日本ボーイスカウト茨城県連盟
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資料センター

●目次

●随想(1)

 スカウト象にさわる

 スカウティングと社会性

 偉大なる自発活動

 スカウティングのXとY

 ローバーリングは電源である

 隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 初夏随想・指導者のタイプ

 忘れられない話(その1)

 忘れられない話(その2)

 

●スカウティングの基本

 奉仕とは

 標語について

 何に備え何を備えるか

 新しい時代に生きるスカウト教育

 自発活動(その1)人に対する忠節をつくすのか?

 自発活動(その2)日本人に欠けているもの

 継続と成功

 智 仁 勇

 

●ちかい・おきて

 私見:ちかいの意義

 私見:ちかいの組立(1)

 私見:ちかいの組立(2)

 名誉とは

 名誉について

 “ちかい”のリファームについて

 幸福の道について

 スカウトの精神訓練

 B-Pはおきて第4をこのように実行した

 新春自戒 ジャンボリー

 自分に敗けない

 

●プログラム

 少年がBSから逃げていないか

 強制ということについて

 自分のプログラムというものをよく考えよう

 スカウト百までゲーム忘れぬ

 冬のスカウティングとプログラム

 B-P祭にあたって

 チーフ・スカウト最後のメッセージ

 スカウトソングについて

 1956年の意義・ジャンボリー

 

●進歩制度と班制度

 バッジシステムの魅力

 技能章について

 技能章におもう

 自発活動ということ

 自己研修とチームワーク

 班活動について

 班活動の吟味

 ハイキングとパトローリングと班

 隊訓練の性格について

 班別制度の盲点を突く

 コミッショナーの質問

 グンティウカスを戒める文

 

●指導者道

 指導者とは

 ボエンの意義

 真夏の夜の夢

 万年隊長論

 万年隊長のことについて

 指導者のタイプについて

 ユーモアの功徳

 跳び越えるべきもの

 よく考えてみよう

 

●信仰問題

 私の眼をみはらせた5名

 スカウトと宗教

 スカウティングと宗教

 神仏の問題

 

●随想(2)

 GIVE AND TAKEということについて

 信義について

 昭和27年の念頭に考える

 世相とスカウティング

 道徳教育愚見

 「勝」と「克」 (1)

 「勝」と「克」 (2)

 

●中村 知先生スカウティング随想

 はじめに

 私とスカウティング

 盟友 中村 知の 後世にのこしたものは

 あとがき

 中村先生ついに逝く

 ingとは積み重ね

 主治医としての思い出 高山 芳雄

 医師に対する信頼

 病床の横顔

 スカウティングに就いての一考察

 スカウティングは,プロゼクチングだ。

 

◆ローバーリングは電源である

 

 

 1956年、英国のローバースカウトの制度が改正になったとき、当時の総長ロード・ロウオーラン氏は、「私はローバーたちが、これに対して忠実な支援をおくってくれること、ならびに、ルールを守って、ローバーリングをして、スカウト精神生産工場たらしめるだけでなく、スカウティングの全ての部門が、本当の電力をそこから引くことのできる発電所とするように、このローバーリングを、最善の水準にあげることを望む」と云った言葉を、特記したい。

 次に、B-P、「スカウティングは、組織ではなく運動である」と云った言葉を、これとならんで、考えたいのである。

 このMovement(運動)であるという意味は、たしかに大きなボエンだと思われるのであるが、私にはまだ、確とした意味がわからない。推察の程度でいうならば、スカウティングは、制度や規約や、組織で縛られた窮屈な、発展性のないものではなくて、生物のように、有機体のように、成長し、発展し組織員以外の人々のあいだにも伸びひろがるものだと、いうように解される。見方を変えれば、「運動である」ことの方が「目的」であって、その目的を達するための「方法」として、「組織」がいるのだ、と説いているような気がする。

 私は、こういう見かたから、B-Pとロウオーラン氏のいう「発電所」「運動」という二つの言葉を味わっている。すなわち、スカウティングは、現在、全世界の800万人の青少年にまで及んでいるが、これで満足すべきではなく、この運動は、1000万人の人々、さらに、2000万人の若者や、あらゆる人たちに向かっても伸びてゆかねばならないであろう。数量の上だけでなく、質の面でも、さらに掘り下げられ、層を深め、充実されねばならない。換言すれば、遠心運動と、末心運動の二つの運動を増大せねばならない。そういう「運動」だ、と示し、そしてその電源はローバーリングにある、と、言っているように思うのである。

