正確な立案,計画をなし,それに興味による活動力を誘導させ,その行動進行の過程に要領と骨子を掴み,具体的に,ある仕事を成し遂げる教育作業の単元である」と説かれている。プロゼクトメソードと呼ばれる。その作業中に,旧知識 すなわち生活経験が働き,同時にそこから新知識を得る。

 ただし,ギルバトリック氏の説くごとく,行動における問題及び目的の要素を,精神的作業を種とする,という一派もある。

 

 

 

 

 

 

◆スカウティングは,プロゼクチングだ。

 

 スカウティングは,プロゼクチングだ。

という考えが,現在私には深いのである。

 そう考えてみると隊長は,隊指導プログラムを立てるにあたって,正確に見通しや狙いをつけてかからねばならない。

 すなわち目的を明らかに,結果の意識を明らかにせねばならぬ。

 次の方法,やり方をどうすればその目的や結果を生みうるかに就いて,深く工夫し,推理し,観察せねばならぬ。

 そんな七面倒なことは,ごめんこうむる。といって興味を覚えないような人は,指導者資格はなかろう。

 そしてその試行した実績は,詳細に記録してテータを作る。反省の所見も記しておく。それを次回の参考資料に供して,もって自己指導の向上に資する。以上が指導者・隊長としてのプロゼクチングであり,スカウティングであろう。

 そう考えるとき,初級のなになにをパスさえすれば,進級できる,という考えは反省に値する。

 テストにパスさえすれば良いのではない。パスするまでにたどってきた,伐り開いたそのプロゼクトに価値があるのである。

 例えば,地形図の読み方 という科目について,私のプロゼクトは,何月何日 xxxxという本で,「地形とは地表と地物の2つの総称で・・・・」ということを知った。所用時間 何分。

 こうしてデータを添えてテストを受けるのが私は正しいと思う。テストにおいてわずか不十分と査定されても,これだけ業績を積んだのなら,立派なものだから,合格にしてあげよう。という場合もあろう。逆から言えば,このデータからして,テストの出し方も案出されよう。

 私は次のような「進級プロゼクト報告」データ用紙(※省略)を全国的に刊行実施されたいと思う。 何回と何時間の努力で,成し遂げたか,方法は? 結果は? 一目で判るのだ。隊員全員もこれを記すが,(隊長は)指導のプロゼクトとして,これに類するデータを作るべきである。

 スカウティングは理論でない。実践である。講義や資料の受け売りではない。自己のプロゼクトの積み重ねであり,体験の科学的反省による向上であろう。

 私は同じ15才の少年でありながら,米国のスカウトと日本の少年との人間としての育ち方と養われた実力の差,業績の差を思わずには居れない。

 米国の少年に比べて,日本のスカウトのよちよちとした歩みを思うとき,私は夜も眠れぬような無念を感ずるのである。

 日本の指導者各位,自惚れを捨てて,やるなら真剣にやろうではないか。

 

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