 すなわち、このスカウティングという大運動のメカニズムには、カビングという部分や、ローバーリングという部分がある。けれども、この、メカニズムにおいて、ローバーリングこそが、その電源だという解説である。

 そこで、もし、ローバースカウトたちが、その使命を怠って、発電しなかったなら、また、発電はしても、弱い電力しか出さなかったとしたら、スカウティングという大運動のメカニズムは、充分な活動をすることができずに、お茶をにごすほかないことになる。

 英国は、前述のように1956年4月1日、電力強化のため、大英断をもって、ローバースカウトの課題を大幅に改正したわけである。

 日本のローバーリングは、1960年現在、そのプログラムもきまらず、発芽期にある。このような制度(進歩制度のような)は、作ろうと思えば、机上のプランで、わけなく作れる。衆智を集めれば、1カ月で出来る。しかし、それでは、「運動」にならない。これが、運動から盛りあがったものとするには、ローバースカウト自らの力で、発芽し、育て、組み立てた制度でなければならない。時日や年月はかかっても、その方が本当である。「根」をもつからである。そうでなかったら、「造花」にすぎない。

 今夏、第1回のローバームート(青年スカウト大会)が、那須日光にわたって催された。全国から、大学ローバー(立教、慶応、大谷龍谷、京大、中央大学)や、地域団のローバーたちが参加した。こんな愉快なものなら毎年集まろう。と皆が云った。最初、「日連は、ローバーリングに対して定見をもたない」とか「案を出さない」とかいう声もあったが、最後には、「自分の舟は自分で漕ぐべきだ」、「ローバーのことは、ローバー自身で建設すべきだ」ということがわかって、少しずつ、電力を出してきた。そして、おわりには、すばらしい成果を、おさめたのであった。

 私は、ロウオーラン氏の、「電源論」を、みんなに、紹介しておいた。

 単位団でも地区でも県連でも、ローバースカウトの発電力がなかったら、機械はうまく動かないだろうと、思う。

(昭和35年11月1日 記)

 

 

 

 

 

◆隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 

 

 

 近頃“逆コース”という言葉が流行する。

 弁証法的にいえば、これは進歩への一つの必然なプロセスで、時計の振子が右に動いたのが次に左に振るのと同じ運動であって、右から見れば左するのが逆コースであり、左から見れば右するのが逆コースとなる。だからどっちみちこれは相対的な見方で、いつの世にも逆コースはあるわけだし、これが進歩の運動法則なのだ。

 そこで、逆コース必ずしも逆ならず---と、いいはることも出来る。そして、この逆コースがもしなかったら、万有は停止し死滅するともいえる。バランスをとる貴重なる運動なのである。そして進歩とは、よりよきバランスの向上ともいえよう。

 水無月というのに、梅雨でこれでは水有月ではないか? と思うだろうが、新暦と旧暦とのズレからこんな疑問がでるのだ。水無月は6月にちがいないが、それは旧暦の6月で、新暦では7~8月頃にあたる。五月雨(さみだれ)というのが新暦6月の梅雨に相当する。

 こんなことをなぜ書くのかというと、今の日本人、特にアプレゲールたちは、モノの本来のワケを知らないで、いろいろの現象、実体を独断的に判断して、幾多の誤りを犯し、自分自身、自家矛盾を作って、あるものは、他人をつるしあげて威張り、あるものは悲観して自殺する例が少なくないからである。この種の“逆コース”を本末テントウ型と名づける。大戦とその敗戦、それにつづく占領治下の十年間、日本の過去と現在とは、まっぷたつに切断されたので、どこか血の通わない部分が出来たため、モノの考え方が断層的になったせいである。

 だが、それだけが原因ではない。明治時代の急速な文物輸入と、いわゆる先進国の仲間入りをあせった結果から来る、消化不良の固疾が今では慢性になって、こいつが第二の原因になっている。

 『多数決だから、それはよいことにきまっている!』と、いう頭も、この病気のせいである。『そのことがよいから、多数の者が賛成するのだ!』この方が正解であり、真理である。しかるに多数決は常に正しいという逆コース的判断は本末テントウ型で誠に困ったものだ。このような逆コースは、決して進歩をもたらさない。衆をたのんで『真理』をおおいかくすもので、政治では多数党横暴となり、経済面、社会面ではいろいろの闘争を起こし、結局『勝った者の天下』という勝敗世界に日本を陥れる。いつになったら真理日本が現出出来るか? すこぶるなさけない。

隊長がエライか? 地区委員がエライか?

 エヴァンソン氏著『地区運営』(Evenson "District Operation")の14ページに隊長が隊長本来の任務を忘れて、地区委員の仲間入りをして行政面にタッチすることを得意とし、自分の身分が何階級も上昇してスカウトのオエラ方の仲間入りをしたかのように考えるのはとんでもないことだ---とボエンを喰わしている。そして『彼(隊長のこと)は、スカウティングの中の単位隊指導者に、既になっていることを忘れているのだ! 彼は多くのスカウターの中の最高の階級に彼がなっていることを知らなかったのだ!』と警告している。

 この隊長最高論には私も大いに共鳴する。さきに、万年隊長論を書いたのも、表現の仕方は違うが、エヴァンソンの心境と同じ所意にもとづいている。地区の委員や、コミッショナー、県連の理事やコミッショナーなどが、隊長よりエライという考え方、隊長からそれらの職に転ずることは、栄進であるとみる考え方には私は大反対である。地区県連のそうした人々の側でも、隊長よりオレの方が上役でエライと、もし考えるならば、とんでもないくわせ者である。かかる本末テントウ的逆コースは是正されねばならない。

 私は思う---隊長以外のスカウター全ては、ことごとく、隊長への奉仕者助言者であると。エヴァンソンは、県連はスカウティングに奉仕する『まかない方』だといっている。或いは車掌さんである。乗客は隊長である。総長を始めとした理事長、理事、局長等々は、皆隊長に奉仕するために存在している。

 ただし、私は隊長諸君にも申し上げたい。もし君は1級はおろか2級の指導も出来ないようなら、一人前の隊長でスカウターの最高位だ---と、うぬぼれないこと。一人前の隊長とは、少なくとも10人の1級、30人の2級を作りあげてから言い得るのではあるまいか?

 それだけではない。B-Pの意図に即するとおり、本当に班制度を活用しているか? 或いは今はまだ年月浅くしてそこまで到達しないけれども、そうする努力に人並み以上励んでおり、基礎だけは出来た---と、いうのなら。

 隊長より地区委員の方がエライ、地区委員より、県連理事の方がエライ、理事長はその中でもエライ、日本連盟の理事は、それよりエライ…というような考え方が、もし実在するならば、それは二つの大きなミステークがある。それは

地区を通じて、県連なるものは隊の連合組織だと誤り考えているためである。

県連は決して師団司令部や総本部ではない。日連も然り。むしろ、県連、地区は加盟育成団体の要請によってスカウティングを、大成せしめるため隊長たちに協力する奉仕後援連合会なのだ。

 

委員とか理事とかいう個人には執行力も何もない。

委員会とか理事会とかいう機関にはそれはある。彼等一人一人の個人には、単にその会のメンバー(一員)たるにすぎぬ。個人の彼がその会(委員会、理事会等々)から業務執行を委託されて、その会としての仕事を行う場合の彼は公人であろうし、当然業務を行う権利義務をもつが、そうでない場合、彼は単なる個人である。外国語には委員とか理事とかいう言葉は委員会のメンバーと表現している。機関とそのメンバー、公人と私人の立場をはっきりしている。隊委員会(団委員会)なども同様である。こういうことがハッキリわからず委員だから理事だから、議員だから、代議士だから---エライ特権がある、と考えるあいだ日本のデモクラシーは、半熟である。

 

 今やハイキングの好季節である。

 アメリカの本を見ると、隊委員会は、その隊の全ての少年に、年間少なくとも十日十夜のハイキングと、キャンピングをさせることを義務づけているようだ。(ただし、そのハイキングとはどこかでやっているような、お弁当持って、毎日曜江ノ島に遊びにゆくようなとはちがう。)

 2級訓練は主にハイキングで、そして1級訓練は主としてキャンピングで---という通念に従えば、今や2級と1級訓練の好機である。

 各隊とも、この機を逸せず少なくとも5人の2級1人の1級を作ってほしい。32人の一隊で2級は少なくとも10人欲しい。それは、

  1. 班が4つとして班長として4人。

  2. カブ隊が生まれるとして4組のデンチーフとして4人(6組-最大限-なら6人)

  3. あとの2人は他の任務に。

 

2級がたくさん出来ないと班別制度の充実に、進級制度の操作に、技能章課程の実施に、ひいてはシニアースカウトのプログラム展開に、そしてカブスカウトの組織に一大支障を来すのである。

 2級がたくさん出来るか出来ないかは、スカウティングの死命を決するヤマである。

(昭和27年6月5日 記)

 

 

 

 

 

◆初夏随想・指導者のタイプ

 

 

 隣の家から金魚を3尾もらった。早速ガラスの金魚鉢を買って来て入れた。一本の金魚草が入れられており、底の方にはきれいな小石が沈んでいる。

 それを見ていると、いかにも初夏の気分がするし、見とれている自分は童心にかえったようである。

 金魚は、赤と黒と、そのまだらとの三種でまことに鑑賞に値する。水の深さは25センチもあるので、彼等は上ったり下ったりしてかなりの運動をたのしんでいる。

 あくる朝、私は床の中から金魚鉢を眺めた。その小さい宇宙の中には、美しい朝の光線によって、平和な小世界が、たしかに実在している。造物主は、まことに霊妙な制作をし給うたものだと感心した。あの小さい魚の体内には、呼吸器もあるし消化器もあるのだ。骨も血管も神経もある。感覚器官や運動機能もある。生命体、組織体、有機体として一応完備したその個々のものである。その個々は絶対的個体であって、その一小部分ですら他の生物と取り替えることの出来ないものである。

 彼等は、金魚草にたわむれて遊び、水中の酸素を吸い、小石の苔を食う。動物、植物、鉱物の関連、相互扶助、共栄、バランス、そして調和から来る平和の世界が示されている。これは、スカウティングの在り方への示唆のようである。

 けれども、金魚たちは大海を知らない。それを知れ、というのは無理である。彼等は塩水にむかないからである。

 そこに限界というものが厳存する。

スカウティングは、まみずでもあるししおみずでもあるらしい。そのしお水は世界の七つの海にあふれ、五大陸の岸を洗う。スカウティングは、五大陸、七つの海にゆきわたっている。

 その塩水に、世界の少年少女や青年、そして大人までが洗われ、浄められ、毎日毎夜を幸福に暮らしている。平和に。

 これは金魚鉢の、もっと、もっとでっかい一種ではあるまいか。

 もしかして指導者たちが、もう、スカウティングの免許皆伝を得たかのようにうぬぼれるならば、大海を知らない金魚と変わるまい。

 金魚や金魚鉢には限界が厳存するが、スカウティングには限界がない。

 人間には悲しいかな限界がある。限界のある人間が、限界のないスカウティングと共に在りたいと念ずることは、また、念じてそれが叶えられつつあることは、本当に本当に感謝にたえないよろこびである。

(昭和33年6月16日 記)

 

 

 

 

 

◆忘れられない話(その1)

 

 

 

 1929年の夏、私はギルウェルパークの第71期スカウトコースのクックー班に入所を許された。この班は何人いたのか記憶がないが、8人あるいは9人もいたかもしれない。なにしろ今を去る33年の昔のことである。

 私以外は皆異国人だ。従って印象に残っている顔姿も少ししかない。ビルマの鉱泉会社の社員だという英人(この人の話が本稿の中心となる)と、消灯後1時間ぐらいベッドの上に端座して、お祈りをしていた若い清教徒の英人、すばしこく要領のいいデンマーク人、それにセイロンの黒光りするヒョウみたいな小柄の男(ネービスという名、この男の名前だけおぼえている)このほかにフランス人が一人いたようだ。あとは全然記憶にない。

 ビルマから来た英人、仮にA君としておこう。この男は年令30代(当時、私も36才だった)中肉中ぜい。筋肉の頑丈さからみて私は軍人あがりだろうと思った。私はいつもこのA君とコンビになっていた。炊事当番の時でもこの男と二人でした。彼は私を“Mura”とよんだ。私の苗字の後半だけをよぶわけ。

 入所第1日の夕食から二人は炊事係となった。A君は私に「ゲッツ、ムルキ!」と命じた。ムルキとは何か、私にはわからない。ムルキとは何か? と聞くと、目をとび出させて私の顔をAはにらむ。スペルとたずねるとM、I、L、Kだという。なアーンだ、牛乳か…と私は彼をにらみかえした。そして牛乳を貰いに行った。英人は、iをUと発音し、aをアイと発音することに気づいた。

 わがクックー班は、9日間のコースの内の6日間、連続優勝した。これは地の利と人の和のたまものであった。みなよくやった。終わり頃、1泊の1級ハイクに出かけた。ギルウェルの方式によると班長、次長は毎日交代するが、1級ハイクの時だけ班の中の一番優秀な者が選ばれて班長をつとめることになっている。

 A君がそれに選ばれた。次長は班長が自由に選任するのが英国のやり方だ。私はAから次長を命ぜられた。よし、ひとつ日本のよいところをみせてやろう、と私は承諾してAの手を握った。

 ハイクのパトローリング隊形、これは英国流に非常にきびしい。各員がうっかり互いの間隔をつめると、班長はすぐ号笛を短奏して注意する。次長は一番先頭をきるので私は実に快心のよろこびを抱いた。地図と想定書を持ち、ぬけ目なくあたりを観察してサインとか異変を発見する。エピングの巨大な森野中を進むのである。

 自分はこれまでに日本の中央実修所を3回と地方実修所を1回終了し、常設近畿地方実修所の副所長兼隊長であるし、大阪藩長である。少なくともハイキングについては人一倍やかましい奴だ。そこいらのヘッポコに負けてたまるもんか---と、自分勝手なことを考えながら、まてよ---向こうからバイクで来る男はスパイらしい。観察また観察、腕時計で時刻を確かめてノートする。コースはエピングの森を北に向かうとみてとった。コンパスは最後の必要な時以外、見てはならないことになっているからだ。だいぶん歩いたとき複雑な辻に来た。五辻になっているのだ。ふと見ると草むらの中に置手紙を見つけた。次長たるものが見のがしてなるものか! 駈けていって開封すると、「この五つ辻を北に進み約1マイル3/4の地点にある教会の尖塔にある風見車(注・ウエザーコック)を写生せよ」と書いてあった。

 私はちょっと立ち止まって周囲に眼をくばった揚句、よし、この道だとばかり今来た道の延長線、すなわち方角をかえることなく五つ辻のまん中の道を選んだ。すると、うしろで班長が号笛を吹いて私に停止を命じ、片手信号で分岐点まで戻れという。

 これは面白い! 彼の方位判断と私の判断との対決だ。ひとあわふかしてやろう、と悠々と分岐点へ戻った。班長は、「この道だ!」といって斜め右に行く道を示した。「スカウトは服従する」という英国のおきて第4に従って私は班長の命ずる方向に進んだ。

 一面の森とジャングルとの中に作った舗装道路だ。私は分岐点を出る時、そっと時計を見ておいた。ここから1マイル3/4の地点か---教会々々と前方を見つめ、かつ、時計をしらべた。分岐点から10分、15分…来たのに教会らしいものが出てこない。18分になる。ピッ、また班長の笛だ。私はとまった。それみろ、と思って班長のところへとんでいって、ぼくの判断の通りだろう、こうなったら、このジャングルを左へまっすぐ横断すれば、必ず教会へ出られるからジャングルの中をもぐろう---と、私は班長の肩をたたいた。すると班長は大声で、「ノー」と叫び、「進路をあやまったら一旦分岐点まで戻るのがルールだ。戻ろう」という。私は不満だった。そんな手間をとらなくてもよろしい。自分のカンに狂いはないのだからジャングルの中をつっきろう、と云った。再び「ノー」と班長は叫び、次いで「命令だ」といって全員分岐点まで戻るよう命じた。

 五辻に戻ると班長は、なにやらひとりごとを云いながらコンパスを出して、路上においた。私はすぐ、近づいてコンパスをのぞきこもうとした。チラと見ただけで私は自分の判断した方位が正しいことを見てとった。そのトタン、班長は私を抱くようにして約1メートルあまり私をコンパスから遠のけ、彼もその位置に直立したまま根気よくコンパスの針の静止するのを待つのである。

 私は、はっきり「やられた!」と自覚した。英国のスカウトは、コンパスの見方を基本通り実に馬鹿正直に実行しているのだ。腰にはスカウトナイフだの金物だの、コンパスに影響を与える鉄性のものがないとも限らない。そんなことぐらい日本の2級スカウトでも充分知っている。知っていて実行しない。これが日本人の欠点だ、と私は自責した。

 結果的には私の方位判断が彼にすぐれていた。その証拠に教会のウエザーコックを発見してスケッチをした。その地点は、さきに誤って進んだ道からジャングルをぬければ、今までかかった時間の3分の1ぐらいの短い時間で教会が見えたであろう。

 日本のスカウトならおそらく10人中、8人か9人までは、私のようにジャングルをぬけて近道を選ぶであろうが、馬鹿正直と笑えば笑え、ルールに忠実であり、B-Pに誠実なスカウトは、単に英人に限らず、わざわざ分岐点まで戻って、正しいコンパスの使用法を実行して私心のないスカウティングを実践するだろう。私は一生の教訓を受けた。このハイキングにも、わが班は優勝したが、その印象よりもこの教訓の方が、うれしかった。

 ある朝、A君と私は2度目の炊事当番になった。今はないそうだが、その頃のコースには料理法のテキストが備えてあった。

 「玉子を班の人数分だけデキシー(鍋の名)に入れ水を入れて火に15分間かけること」なアーンだ、玉子をゆでるのか、と私は思った。幸か不幸か連日上天気で薪はよくかわいている。土もかわいている。火はどんどんもえた。マッチ1本で点火できた。まもなく鍋の中はふっとうしたらしく玉子が音をたて湯気はぷっ、ぷっと、鍋のふたをつきあげてきたので、私は鍋を火からおろそうとした。

 するとAは腕時計を見ながら「ノー、ノー」と連発した。次の言葉は「あと27秒ある」という。私は驚きかつあきれ、同時に感心した。あとで私は、15分というのは標準だよ、快晴の夏の野天で、あんなに火勢が強いときは14分でも13分でも出来あがると思う、というと、彼は、「それは、わかっている。けれどもルールはルール、命令は命令だ。」とうそぶいた。いったい、どっちが本当のスカウト的なんだろう、と私は今でも考えさせられることがあるが、Aのいうことはやはり正しいと思う。

 基本を学ぶ者の姿は馬鹿正直でなくてはならない。誠実こそ「基本の基本」だと思う。日本人は特有のカンにたよる傾向があり、その上、結果だけを考えて、方法を正規にふまず、はやまくで要領よくこなす癖がある。これではモノは出来ても人間は出来ない。

(昭和37年1月13日 記)

 

 

 

 

 

◆忘れられない話(その2)

 

 

 

 1929年(昭和4年)7月14日は日曜だった。われわれ日本からの派遣団28名は、ギルウェル野営場でもう5日目のキャンプを迎えた。前日の土曜にロンドンからテントをかついでキャンプに来ていた英国の多くのスカウトたちは、遥か東の日本からこんなに多くのスカウトが来ているとは想像もしなかったらしく、私たちのテントにあそびに来て、物珍しそうに質問やら会話をし、お茶(紅茶)を味わったりしていた。

 その少年の中に、15才になるJ(名は忘れたのでJとしておく)というスカウトがいた。ロンドンのある銀行の給仕をしているとかいった。たぶん2級スカウトだったと思う。

 たのしい週末の一泊キャンプを、はからずも日本のスカウトと語った彼は、夕方、すっかり帰り支度をして、われわれのテントにやって来た。さよならをいいに来たのだ。彼は帰りがけに、何かお役にたつことがあったら命じてください、といった。わたしたちは彼のスカウトらしい申し出をよろこぶとともに、あることを思いついた。それは写真の現像と焼き付けをロンドンのDP屋でやってもらい、それをここまで持って来てほしい、というたのみであった。近くのチンフォードの町にはDP屋がないのと、われわれはジャンボリーのため月末にはギルウェルを出発しなければならないし、その前に、スカウトコースに入所する者もいるので、ロンドンまで出かける時間がない、という説明をこの少年にした。その結果、J少年は快くひきうけてくれたのである。数人が彼にたのんだので相当の量になった。

 さて、こんど君は、いつ、ここへキャンプに来るか? とたずねると彼は、次の週末は、隊集会で来られない。だが、ウィークデーに何とか都合して持ってきてあげます。と約束して帰って行った。

 あくる日7月15日、第71期スカウトコースが始まるので吉田、中村、田村、阿左見、吉川、小林の6人はそれぞれ入所した。22日からはカブコースに幾人か入所した。入所しなかった者は別のプログラムをしていた。

 何日だったか記憶にないが、スカウトコースを出てからはもう、ジャンボリー行きの準備で連日多忙だった。ある日、夕方といいたいが、ここでは日没は9時半であるからまだ夕方という感じがしないが、6時頃、野営場の(スカウト用の)門のところで大声で呼ぶ者がある。その頃、日本のテントしか立っていないので、きっとわれわれを呼んでいるにちがいない。一体誰だろう? と思っているうちに誰だったか「あっ、Jだ、Jだ」という。そうか、たのんだ写真を持って来てくれたらしい---と、みんな気づいた。そこでこちらも大声で「よう、はいってきなさい」と叫ぶ者、「おいしいお茶があるよ---」と、いう者、だまって手をふる者、…。

 ところがJ少年は、門の棚によりかかって手を左右にふって、「入れない」と合図をするばかりである。

「なアーンだ。はいってくればよいのに---と、ぶつぶついいながら、二、三人駈けて門のところへ行った。

 J少年は、たしかに、たのんだ写真の現像と焼き付けとを一括して大きな封筒に入れて持ってきてくれた。別の封筒には代金の勘定書とツリ銭がはいっていた。

 「ありがとう---」と私たちは肩をたたいたり手を握ったりした。

 ロンドンから汽車に乗って約30~40分、そして歩いてまた30~40分、わざわざ届けてくれたので、せめてお茶ぐらい接待しよう、と考えたから、私たちは、テントまで来ないか? とさそった。ところが、彼の返事は実に意外だった。

 「君たちは、この門のわきの掲示板が見えないのですか? スカウト服でない者は入ってはいけない---と書いてあります。ぼくは、今日は銀行の帰りですのでスカウト服ではありません。だから、はいれません。」

 いかにも、それはギルウェルのキャンプチーフのかかげた掲示である。

 「だってもうやがて日は暮れるし、ほかにだれもいないから、はいってもいいじゃないか」と、ある一人が笑いながらいうと、J少年は直立不動の姿勢で、

 「ぼくらが作ったルールを、ぼくらで破れますか?」といいきった。

 この一言に全く私たちは一発くらった。

 「わるかった」と、口の中であやまり、頭をたれるほかなかったのである。

 昔、ウォーターローの戦で、ナポレオンを破って世界の英雄となった英国のウエリントンは、その光栄につけあがって手のつけられない権力者になった。ある日、馬に乗り多くの従者をつれてロンドンから田舎へ出かけた。そこにとても大きい牧場があった。牧場の外をぐるりとまわったのではとても時間がかかる。そこで彼は牧場の中をつききろうと一むちくれて馬を牧場に乗り入れた。すると1人の少年があらわれ、入ることならん、と両手をひろげた。ウエリントンは、馬上にふんぞりかえって

 「おれを誰と思うか? ウエリントンだぞ!」と、どなった。「ウエリントンだろうと誰だろうと、ここを通ることはならん」少年の眼には怒りの光さえさした。「きさま、なまいきなやつだ。一体誰にたのまれてじゃまをするのか?」

 「ぼくは番人です。牧場主のいいつけをただ忠実に守るだけです。」と答え、さらに一段と男らしく、

 「それが、ぼくのデューティーです。」と、直立して叫んだ。

 ウエリントンは、そのけなげな少年の最後の言葉に打たれた。そして馬からおりて帽子をぬいでこの少年にあやまり、遠まわりして駒を進めた。

 この話は、私が子供の時分、本で読んだ有名な話である。

 今でも英国には、デューティーを果たす立派な少年がいることに私は感心した。

 そんな思想は封建的だ---と、けなす人があるかもしれない。主人、主君、傭主、上長からのいいつけに盲従したり、虎の威をかりる狐みたいに権力者をカサに着て威張るならばそれは封建的であろう。

 「わたしたちが作ったルールを、わたしが破れますか?!」という言葉には自主性がある。たとえそれは、ギルウェルの所長が作ったおきてなのであっても、結局スカウトが作ったのだからスカウトがこれを守ることは当然である。おきてというもの、ルールというものは自分が作ったのではなくヒトが作って、押しつけるものだ、と考えるから交通規則も中々実行されない。そんな連中になると自分が作ったものだったら、誰にはばかるところなく、一層破り放題破ることだろう。

 よい話というものは、今を去ること33年前の話でも、昨今の話のように、心によみがえり、心をうつものである。

(昭和31年6月5日 記)

 

 

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